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未確認飛行物体

未確認生物(みかくにんひこうぶったい、、)とは、その名の通り、何であるか確認されていない(正体不明の)物体のこと。「未確認飛行物体」という用語は、本来航空・軍事用語であり、当局で把握できていない航空機や観測気球、他国からのミサイルなど々さまざまなものを指す。進路を見失った飛行機、他国のスパイ機、仮想敵国の先制攻撃、さらにはミサイルの可能性があり、事故のみならず国家の安全を脅かす可能性すらあるためにスクランブル(緊急発進)の対象となる。空軍などの航空交通管制においては、レーダーに捕捉された正体不明の飛行物体に対しては、それが何であるか確認できるまで、警戒態勢を取る緊急の必要があるため(特に、レーダー電波を明確に反射する金属製の物はミサイルかもしれず危険な可能性がある)、「何かがこちらに向かって飛んでくる」という注意を喚起するために「未確認飛行物体接近」と表現する。逆に正体を確認済みのもの(飛行計画が配信された旅客機や民間貨物機、鳥の集団など)は確認済飛行物体と総称する。必ずしも物体ではなく、自然現象を誤認する場合もあるため、未確認空中現象が用いられることもある。実際に飛行しているところが目撃されなくても、飛行可能と思われるものが着陸していた場合などにも使われる。水中に目撃されたものは未確認潜水物体ということもある。航空・軍事用語としては上記のような用語ではあるが、一般雑誌やテレビ番組では異星人が乗る飛行物体という意味で使われる場合が多々ある。とりわけ、超常現象を扱う一部のテレビ番組、雑誌、Webなどでは、空飛ぶ円盤、地球外文明の宇宙人(エイリアン)が搭乗する宇宙船(エイリアンクラフト)の意味で「UFO」が用いられているケースが多い。未来から来た人間のタイムマシンという憶測もある。したがって、一口に「未確認飛行物体」といっても「航空・軍事用語として用いている」のか「超常現象用語として用いている」のかを区別する必要がある。未確認飛行物体を超常現象として捉える考えはフィクションの題材として用いられており、多数の映画、小説、テレビ番組などが製作、出版、放映されて、興行的成功を収めている(映画「未知との遭遇」など)。ユーフォロジーとは未確認飛行物体を超常現象であるという解釈に基づいて行うUFO研究のことである。航空軍事用語としてのUFO(アメリカ空軍、海軍の公式用語)とは意味が異なるので、はっきりと区別し混同してはならない。UFO目撃現象の分類として、高々度や宇宙空間での目撃、車が追跡された事件、電気的・機械的な影響を及ぼした事件、人間に心理的、物理的影響を与えた事件、着陸の痕跡を残した事件などがある。奇妙な泡を残して、海中に沈む様子が目撃された例もあれば、その姿形は円盤型であったり三角形型であったりと描写は様々である。UFOと共に搭乗者が目撃される例もあり、それらは「第3・4種接近遭遇」例とも呼ばれる。「」は「」の頭文字であり、英語では「ユー・エフ・オー」と読まれている。ただ、この言葉をアメリカ空軍の公式用語として採用した大尉は、自著で「ユーフォー」としており(アクロニム)、古くはこの読みも行われていたことがわかる。米国で円盤形の飛行物体を指す場合、通常は「flying saucerフライング・ソーサー」(空飛ぶ円盤)と表記される。この用語は主として超常現象として扱う文脈で用いられる。一方、日本では1950年代から1960年代の末期までは飛行物体の形状の差にかかわらず全て「空飛ぶ円盤」で総括的に呼称されるのが一般的だった。古くは「ユー・エフ・オー」の様に読んでいた。例えば日本では1970年に放送されたテレビドラマ『謎の円盤UFO』の日本語版タイトルは「なぞのえんばん ユー・エフ・オー」となっていた。だが、世界の怪異現象やオカルトを興味本位に紹介する特別番組などでは早くから「ユーフォー」の読みで紹介されていた。現在日本では「ユーフォー」の読みが一般的だ。アメリカ空軍の公式用語では「」はあくまでも「正体を確認できない飛行物体」を意味する。だが、超常現象を扱うバラエティ番組や雑誌の影響で、「=|異星人の乗り物」というイメージ、「」を宇宙人の乗り物の総称のように扱う用法が一般市民の間に定着した。ただし、もしも仮にあるが異星人の乗り物だということが判明し確認されると、その時点で「未確認」ではなくなるため、その後はそれを「」と呼び続けるのは誤用となる。が、正体不明の飛行体について語られる際には「(異星人による)未知の技術の乗り物であるか、あるいは地球上の既知現象であるか」といった争点が中心になることも多く、研究においても「異星人の乗り物」を意味するために「」という語が便宜的に用いられることも多い。アメリカ、イギリス、フランスのように、「航空軍事用語としてのUFO」の存在を認め、記録している国は多い。しかし、未確認飛行物体の記録が多数あるということは、空軍の警戒体制が不完全であることを示すため、該当国の政府にとっては不都合なことでもある。そうした姿勢が反映されることもあるため、公式調査は民間研究者などからの批判を受けることも多い。UFOは正体のわからない飛行物体であるので、根拠をもって分類することは不可能である。ここに述べた分類におけるUFOは地球外文明の宇宙船=エイリアンクラフトであるという解釈に基づいており、本来の意味、すなわち航空軍事用語としてのUFOではない。アダムスキー型・円盤型・皿型・球型・半球型・三角形型・光点型・葉巻型・十文字型・V字型・マウス型・クラゲ型・ 人型・ ロッド型・ ドローンズが考案した。UFO目撃者からの観測パターンによる分類。古代・中世の時代から、超常現象としてのUFOと思われる物体は度々目撃が報告されており、古代文明の遺跡から出た土器や壁画に「異星人」のような姿をした画像があるとする解釈がある。浦島太郎など古来より伝わる幾つかの神話・おとぎ話は、宇宙人やUFOとの遭遇を元に作られたという説を唱えるUFO愛好家がいる。いわゆる宇宙人らしきものとともに目撃される例もある。これらは遺跡の解釈の問題でもあり、すぐには事実と認定できない。また宇宙人が確認された例はまだない。飛行機からの目撃例が多い他、なぜか軍事施設や原子力発電所の近辺、戦争中に目撃される例(第二次世界大戦中のフー・ファイターなど)が多い(アメリカ同時多発テロ事件の際にも、2機目が突っ込んだ前後2〜3秒ほどの間、UFOを付近で目撃したという発言が多発した。うわさは存在するが情報の確認は行われていない(同項目を参照)。以下ではUFO目撃史において代表的とされる事件を挙げる。(なお、以下の例では航空軍事用語とエイリアンクラフトとしてのUFOが混在している。)分類可能なものはハイネック博士による分類法などにより年代順に整理する。(→#アレン・ハイネックによる分類)以下はパイロットなどが近距離から未確認飛行物体を目撃した代表的ケースである。中世からUFOの目撃談は多数報告されていたが、近代においては、第二次世界大戦中に未確認飛行物体が戦闘が激しい地域を中心に度々目撃された。「フー・ファイター」とは連合国の兵士たちの間で使用された「未確認飛行物体」の総称である。夜でも眩いほど発光しながら正確な編隊を組んでいたり、信じられない速度で飛行したと伝えられている。アメリカ本土付近で目撃された際は「ドイツの新型爆撃機だ」「大日本帝国が秘密兵器を飛ばした」、「近海に日本の大艦隊がいる」、「ついにドイツの科学力と日本の航空技術が結ばされてしまった」など、アメリカ軍の間では様々な噂が飛び出した。実際に1942年に日本海軍の艦載機がアメリカ西海岸を空襲したり、日本海軍艦船がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊やカナダ沿岸の軍施設などを艦砲射撃したこともあり、日本海軍艦艇がサンタバーバラを砲撃した翌日未明には、後に「ロサンゼルスの戦い」と呼ばれることになる未確認飛行物体の目撃と、それに対する大規模な攻撃がアメリカ陸軍によって行われ、死傷者まで出す騒ぎになった。また大戦後期のドイツは原爆(原爆は日本も開発していた)やV2ロケット開発に着手し、当時の水準では世界一ともいわれている科学力を持っていたため、戦後になっても「実はドイツは円盤型の超音速戦闘機を完成させていたのではないか」などの憶測を飛ばすことになった。そのためか、架空戦記ではドイツ軍の円盤型戦闘機などがよく登場したりする。逆に、連合国側だけでなく日本軍やドイツ軍でも未確認飛行物体が目撃され、戦地で噂になっていた。1947年6月24日にアメリカ人のケネス・アーノルドが、ワシントン州上空で9個の奇妙な物体を目撃した事件。この事件の影響により「空飛ぶ円盤(フライングソーサー)」という語が普及した。1948年7月24日、イースタン航空DC-3便で航空中のクレランス・チルズ機長とジョン・ホイテッドと乗客は、巨大な光が途方もない速度で接近してくるのを目撃した。その発行物体が近づいてきたとき、パイロットは、それが葉巻型でその側面には2列に並んだ窓らしきものがあり、そこから光が漏れていて、後部から輝く赤色の炎が出ている姿を目撃した。その物体は急角度でターンし、時速約700マイルで上昇し上空に消えていった。周辺地域を航空中の他の機体のパイロットも同時刻に同様の物体を目撃した。明らかに判別能力がある複数の目撃者が存在することにより有名になった事例である。当時、周囲には航空機の類は飛んでいなかった。地上でも「異常に明るい隕石」を目撃したという複数の報告が寄せられた。そこでアメリカ空軍はこの事件で目撃されたものは隕石であると公式に発表した。当時は隕石が集中して見られる「隕石シャワー」の時期にあたり、事件当日は14個の隕石が目撃されている。隕石の尾は繊維状の構造をしているため、これが「窓」などに見間違えられた可能性はあるし、飛行物体の尾部の炎は、隕石の尾であるとも取れる。しかし飛行物体が衝突直前に方向転換をしたことは、この説では説明がつかない。またチルズ機長は、飛行物体にはレーダーのような棒の付いた明るい操縦席があり、後部からはノズルのようなものが突き出していた、とも証言している。1952年7月、パンアメリカン航空の大型旅客機DC-4が航空中にUFOを目撃した。主な目撃者は同機を操縦中のナッシュ副操縦士とフォーデンベリー航空機関士、その他複数の乗務員たちであった。バージニア州上空近くのハンプトン水道上空を航空中であったDC-4は、突然現れた6つの円盤型の発光物体を目にした。円盤は次々に旅客機に接近してきたが、突然に「ピストルの弾丸が石の壁に当たって跳ね返ったように急激」に方向転換し、編隊を組んで西へ遠ざかっていった。その直後にさらに2つの発光体が出現し編隊に加わった。乗務員たちの証言によると、円盤の光は動力源と何か関係があるようで、減速すると光が暗くなり、加速すると輝きが増した。円盤は150度の急激な方向転換をしたにも関わらず、重力や慣性の影響を受けている様子はなかった。またナッシュとフォーデンベリーが円盤の速度を推定した結果、控えめに見積もって時速19200キロメートル、音速の16倍であるという数値が出された。円盤が出現した時間には気温逆転現象はなかった。また近くを空軍のジェット戦闘機が5機飛行していたが、調査の結果、目撃事件とは無関係の機体であったことが判明した。1954年6月、ニューヨークのアイドルワイルド空港を離陸し、ロンドンへ向かった英国海外航空(BOAC・現在のブリティッシュ・エアウェイズ)のボーイング377“ストラトクルーザー”旅客機のハワード機長は、上空を飛ぶ巨大な葉巻型のUFOとその周囲を守るように飛ぶ小さな6機の小型UFOを目撃した。同機とUFOはしばらく平行して進み、やがてカナダのニューファウンドランド上空でアメリカ空軍の戦闘機が接近すると、小型UFOが葉巻型の母船内に収容されるとともに母船が縮小し、やがて飛び去った。なお、この一連の動きは同機の他のパイロットや客室乗務員、乗客によっても目撃されたと伝えられた。1972年、高知県高知市東部にて、当時の中学生たちが両手に乗るほどのサイズの小型UFOを捕獲したとされる事件。1982年11月にポルトガルの空軍パイロット3名が飛行中に、直径3mの円盤型で金属製のUFOと遭遇した。UFOは停止したと思えば空軍機の周囲を旋回して付き纏ったりと不規則な動きをした。後にもう1機の空軍機が応援に駆けつけUFOと対峙した。最後にUFOは非常な速度で飛び去った。後の民間研究では、否定派の科学者がUFOは気球だったと主張したが、目撃したパイロットたちはその意見を否定した。1986年11月17日に日本航空の貨物機が、アメリカのアラスカ州上空でUFOに遭遇し追跡された事件。RVとはレーダー機器と目視で同時にUFOが観測された事例だ。1951年にT-33のパイロットとそれに搭乗していた空軍中佐はニュージャージー州フォートマンモス上空で、直径35フィートの銀色の円形物体を目撃した。パイロットが物体を迎撃しようとすると、物体は120度ターンして南へ向かった。同時刻、フォートマンモスのレーダー操作員は時速400 - 700マイルの速度で走る物体を捕捉したが、すぐに物体を見失った。翌日も同様のパターンの物体が捕捉されたが、対象は出現と消失を繰り返し、非常に高速で不規則な動きをするため追尾は不可能だった。この事例は、未確認飛行物体そのものと、レーダー反射の両方を空軍が観測できた事例として当時センセーションを巻き起こした。1956年8月13日、イギリスのレイクンヒースにある空軍基地のレーダーに突然に、推定時速3200キロメートルで動く未確認飛行物体が捕捉された。同時刻、航空管制タワーの職員が「超高速で飛行する明るく輝く光体」を目撃すると同時に、高度1200mを飛行中のパイロットからも同じ内容の目撃報告が入った。同時刻に4か所から目撃された飛行物体は空中に静止したと思うと、突然時速950キロメートルで直線的に移動し、90度の方向転換をし、また静止するなど、ほぼ40分間にわたって位置の変化を繰り返した。米国空軍と英国空軍の協力体制により、物体の正体を突き止めるため戦闘機が発進された。要撃機のパイロットが飛行物体に近づくと、飛行物体は突如消失し、戦闘機の後ろに追尾する形で出現した。パイロットは対象が背後にいると知らされると、すぐに振り切るための回避行動に移った。しかし、急激な上昇、下降、旋回を10分間繰り返しても飛行物体はパイロットが操る機体の後方にピタリとくっついていた。レーダー上には、全く同じ速度で飛行する2つの飛行物体が表示されていた。戦闘機のパイロットが燃料切れのため基地に帰還すると、飛行物体は動きを止めた。パイロットは飛行物体について「きっちり捕捉できたのだから、何か実体のあるものなのは確かだ」と無線で語った。さらにもう1機の戦闘機が飛行物体に接近を試みたが、まもなくエンジンにトラブルが起き追跡は不可能となった。飛行物体は時速950キロメートルでレーダーの捕捉範囲外に消えた。なお、基地の地上要員もこの物体を目撃しており、物体は円型であり複数の飛行物体と編隊を組んだまま飛び続けた、と語った。事件当時の夜は晴れており視界は良好で、ペルセウス座流星群なども見られたが、その後の調査により飛行物体は流星とは何の関係もないと結論された。この事件は数あるUFO目撃の中でも最も入念な観測がされたものであり、後の調査コンドン委員会では、最も奇妙で異常なUFO事件だと結論された。1976年9月19日、イランのテヘラン上空で強烈な光を放っているUFOが目撃され、イラン王立空軍のF-4戦闘機2機が迎撃に向かった。レーダーの反応はUFOが非常に巨大である事を示していたが、UFOに近づくと機体の計器や通信機器は動作しなくなった。戦闘機が基地に引き返すと、その後を追うようにUFOは基地にも出現し、管制塔から目視確認された。やがて基地の管制塔の機器も動作不能に陥った。2機の戦闘機は再び飛行物体に接近し、それが巨大な葉巻型であり、赤やオレンジなど様々な色に変化する光を放っていた事を確認した。この飛行物体はスピードを調整し、戦闘機から安全な距離を随時保っており、そのことは地上のレーダーからも確認された。やがてこの飛行物体からは小型の飛行体が分離して、猛スピードで戦闘機に接近を始めた。戦闘機は対空ミサイルで迎撃しようとしたが機器は操作不能に陥った。この小型物体は追跡を止め、「母機」に帰還した。最終的にこの「母機」 は周辺の砂漠地帯に着陸した。イラン軍高官たちは、このにおいて出現したUFOは地球産ではありえず、異星人の飛行装置である、という一致した見解を示した。また。懐疑派のフィリップ・クラスは木星を見たのだろうとコメントした。この事件の詳細はホワイトハウスやアメリカ国防情報局、アメリカ国家安全保障局などに書類で正式に報告されていた。1977年にはアメリカの情報自由法により正式に資料が公開された。複数の信頼できる目撃者がおり、レーダーでも確認され、3人の異なる乗務員が電磁気により同じような身体的影響を受けたことなどから「UFO現象を研究するための、あらゆる条件を備えた模範的なケースだ」と資料付記の注に記されている。1984年12月18日に、南アメリカ大陸南端付近のフォークランド諸島付近で、航海士が東へ動く不審な光体を発見した。それは二等星ほどの明るさで、速度や方向が一定しないままフラフラと動き、途中から速度を上げて一直線に視界から消えた。二度目の遭遇は、1986年12月21日のウェーク島近辺の、北緯26度の日付変更線付近において、船の周囲でマッハ4の速度で音もなく飛行し180度ターンなどの不規則運動をする、巨大タンカーほどのレーダー映像を確認したが、肉眼では見えない不可解な現象に遭遇した。このレーダー上でのみ確認された大きさ300mほどの巨大物体は、開洋丸の周囲を数度回った後、突然直角に角度を変えて船に向かってきた。そして衝突するかと思われた瞬間、物体は鋭角にターンして去って行った。計算で得られた速度は時速4900キロメートルであった。飛行物体は「船の真上を通過したとき自動車ほどの音を出した後、最後に発光して消えた」との記録を残している。軍用機からのジャミングを受けたという説や、日本テレビ系の番組『特命リサーチ200X』では、正体はアメリカで行われたEMPの実験に関連した現象だという説が紹介されていた。実際に1度目の遭遇は1982年のフォークランド紛争の後に起きている。ただし対象物が鋭角的な方向転換をした現象などがどこまで説明できるかは不明だ。この事件は、1998年の日本版「サイエンス」誌9月号に、観測・調査の複数の専門家が目撃証言した記録として掲載された。1998年10月19日、河北省滄州市の空軍基地上空にUFOが出現した。地上からも「キノコのような形」をして地上に光を放射しながら飛んでいく物体が目撃された。この軍用機でも民間機でもない飛行物体が4つのレーダー基地でも観測されたため、基地司令のリー大佐は迎撃命令を出した。発進した戦闘機には2名が搭乗していた。この乗員の証言によれば、UFOはSF映画に出てくる形をしており、麦わら帽子のようであった、また、戦闘機が接近しようとすると逃走し、遠くに逃げ去ったかと思うと戦闘機の真上に出現したりと、相手をからかうような挙動を示した。飛行物体の高度が20000mに達すると、戦闘機の燃料が乏しくなったため追跡は断念された。飛行物体はやがてレーダー反応からも消失した。1994年1月28日、ニース―ロンドン間の上空にて、エールフランスの3532便の操縦士3名が奇妙な飛行物体を目撃した。当初「ぺしゃんこになった鐘」に見えたその物体は、すぐに赤黒い円盤状に形を変えた。2分後にその物体は消失したが、ある時はレンズ豆、ある時は矢のように見えるなど、絶えず輪郭を変化させていた。同時刻にフランス空軍のレーダー、そしてトゥール市にあるレーダー探知センターが、3532便と直角に交わる未確認の物体を捕捉した。レーダーの記録などから、飛行物体が航空機や観測用気球であるという説は退けられた。パイロット達の証言の詳細は一致しており、物体が消失した時間の証言も、レーダーの記録と一致した。飛行物体の大きさは推定500m〜1kmであった。2008年1月8日のテキサス州にて、警察官を含む17名が、フットボール競技場程のサイズのUFOを目撃した。UFOはレーダーでも3機捕捉されたが、そのうちの1機は飛行禁止空域だったジョージ・W・ブッシュの自宅に真っ直ぐ向かっていたため、F-16戦闘機が発進する事態となった。フラップとは、同じ地域で短期間にUFOの目撃が多発する現象だ。大日本帝国海軍による真珠湾攻撃から約3か月後の1942年2月24日の夕方に、日本海軍の大型潜水艦がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の石油精製所を砲撃した。初めて本土を攻撃されたアメリカ軍と政府は大混乱に陥り、アメリカ西海岸一帯の陸海空軍全てに厳重な警戒態勢が敷かれた。その後日本海軍による攻撃がなかったために警戒態勢が解かれたものの、警戒態勢が解かれた直後の2月25日未明に、光を放ちながら数百キロの低速で飛ぶ数十機の未確認飛行物体がロサンゼルス市上空に出現し、同時にレーダーにもとらえられたためにアメリカ西海岸一帯に再び警戒警報が出された。その後飛行物体を目視で確認したアメリカ陸軍によって、飛行物体に向けて1430発もの対空砲火が撃ち込まれた。対空砲射は2時間続いたが撃墜された飛行機はなかった。数千人の目撃者の中には、対空砲火の中を光を放つ飛行物体がサーチライトに照らされている写真を撮影したものや、「秒速8キロメートルでジグザグに移動する光体」がいたことを証言するものがいた他、ラジオでは対空砲火が行われている風景が実況中継された。なおこの作戦中に落ちてきた対空砲火の破片を受けたり、驚きのあまり心臓発作を起こした6人が死亡した。しかし戦後公開された日本海軍の資料では、この日にアメリカ西海岸上空を日本海軍機が飛行した記録はなかった(日本海軍機による初のアメリカ本土空襲が行われたのは同年9月である)。1952年7月19日から27日にわたって首都ワシントンD.C.上空に68機ものUFOが現れ大勢の市民の目の前で飛び回る事件が起きた。空軍は目撃されたUFOは気象現象であったと公式声明を発表したが、民間のUFO研究者からは批判された。後に、この目撃事件はワシントンに限らず全世界的に同時多発的に起きていたことが判明した。1963年の8月上旬、英国のスタッフォードシャー州にて警察官を含む3名が「光線を放ちながら飛行する円形物体」を目撃した。物体は色を変えながら静止と飛行を繰り返した。その後BBCにUFOを目撃したという報告が数百件寄せられ。空軍はその物体の正体は不明であると公式発表した。その後、UFOの目撃例はイギリスやスコットランドを超え、米国やカナダ、メキシコ西南部、アラスカにまで及んだ。飛行物体の形状は目撃者により、機械であったり卵型であったり火球であったり十字架状であったりした。特に米国イリノイ州では二晩にわたって飛行物体が観測され、複数の目撃者は飛行物体に追いかけられたと証言した。「飛行物体が接近した途端(車のエンジンや電灯など)機械が停止した」という一致した証言もあった。ワシントン州上空を飛行中だった旅客機の乗客たちは謎の物体が40分間にわたって後をつけてきたと証言した。米空軍と英国の空軍省は、目撃報告の「いくつか」については飛行機や飛行船などの誤認だったと発表した。なおマスコミがこの事件を報道し始めたころには既に多くの目撃報告が集まっており、報道と目撃報告の増加に関連性があるとはいえなかった。1963年の8月10日になると、ヨーロッパにおいても北米においても、UFO目撃は唐突に途絶えた。1965年、ニューハンプシャー州のエクセターにて「巨大な金属製の物体」が音もなく上空に静止しているのを警察官2名と大学生が目撃した。物体は急降下して目撃者に接近してきたが、警官は銃を抜くことができなかった。民間人のコラムニストであるジョン・フラーがこの事件を調査したところ、75件を超える目撃情報があることが判明した。この事件について空軍は自然現象の誤認説(→#気温逆転説)での説明を試みた。しかし、そうした公式見解は逆にジョン・フラーら民間研究者に「空軍によるUFO隠蔽説」の疑惑を抱かせることとなった。この事件により、1960年代のアメリカではUFO問題への多くの公開討論が各地で行われる事となった。1966年3月、アメリカのミシガン州で未確認飛行物体が目撃された。目撃者は「何百人」にのぼり、それぞれがほぼ同じ大きさと形状の物体を目撃した。目撃者の中にはパトロール中の警官も多数含まれており、そのうちの一人は「ちょっとした家ぐらいの大きさ」の飛行物体を目撃し「航空機やヘリコプターとは全く違う、見たこともない動きをしていた」と語った。1966年3月22日には、ヒルズデイル大学内で87名の女学生と民間防衛隊の隊長が、女子寮から数百ヤード離れた沼地帯に静止滞空しているフットボール型の輝く物体を目撃した。物体は寮の方に近づいてきて突然静止し、元の場所に戻って行った。「物体は飛行場の灯台を巧みに回避」し、車が近づくと暗くなり車が去ると明るくなった。物体は4時間の間目撃され続けた。翌日、少し離れたミシガン州のデクスターで、2名の警察官を含む目撃者5人が、農場の沼地帯から光り輝く巨大な物体が上昇し、約1000フィート上空でしばらく静止し、その後飛び去るのを目撃した。目撃者の数は合計で100名を超えた。多くのマスコミがこの事件を取り上げたが、研究の結果、空軍はこの現象は「沼地ガス」が発生したことが原因であると発表した。(沼地ガスとは、沼の植物が腐敗することで年に何度か発生するガスのことで、自然発火し不規則な動きをする。比較的珍しい現象で、目撃者は多くない。)この空軍による「沼地ガス説」はあくまで仮説として唱えられたが、マスコミや目撃者たちからの大きな批判を呼び、空軍の調査への疑念が生まれた。この事件は1960年代にアメリカで最も論議を呼んだ事件の1つとなった。後に大統領となるジェラルド・フォード議員は「米国市民は、空軍の説明とは呼べない代物よりも、もっとまともな説明を受ける権利がある」とコメントした。また空軍調査(プロジェクト・ブルーブック)の指揮者であったビル・コールマンは、このミシガン州で起きた事件を全て「沼地ガス説」では説明するのは無理があった、と後に語った。1967年5月20日、スティーブン・マイカラクはカナダのファルコン湖の近くで、二機の卵型の円盤が赤く輝きながら降下してくるのを目撃した。1機は空中で静止し、色を変えながら雲の中に消えたが、もう1機は輝きながら着陸した。マイカラクが近づくとその物体からは硫酸のような臭いがしていた。物体の上部には開口部があり、中から二人の人物の話し声が聞こえたので、マイカラクが話しかけると開口部は閉じられた。マイカラクが円盤に手を触れると、手に付けていた手袋が焦げて溶けた。やがてマイカラクは正面に「排気口」のような穴があることに気付いたが、その穴から突然に熱風が吹き出し、円盤は上昇して消えた。マイカラクは熱風により第一級の火傷を負った。マイカラクは医者にかかったが、皮膚伝染病にかかっており、身体が変色したこともあった。マイカラクの胸の火傷は「熱気泡」であり、その火傷の形は唐草模様であったが、それはマイカラクが描いたイラストの排気口の形と一致していた。その他にもマイカラクの症状には吐き気や嘔吐、リンパ球の減少などが見られた。ある医師はマイカラクが放射線に晒されたことが原因だと述べたが、彼を診断した27名の医者のうち、完全な説明ができたものはいなかった。1980年12月29日のテキサス州にて、人里離れた森の中の道路を車で移動していたランドラム(Landrum)一家の3人は、炎を噴出しながら上空をホバリングする光を見た。その光は強烈に輝き、鈍い金属銀の色で、大きさは給水塔ほどもあり、直立した巨大なダイヤモンドの形をしていた。車を停めると、同乗者のキャッシュ(cash)が車外に出てその飛行物体を観察した。物体の中央には小さな複数の青い光が環状に取り巻いていた。飛行物体が上空高く移動を始めると、二十数機ものヘリコプターが現れ飛行物体を取り囲んだ。飛行物体とヘリコプターは上空に消えた。目撃者である3人は帰宅後に嘔吐感や下痢、脱毛、火膨れなどの症状を示し、放射線障害と診断され入院を余儀なくされた。キャッシュとランドラムはその後、政府を相手に訴訟を起こしたが訴えは却下された。同地区の警察署に所属しているラマー・ウォーカー(Lamar Walker)刑事とその妻は、同時刻に12機のヘリコプターを目撃している。陸軍や民間のヘリコプターは1機も発進されていなかった。ウォーカーがこの事件を調べようとすると、ペンタゴンを含む軍の高官たちから幾度も捜査を妨害された。またUFOが目撃された地面には焼き焦げた跡が見つかっており、夜間に補修作業が大急ぎで行われていたことが目撃されている。この事件で目撃されたダイアモンド型UFOの正体は、NASAにより開発中であった原子力エンジン搭載型ロケットのNERVAではないかとも推測されている。1981年1月8日、フランスのプロヴァンス地方にて、自宅の庭で日曜大工をしていたレナート・ニコライが、爆音とともに急降下してくる物体を目撃した。物体の大きさは2.5mで、スープ皿が上下に重なったような形をしており、光に包まれていた。1分をしないうちに物体は急速度で飛び去って行った。物体の下部にはドアが付いているようだった。地面には2mの円形の着陸痕が残っており、ニコライは憲兵に通報した。憲兵による現場の調査結果はニコライの目撃証言とほぼ一致した。ニコライの証言によれば、飛行物体は驚くほど正確な操縦技術で操作されていた。ニコライ家の近隣には軍事基地があったが、時間帯や着陸場所から考えてもヘリコプターや飛行機ではなく物体は全く無音で飛行したため、エンジンで動く機体でもなかった。 フランス国立宇宙研究センターのUFO調査部署であるは、現場から採取した土や植物のサンプルを解析した。その結果、着陸痕の地面は衝撃で摂氏600度まで上昇し、微量の鉄や亜鉛などが検出された。現場で採取されたウマゴヤシは、電磁気的な影響により損傷を受けていたため、飛行物体が電磁気で飛行していたという仮説が立てられた。物体の質量は推定500〜700kgであった。懐疑的な研究者はUFOの着陸痕が完全な円形ではなく、車のタイヤに似ていること、当時の発見場所には車の往来があったこと、GEPANが現場に到着し調査を行うまでには時間の空白があったので、人為的な影響を及ぼすことが可能であった事などを指摘している。1982年10月21日、フランス北西部の街ナンシーにて、細胞生物学の研究者アンリ(仮名)が、上空から降下してくる楕円形の発光体を目撃した。全くの無音のまま、高速で移動する飛行物体は、アンリ家の庭の地表近くで静止した後、垂直に上昇して消えた。アンリはこの直径1.5mの卵型の物体を20分間目撃した。その物体は明らかに「機械」のようであったが、加工された跡が全く見当たらず、美しくカーブを描く「船体」の上下の色が違っていた。目撃者のアンリは科学調査には協力的だったが、氏名の公表などを拒み、自ら進んで証言はしなかった。その証言によれば、飛行物体が垂直に飛び去るときに、庭の芝生の草が一斉にピンと立ち上がった、とのことであった。この証言から、飛行物体から強い電磁気が発生し、その電界が周囲に影響を及ぼした、との仮説が立てられた。現場に落ちていたアマランサスを分析した結果、この仮説が支持された。815年(あるいは852年)のフランス、リヨンにて、空から球状の物体が連なりつつ降下をしてくる事件が起きた。球体は草原に着陸すると、やがて「ドア」が開き、中から3人の男性と1人の女性が現れた。球体はやがて上空に消え去った。周囲の目撃者は出現した4人を魔術師だと思い処刑しようとしたが、憔悴しきった様子の彼らの説明を聞き、介抱した。介抱された4人の説明によれば、自分たちは普通の村人であり、野原にいる時にあの「球状の物体」と出会ったということであった。球体からは自分たちとよく似た男たちが現れ、彼らは自分たちは邪悪な者ではないと述べたという。4人は球体に乗り込み飛行経験をすることとなり、丸い窓から眼下の地上を眺めたり、世界各地の町を訪れたりといった体験をした。この説明は当時の人々に受け入れられず、4人は火炙りとなる所であったが、現場にいた司教が介入しこの混乱を鎮めた。事件の詳細はこの司教により記録された。1950年アルゼンチンにて起こった事件。当時、建築技師であったエンリケ・ボッタ(Enrique Botta)は、高速道路を車で走行中に、そばの草地に円盤型で金属製の物体があることに気づいた。物体は静止していたため、ボッタは意を決し中に入ることにした。内部は(天井があることを除けば)空のように見え、壁際には4つの座席があった。座席には身長1.2mほどの灰色の小人が計器やパネルに向かって座っており、その身体は焼けただれていた。生物はすでに死んでいた。座席前の制御パネルの上には透明な球体が回転していた。高速道路に戻ると、ボッタは大急ぎで友人2人を呼びに行った。既に日が暮れていたので、翌朝になり3人は「UFOの墜落現場」に戻った。既にそこに円盤はなく、代わりに灰の山があった。一人がそれを手で掬ってみると、手は緑色に変色し何日もそのままだった。その直後、1人が上空を見上げると、葉巻型と円盤形の3つの飛行物体が浮かんでいた。ボッタは5枚の写真を撮影したが、現像した結果はぼんやりとした形が2枚写っていただけだった。ボッタはこの事件の後に、高熱に見舞われ皮膚が膨れ上がった。医者に診せても原因不明と診断され、この症状は数週間続いた。ボッタはこの事件を公表しなかったが、後に彼の二人の友人が公表した。ボッタは博士号をもつ人物であり、地元での評判も良く、無視できない目撃者であった。1957年11月5日に全米各地で数多くの未確認の飛行物体が目撃された。目撃された場所は多数であり各地の警察署の電話回線はパンク状態となり、報告を受けた米軍はジェット機の緊急発進を行った。メキシコ湾の航行中の警備隊やニューメキシコ州のミサイル試射場の憲兵隊員、テキサス州の米空軍気象観測官らも飛行物体を目撃した。特にカリフォルニア州の気象観測官3名と、そこからわずかに離れた上空を飛行していた空軍兵10名は「円盤型で磨き上げたアルミニウムのように輝く6機の飛行物体」をほぼ同時刻に目撃した。テキサス州の防空監視団は「赤い光を放つ巨大な飛行物体」からの通信を傍受することに成功したが、その内容は解読不能であった、と証言した。民間人からのいくつかの証言は「飛行物体が近づいた途端に自動車のエンジンやカーラジオが停止した」などの点では一致した。同日、カリフォルニア州で穀物飼料問屋に勤めるラインホルト・シュミット()という名の男性が、「金属でできた銀色の宇宙船」を目撃し、その内部から現れた「二人の男」と会話を交わしたと証言した。宇宙船内部には、地球人と似た6名の男女がおり、内部を見せてもらった後に宇宙船は垂直に飛び去ったと語った。シュミットは警察に届け出たが、正気ではないと判断され精神病院に送られた。シュミットはその後、自らの体験を自費出版した後に行方不明となった。宇宙船の着陸現場に出かけた警察署長は「確かに何らかの機械がここに着陸した」と判断した。シュミットが宇宙船を目撃した地域で、謎の飛行物体を目撃したという報告が複数人の目撃者により寄せられた。彼らはシュミット同様に、飛行物体が接近した際に車のエンジンが停止した、と語った。シュミットが宇宙船を目撃した翌日には、テネシー州に住む12歳の少年が宇宙船と宇宙人を目撃したと報告した。その描写はシュミットの描写とほぼ同様のものであり、少年がシュミットの事例を知っている可能性は皆無だった。フラップ(UFOの大量目撃)と第3種接近遭遇が同時に報告された稀なケースだ。1959年6月26日、パプアニューギニアにて、空中に浮かんでいる円盤型のUFOを38名の人間が目撃した。円盤の中には4名の人影が何らかの作業をしている様子が見えた。目撃者の一人が搭乗者に向かい手をふると 搭乗者達も同じ動作をした。目撃者が両手を上げて振ると、乗員たちも両手を上げて振って応えた。UFOは45分もの間観測され、最後には空中に飛び去って消えた。その後しばらくの間、カトリック教会の上空などに断続的にUFOは出現した。最終的な目撃者は約150人に及んでいた。目撃者であるWilliam Gillの父親が目撃内容を詳細に文書に記し、他の目撃者25名がその文書に書名した。迷信深い者たちによる目撃事件にすぎない、と批判する者も出たが、目撃者の中には教育を受けた者や別国の宣教師や貿易商などが含まれていた。アメリカ空軍はこの事件について、土星や木星などの天体が光の屈折により目撃された自然現象であった、と発表した。だが目撃された乗務員についての言及はなかった。なお、この事件が発生する6日前から「コーヒー皿のような飛行物体」や「窓のあるラグビーボール」の光体などが目撃されている。さらにこの事件の後2か月にわたって、同地域にてUFOが目撃され続けた。1964年4月24日、保安官であったロニー・ザモラは未確認飛行物体とその搭乗者を目撃した。この事例はアメリカ空軍の判別不能の事例の中で唯一「着陸」「痕跡」「搭乗者」を残している。1973年11月1日、ニューハンプシャー州マンチェスターでのルート114にて、車で帰宅中のリンダ・モレル夫人が、明るいオレンジ色に輝く六角形で構成された巨大な球体を目撃した。その物体は半分透けているような性質があり、上方には窓のようなものが見えた。モレル夫人は体中がヒリヒリする感じを受け、意識が薄れたが気が付くとUFOの近くまで進んでいた。物体の窓には人影があり、グレイ型の人相をしていた。搭乗者は彼女に「怖がらないように」何とか伝えようとしていると感じられた。女性はパニックになり車から抜け出し、近くの民家に助けを求めた。民家の住人が警察を呼び、警察官が駆けつけると、遠くに色を変えながら移動する光体が見えた。民家の住民を含めた合計4名がそれを目撃したが、嘲笑を恐れ、地元の新聞社には曖昧に報告した。モレル夫人は調査を受けたが、催眠状態での質問の受け答えでも彼女の話に矛盾点などは見られなかった。そして11月3日になると同地域にて再びUFOが出現した。レックス・スノーと妻のテレサは、小型望遠鏡で銀色の円盤を目撃した。そして同日の真夜中に、レックスは自宅回りが異様に発光していることに気付き、外に出たところ「銀色のスーツ」を着た異形の人物2人を目撃した。レックスは飼い犬に「飛びかかれ」と命じたが、銀色の生物に睨まれると飼い犬は沈黙した。銀色の人物2人はしばらく地面から何かを拾い上げる作業を続けた後に木立の中に消えた。テレサは「銀色の輝き」が木立の中を遠ざかっていくのを目撃した。1975年に山梨県甲府市で起きた、UFOと宇宙人を目撃したと報道された事件。ケネス・アーノルド事件の直後に起きた、いわゆる「ロズウェル事件」は極めて有名であり、複数のフィクションにおいて何度も題材にされているほどである(ロズウェル - 星の恋人たちなど)。これは、アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェル近郊に「UFOが墜落し、その残骸が軍によって回収され秘匿されている」というものだ。1947年6月14日、ニューメキシコ州ロズウェル近郊にある牧場で、マック・ブレーゼルは牧場内に散乱した金属片を発見した。7月に入ってブレーゼルと彼の家族は金属片を集め、保安官のジョージ・ウィルコックスに通報。ウィルコックスはロズウェル空軍基地に連絡した。7月7日の午後、基地からやってきた2人とブレーゼルは残りの破片を捜してゴムや金属箔を見つけたのち、元の形を復元しようとした(が、上手くはいかなかった)。翌朝、破片は基地へ持ち帰られた。7月8日、ロズウェル基地付け報道官のウオルター・ハウト陸軍中尉が「陸軍航空隊がロズウェル近郊の牧場に墜落した空飛ぶ円盤(Flying Disc)を回収した」と発表し、マスコミの注目を浴びた。しかし同日中にロジャー・M・レーミー空軍准将が「発見された空飛ぶ円盤は軍が使用している気象観測用の気球だった」と訂正を行った。後に行われた発表では残骸も公表されて、事件はすぐに忘れ去られた。それから30年以上、UFO研究家も含めて誰も関心を持つことはなかった。しかし1978年になって、破片回収を行った軍人ジェシー・マーセルに対してUFO研究家がインタビューを行った際、マーセルはこの事件を軍による隠蔽とする意見を表明した。この話題はUFO愛好家の間で関心を持たれるようになり、1980年にはタブロイド紙「ナショナル・エンクワイアラー」がマーセルへのインタビューを載せたことで、広く世間で知られるようになった。「ロズウェル事件」が有名になると、既に30年以上経過していたにもかかわらず、軍の圧力があったとする証言や「政府の秘密文書」などが多数表れるようになった。「ロズウェル事件の際に回収した異星人の解剖フィルム」なるものまでが現れた。1997年には、アメリカ政府より正式報告書「ロズウェル・リポート」が改めて発行された。この報告書では「当時墜落したのは実は秘密実験に使用されていた気球で、後に発見された異星人の死体といわれるものは高度での人体への影響を調べるための観測用ダミーである」としている。また解剖映像が捏造であったことが後に判明した(宇宙人解剖フィルムの項目を参照)。2007年、ロズウェル基地の元報道官ウォルター・ホート大尉が、ロズウェル事件について「隠蔽があった」ことや、基地の格納庫で「異星人の死体を直接見たこと」を記述する宣誓供述書に署名していたことが判明した。研究者であるドナルド・シュミットによれば、これは最も強力な証拠であり、他にも異星人の死体や墜落した円盤を目撃した関係者の証言が多数得られているという。空軍により尋常ではないほどの家宅捜索や脅迫をされたため、隠蔽工作があったことを疑う証言者も多い。この事件に関する情報はきわめて多数あり混乱しているため、真相の解明は困難であるといえる。1959年、米の国海軍情報部(ONI)が「宇宙人と交信している」というメイン州の女性フランセス・スワン(Frances Swan)を調査した。通常ならば、こうした事例は政府機関には無視されるが、カナダの政府機関が専門家を派遣し彼女を聴取したことが発端となった。海軍情報部の将校が調査に向かい、フランセスがトランス状態に入ると、将校たちは次から次に彼女に質問を行った。するとフランセスは、天王星の一日の長さや、太陽と木星の最大距離など「彼女の知識レベルではわかるはずのない宇宙飛行に関する技術的質問」に正確に答えた。ある海軍中佐は、フランセスにトランス状態に入るよう勧められその場で実行を試みたが失敗した。この件がCIAの注意を引き、CIAのオフィス内にてこの件を調査することとなった。フランセスはオフィス内にいた6名の将校のうちの1人に「トランス状態に入り、宇宙人とコンタクトするよう」促した。トランス状態に入った将校の身体には、鼓動が速くなり、のどぼとけが速く上下するなどの異変が見られた。将校は「天王星のAFFA」と名乗る存在とコンタクトし、次々と質問に答え始めたが、やがてコンタクトの証拠をほしがった人々に対して「窓の外を見ればUFOが見える」といった。3人が窓の外に駆け寄り円盤形のUFOを目撃した。そのうち2名はCIA職員、1名は海軍情報部の人間だった。慌てた職員がワシントン・センターに電話をかけレーダーがUFOを捕捉していないか質問を行ったところ、「その空域だけ、レーダー像が完全に空白だった」という答えが返ってきた。プロジェクト・ブルーブックの調査主任ロバート・フレンド空軍中佐が、この件を報告書にまとめ上官に提出した。UFO事件は空軍が全面的に担当するというのが当時の政府の方針であったが、「別の政府機関が調査を行っている」という理由でアメリカ空軍によるさらなる追跡調査の要請は拒否された。1973年オハイオ州マンスフィールド上空のヘリコプター上にて、陸軍予備隊の四人の乗員が謎の「赤い光」を目撃した。赤い光は移動と停止を繰り返し、最終的には600ノット以上の速度でヘリに向かって接近した。ヘリコプターのパイロットは回避行動を取り、無線で進入管制に連絡したが、すぐに無線は使用不能となった。赤い光は衝突の間際で突然にヘリの前方で停止した。ヘリコプターは急激な方向転換により落下し始めようとしていたが、すぐに上昇し始めた。乗員は、どう見てもUFOがヘリコプターを光で引き上げているようにしか見えなかったと語っている。ヘリが吸い上げられ静止したその瞬間、ヘリの乗員は葉巻型で金属の外観をしたドーム状の物体を見た。目撃時間は少なくとも5分間だった。その物体は下方に緑色のビームを放っていたが、そのビームは方向を変えヘリの操縦席やコックピットを「緑色の光」で覆った。数秒後、物体はきっちりと45度の角度で右へと方向を変え、加速して西へと去っていった。同時刻、マンスフィールドから南東にある自宅へ車で帰宅していたErma夫人は、ヘリコプターと赤い光が上空で交わる姿を目撃していた。赤い光は停止すると緑色に強く発光し、あたり一面が緑色に覆われた。また現場付近に住んでいたJeanne Elisは、家の中が緑色に染まる光景を目撃している。ヘリコプター乗員の一人であったLawrence J. Coyneは、この事件のすぐ後に体外離脱を体験している。すると直後に陸軍から呼び出しを受け「事件後、体から離れるような夢を見たか?」と質問調査を受けたことを明かしている。この事件はベテランを含むヘリコプターの乗員4名と地上の複数人が事件の目撃者で信頼度が高い UFO 目撃事件とされている。1980年12月27日、 イギリスのレンデルシャムの森に正体不明の光体が降下していくのを米軍警備兵が目撃した。森の中では、光り輝く金属製で直径3mの三角形の飛行物体が発見された。一連の出来事は、米空軍基地司令官のチャールズ・L・ホルト中佐を含む複数人により目撃され、報告書にまとめられた。1948年1月8日(現地時間では1月7日の午後)にアメリカ合衆国のケンタッキー州にて発生したUFO(未確認飛行物体)目撃とそれに伴って起こったアメリカ空軍機の墜落事件。空軍はこの事件は、当時よくUFOに誤認されていたスカイフック気球の誤認によるものだと発表した。1948年10月1日、アメリカのノースダコタ州の高度300mにて、空軍基地に帰還しようとしていたジョージ・ゴーマン(George F. Gorman)は、時速400キロメートルで浮遊しながら点滅を続ける光を発見した。光は管制官からも確認された。ゴーマンは追跡に移ったが、光体の速度が速すぎるため不可能と判断した。(この時ゴーマンは一時失神したが回復した。)ルートを先回りして光体を捕える作戦に変更したゴーマンは、光体と機体がすれ違う瞬間、直径20cmで白く輝く物体を目撃した。光体は20分もの空中戦の後に、上昇して消えた。この事件でのゴーマン少尉の証言は混乱していた。ちょうどその頃に基地上空には観測用気球が浮いていたため、これがUFOの正体であったと空軍は後に公式発表をした。さらに後には、失神後にゴーマンが見たUFOはレンズ効果で拡大された木星であるという説が浮上した。つまり通説は以下のようなものとなる。夜間のコースを飛行中だったゴーマンは観測用気球をUFOと間違え追跡し失神した。すぐに意識回復をしたゴーマンは次に木星をUFOと見誤りドッグファイトを仕掛け錯乱した。1957年12月から翌年の1月にかけて、ブラジル海軍が国連地球観測年に向けての観測基地を南大西洋に浮かぶトリニダーデ島に設営する際に、数回にわたり観測隊員や島民が円盤型の飛行物体や光を目撃したとされる伝達情報。日本のUFO愛好家の間では昔からあった有名な話であり、たびたび出版されている。出版物などで同島を「トリニダーデ島」と呼ぶが、正しい名称は「トリンダージ島」(Trindade、ポルトガル語であり綴りが異なる)だ。トリニダーデ島(Trinidad、元来はスペイン語)とは北半球のカリブ海にある別の島であるので、誤訳といえる。超常現象としてのUFOの話にはこのような誤訳が多い。この話はブラジル国内ではほとんど知られていないが、他国では書籍の写真を通して有名だ。同島はブラジル東南部のエスピリトサント州の沖にあり、本土から1200キロメートル以上離れている。居住島民はおらず、海軍の駐在所と科学研究員の宿泊施設がある。1958年1月1日にブラジル海軍長官と観測隊員が同島周辺を飛行する光体を目撃したとされた。同月15日と16日には海軍練習船アウミランチ・サウダーニャ号(Almirante "Saldanha" )が観測船として同島に接近したときに円盤型の飛行物体が出現したとされる。ただし、この目撃例は地球観測年だけのもので翌年以降はない。また、「公認のUFO写真」という有名な写真が海外の雑誌に出版されたが、ブラジル海軍は遭遇を認めていないので「公認」の写真ではない。写真に写っている物体は湿った大気中を飛んで水蒸気に囲まれた飛行機という意見もありツインボナンザという機種が似ていると研究されたが特定されてはいない。写真は4枚の連続写真であり、一枚目は飛行機の側面から、二枚目以降は正面からとられたものと推測されている。一枚目はぼんやりと土星型に写っているが、二枚目以降はもっとはっきりとした円盤型に写っている。それが水蒸気に包まれた双発のプロペラ機を正面から見た形に似ていると指摘する研究者もいる。しかし最近のデジタル化した写真の分析により、二重露出で物体を写したものという意見が説得力をもっている。写真を公表したのは海軍ではなく、同行したカメラマンであるアルミロ・バラウーナ(Barauna)であった。彼にはトリック写真を作る技術があり、この事件以前にも偽UFO写真を撮って「UFOに追いかけられた」というジョーク記事も書いたことがある。この件も面白そうな形に写った飛行機の写真を思わせぶりに見せただけだと考えられるが、結果として国外では大変有名になってしまった。ブラジル最大の新聞「O Globo」は、バラウーナのいたずらと結論付けた。詳細はWikipediaポルトガル語の同項目を参照。フラップとは、一度に多数の人々によってUFOが目撃されることだ。この事件は1985年11月から1990年5月にかけて、ベルギーでUFOが頻繁に目撃された事件で、1万人以上の人がUFOを目撃したといわれている。実際には赤、緑、黄色に色を変える、正三角形状の光などが報告された。ドイツ国境のユーペンの住人数百人は、スポットライトをつけた巨大な三角型のUFOが上空を通過するのを目撃した。UFOは報告されたものだけでも150件ほどあるとされており、実際にF-16が緊急発進をかけた例もあった。4つのUFOがレーダーに捕捉されたが、それぞれ別々の方向に姿を消したため追跡は断念されたといわれる。目撃報告の中には新型電子機器を使う試験飛行、性能の悪いレーダーによる誤認、ライトショーの光の反射、ヘリコプターの誤認といったケースも多数含まれており、特に空軍がUFO騒動について説明せずに紛らわしい訓練飛行を行っていたことは問題視され、議会で追及されている。UFOの正体はアメリカ空軍のステルス爆撃機のテスト飛行ではないかとの説も出た。モーター付き飛行船を所有する男が悪戯で自分の飛行船に細工をし、ベルギーの空に放ったイタズラであるという証言も出た。またこのベルギーのUFOフラップ事件をとらえた写真の中で最も鮮明なものだといわれていた写真は、当時18歳だった者が発泡スチロールを使用して行なったイタズラであったことが、本人の発表により判明した。2004年3月5日に、麻薬密輸の監視にあたっていたメキシコ空軍機が十数機のUFOに遭遇し追尾されたとする事件。赤外線探知機の画像には、よく見れば静止した物体であることがわかる11個の点が映っていた。しかし、メキシコ空軍が公式に発表したために世界各国で報道された。その後、地元のUFOに肯定的な団体の調査により、UFOの隊形と煙突の配置が同じであること、画像の「UFO」は移動していないことから、海上油田の煙突の炎の誤認だと結論されている。メキシコ政府は公式発表についてその内容を変更してはいないが、。UFO現象の中には、「UFOに誘拐された」とする「アブダクション」の事例報告が存在する。体験者によると、UFOによりUFOの中に誘拐され、医学的な手術を受けたり、小さなトランスミッション(発信機)を埋め込まれたり、実験や研究の対象となったという証言、場合によっては性行為の対象となったという報告もある。多くの場合、体験者はトラウマを抱え込むことになる。宇宙人と好意的な関係を結んだとする「ポジティブなケース」も存在する。アブダクション時には体外離脱などの現象も起こるため、ある研究者は臨死体験との類似を指摘している。(→#臨死体験説)アブダクションにはある特定の傾向がある。「アブダクトされたという時間と場所に、確かにいるはずの人がいない」「帰ってきたときに、身体に異常な痕跡が残っている」「複数人が同時にアブダクトされ、お互いの体験を検証できる」といった特徴だ。またアブダクションを報告するものはUFOコンタクティーと混同されることが多いが、殆どのアブダクション体験者は、その体験で金銭を得ようとはしない傾向がある。また多くの場合、自分の体験が異常なものであると感じるため、体験者は自分の存在を公にしたがらない傾向が

出典:wikipedia

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