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劉備

劉 備(りゅう び、、・延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する 。劉備は読書を甚だしくは楽しまず、狗馬や音楽、美しい衣服を好んだ。言葉は少なく、よく人にへりくだり、喜怒の感情を表にださなかった。豪侠と交わることを好んだため、若者は争って彼についていった。劉備は背丈が七尺五寸(約173センチ)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。また、現在残されている肖像画には立派なひげを蓄えた容貌が描かれているが、「蜀書」周羣伝には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意)とあげつらわれたとある。名を備。字を玄徳(げんとく)と言う。物語などでは「劉備玄徳」と続けて呼ばれる事も多い。『三国志』(正史)では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、「先主」と呼んでいる。劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝は子と孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。また、「先主伝」注に引く『典略』では、劉備は臨邑侯の庶流と記されている。なお、『三国志平話』および『三国志演義』では、中山靖王劉勝、その子の陸城亭侯・劉貞以後の系譜では劉貞の子の劉昴は沛侯、その子 劉禄は漳侯、その子 劉恋は沂水侯、劉英は欽陽侯に封ぜられ、劉貞以後の数代は列侯の爵禄を受けた。しかし、家運が衰退し、劉備の父母の代より沓売りや蓆売りに落ちぶれている。劉備の代に献帝に拝謁し漢の宗親と認められ、左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、家運が上昇し、後漢の滅亡により、蜀漢を興してその皇帝として君臨していることになっている。これは一部を除いて創作である。涿(たく)郡涿県楼桑里の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。幼い時に家の前に生えている大きな桑の木を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。また涿郡の人李定は劉備の生家を見て「この家から貴人が出るだろう」と述べた。熹平4年(175年)、15歳の時に母の言いつけで、従父(叔父)の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な盧植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚がおり、劉備は公孫瓚に対して兄事しており大変仲が良かったという。学生時代の劉備は乗馬や闘犬、音楽を好み、美々しい衣服で身なりを整えた。口数少なく人にはよくへりくだり、喜怒の感情を顔に出すことがなかった。天下の豪傑と好んで交わったので若者達はみな先を争って劉備に近づき交わった。中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。このおかげで劉備は資金を手にして仲間を集めることが出来た。黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。あるとき、大将軍の何進が都尉の毌丘毅を丹陽郡に派遣した。劉備は毌丘毅の従事として従軍して下邳に向かい、敵軍と戦い、軍功を残し下密県の丞に任じられたが、短期間で官職を辞した。後に、高唐県の尉となり昇進して県令となった。191年(初平2年)、敵軍に敗れて、昔なじみの中郎将・公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬に任じられ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。公孫瓚は袁術と手を結んでおり、初平3年(192年)、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。初平4年(193年)、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。興平元年(194年)、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙の推挙で豫州刺史に任じられた時とする)。陳到は劉備の豫州刺史時代からの配下とされ、陳羣も劉備が豫州刺史に任じられた時に登用され、別駕となった。曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、1ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。劉備は兵を一万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。建安2年(197年)、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る。建安3年(198年)、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、小沛は陥落し、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍を回収すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「奴が一番信用できんのだぞ!」と罵倒したが、結局、処刑された。劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、おぬしとこのわしのみだ」と評されている。この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。袁術は袁紹と合流しようとしたが、劉備に道をふさがれたので、引き返し、やがて病死した。袁術が死去したので、朱霊らは帰還したが、劉備は徐州に居残り、下邳を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺した。下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。劉備は劉岱らに向かって「お前達百人が来たとしても、私をどうする事もできぬ。曹公が自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」と言った。だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。『三国志』趙儼伝によれば、このとき袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたという。袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。劉表から新野城を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望にて撃破した。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。このことから髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。この頃(建安11年(206年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民十数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、娘は曹操に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉表の長子・劉琦の軍と合流した(長坂の戦い)。そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。劉備の荊州牧就任はそれまで孫権軍との共同体のような関係だった劉備軍の、荊州の支配権を奪っての事実上の独立宣言であり、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。建安16年(211年)、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて、数万人の兵を率いて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない(これは重大なことであるから、あわててはいけない、他国に入ったばかりで恩愛や信義はまだあらわれていない、それはいかん)」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。建安17年(212年)、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、葭萌城を霍峻に守らせ、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた(劉備の入蜀)。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去している。龐統が矢に当たって亡くなり、劉備が賛美と慨嘆の言葉をもらした際に、張存はかねてより龐統を買っていなかったので、「龐統は忠義を尽くして惜しむべき人物でありますが、しかし君子の道に反しておりました」と述べた。劉備は腹を立て、「龐統は身を殺して仁を成し遂げたのだ。お前はそれを悪と申すか」と言って、張存を免官にした。張存はほどなく病没した。そして、長い抗城戦の末雒を落とすことに成功し、荊州から進軍してきた諸葛亮や張飛らも加わり成都を包囲した。馬超は劉備が成都を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。劉備は李恢を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。馬超はかくて命令に従った。劉備は馬超が到着したと聞いて喜び、「私は益州を手に入れたぞ」といった。使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。城中は恐れおののき、劉璋はただちに降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁の勝利は孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである。建安20年(215年)、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権が荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)を返すようにと言ってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の全領地を返します」と答えた。涼州は益州(蜀)の遥か北であり、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入った。しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備は荊州の長沙郡・桂陽郡を割譲することで孫権と和解して、漢中の攻略を目標とすることになった。建安24年(219年)、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・張郃を攻め、法正と黄権の策に従い撃破し、夏侯淵・趙顒らを斬り殺した(定軍山の戦い)。その後、曹操自身が軍を率い漢中を奪還すべく攻めてきたが、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させた。漢中を手に入れた劉備は曹操が建安21年(216年)に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。前漢の高祖劉邦が漢王であった故事に倣ったものであった。また、献帝より大司馬に任命された。なお、群臣が劉備を漢中王に推挙した際の文章は、李朝の書いたものである。一方、東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。城に残る部下も自殺した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった。劉備の養子の劉封は関羽の救援に赴かず、対立していた孟達の軍楽隊を没収し、孟達が曹操に寝返り、曹操軍に上庸を奪われた。劉備は諸葛亮の提案に従い、劉封を軍規により処刑させた。建安25年(220年)に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。これに対抗して蜀の群臣は、建安26年(221年)に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。即位に反対した張裕や雍茂は、他のことにかこつけて処刑され、費詩は左遷された。こうして、劉備は皇帝に即位したが、同年6月、張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。張達と范彊は、その首を持って長江を下って孫権の下へ逃亡した。劉備は「ああ、飛が死んだ」と、死を嘆いた。劉備は章武元年(221年)、孫権に対する報復として親征(夷陵の戦い)を行なった。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。しかし、翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、孫桓は、敗走する劉備を追って、夔城(きじょう)に通じる道を断ち、その道の要所要所を閉鎖した。劉備は、山中をたどり険害を乗り越えて、やっとのことで脱出すると、憤り嘆息して「私が昔〔呉の〕京城(都、首都の意)に行った際には、孫桓はまだ小児であったのに、いま私をかようにまで追いつめおった。」と言った。そして、白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営して死去するまで滞在した。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らをやって返事をさせた。ここで劉備は病を発し、病床に臥せってしまう。章武3年4月24日(223年6月10日)、劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「君の才能は魏の曹丕の十倍はある。必ずや国に安定をもたらしてくれる事だろう。我が子、劉禅が皇帝としての素質を備えている様ならば、彼を補佐して欲しい。だが、もし劉禅が補佐するに足りない暗愚であったならば、迷わず君が国を治めてくれ」、「馬謖は大言壮語が過ぎるから重要な仕事を任せてはいけない。君はそれを忘れずにな」と言い遺し、子供達に対しては「悪事はどんな小さな事でも行ってはいけない。善事はどんな小さな事でも行いなさい。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の著と伝えられる兵法書)』・『商君書(商鞅の著と伝えられる法律論)』等々を読んでしっかり勉強しなさい。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えなさい。いささかも怠ったらばお前達は不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩じた。享年63。陵墓は成都市南西郊外の恵陵。現在は諸葛亮をまつる武侯祠の区内にある。前面には乾隆53年建立と刻された「漢昭烈皇帝之陵」の碑がある。しかし、彭山県蓮花村にある三国時代の墓に比定する説もあり、白帝城のあった奉節県に墓所を求める説もあり、お国自慢もからんで現在もにぎやかに議論が続いている。陳寿の評:「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」(『蜀書』「先主伝」)。習鑿歯はいう。先主は顛倒し困難に陥ったときであっても、信義をますます明らかにし、状況が逼迫し事態が危険になっても、道理に外れぬ発言をした。景升(劉表)の恩顧を追慕すれば、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人々に慕われ[後についてこられ]れば、[見すてることなく]甘んじてともに敗北した。彼が人々の心に結びついた経過を観察すれば、いったい、どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、[にがい]蓼を口に含み、民の病気を見舞った程度のことであろうか。彼が大事業を成し遂げたのも当然であろう。明末の学者・王夫之は劉備の遺言について、君主として出してはいけない「乱命」であるとしている。簒奪を警戒する劉備が、諸葛亮および他の臣下に対し釘を刺したのではないか、そしてその結果が、簒奪を警戒されないようにと北伐の際の諸葛亮の行動を縛る事になったという見解に基づくものである。劉備の子孫は、永嘉年間の八王の乱によりほとんどが殺されたが、劉永の孫である劉玄のみが生き残った。彼はチベット系氐族の一派である巴氐の酋長の李雄が蜀で建国した成蜀を頼ったという。民国14年に『富陽劉氏宗譜』なる族譜が公表され、浙江省は富陽市漁山郷曙星村なる村落に劉備の子孫がいると主張され、現在でも大々的に喧伝されている。ただこの族譜では、光武帝の末裔である劉川なる人物が西晋の時代に蜀の宗族とみられることを恐れて金に改姓したことが述べられているのみで、史書の劉備の血統とはつながらない。小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。史書が伝える劉備が、その武勇と人気によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたのに比べて、『演義』の中の劉備は、武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣達、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。しかも、若い時は母子で草鞋を作り行商し、吉川英治の小説『三国志』では当時庶民では高級品であったと言われる茶を母に飲ませるために金を貯めていたという苦労人として描かれている。ここから儒教の理想とする君子的高潔さが描かれ、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。『演義』の中の劉備は「雌雄一対の剣」と「的盧」を愛用している。「雌雄一対の剣」は、桃園の誓いで義兄弟の契りを果たしたあと、先祖から伝わる剣に似せた剣を黄巾賊討伐の為造らせ二振りにした剣。吉川の小説では旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。『演義』では、呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害してその肉を差し出し、そうとは知らず感激していた劉備だったが、顛末を知るやひどく悲嘆したという逸話が存在する(和訳本では削除されるか、価値観の違いについて注釈の上で紹介されている。また吉川の小説ではこの描写前に、中国と日本の文化の違いについて明記している)。『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、また部下に張飛を殺され呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。

出典:wikipedia

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