鹿島港(かしまこう)は、茨城県鹿嶋市、神栖市にまたがる太平洋に面した港湾である。港湾管理者は茨城県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。鹿島港は鹿島臨海工業地帯に接する工業港であり、海外からの原材料、製品などの輸出入量が多い。鹿島港は、鹿島灘と北浦に挟まれた砂丘を掘り込んで建設された堀込式港湾である。Y字型に掘り込まれ、-10m・-7.5mの岸壁がある。8バースがある南公共埠頭に加え、北公共埠頭の開発が進められている。鹿島灘に突き出した南防波堤は全長3,940m(計画全長4,800m)、中央防波堤は全長675m(計画全長900m)あり、両防波堤に挟まれた外港部は水深22〜24mある。ここから幅600m、水深13〜19m、長さ2.7kmの中央航路が内陸部に延び、さらにY字型に分かれて幅300m、長さ3.6kmの南航路と、幅300m、長さ2.5kmの北航路が掘り込まれており、岸壁の総延長は17kmにも達し日本国内最大規模を誇る。鹿島港魚釣園では海釣りができるほか、土日祝日には遊覧船「ユーリカ号」が運航されている。また、ちょうどYの字の左右に分かれる部分の港公園に展望塔があり、その上から港内を一望できる。鹿島港は、1960年(昭和35年)に東京から80km圏内に位置する鹿島灘海岸南部に掘込式港湾を中心とした鹿島臨海工業地帯を造成する計画が策定され、1963年(昭和38年)に重要港湾に指定され起工された。旧・運輸省によって建設された鹿島港は砂浜海岸に大型港湾を建設した画期的なプロジェクトで、砂浜海岸にY字型に世界有数の掘込港を建設し、掘り込み際に発生した土砂の一部は海岸線の埋立に使われた。1965年(昭和40年)に中央航路の掘り込み工事が開始された。中央航路は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて造られた掘割川を中心に内陸に向けて掘削され、土砂は南防波堤南側の南浜海浜地区や鹿島港北側の北浜地区、あるいは神之池の埋め立てに利用された。しかし、中央航路掘削により浜道路の県道波崎鹿島線が閉鎖断絶されたことで、それまでの交通に著しい支障をきたした。そこで堀込港湾の南岸(深芝浜)と北岸(居切浜)を連絡する県営の無料の渡し船「息栖丸」が1966年(昭和41年)就航し、更に翌々年には「第2息栖丸」も就航するようになり、1969年(昭和44年)に廃止されるまで運行回数21,506回を数え、鹿島港開発期の交通手段として重要な役割を果たす。1969年(昭和44年)に佐藤総理大臣、三笠宮夫妻を迎えて鹿島港開港式典が盛大に行われ、その翌年の1970年(昭和45年)に5万トン級タンカー「大栄丸」が初入港した。その後、港湾施設の整備が重点的に進められ、これに伴い鉄鋼や石油化学関連の取扱いが始まり、着実に発展してきた。1987年(昭和62年)に東関東自動車道潮来ICの開通などにより鹿島港の利便性がより向上したこともあって、現在は鹿島港の堀込航路を中心に鉄鋼、石油化学、飼料のコンビナート群が形成されており、東日本有数の産業拠点港湾として、地域の経済、産業に大きな役割を果たしている。北航路の末端に位置する茨城県が管理する公共埠頭施設。係留施設は、C岸壁からE岸壁までの-10m岸壁(延長170m)3本を有し、最大1万トン級の船舶を係留できる。荷捌き施設として、9.3ヘクタール (ha) の荷捌き地があり、E岸壁にガントリークレーン(荷役荷重30.5トン)1基を備える。荷役のための保管施設に野積場(11ha)が併設される。南航路の末端にある茨城県が管理する公共埠頭施設。係留施設は、A/B岸壁(延長183.2m×2)とG/H岸壁(延長185m×2)までの-10m岸壁4本と、-7.5m岸壁4本(延長130m×4)の計8バースを有し、最大1万5000トン級の船舶を係留できる。荷捌き施設として、5面の荷捌き地(合計約60ha)があり、G岸壁に引込みクレーン式アンローダ(荷役能力400t/h)1基と移動式クローラクレーンなどを備える。荷役のための保管施設に野積場(10ha)を持ち、臨港道路に隣接する。茨城県が管理する公共埠頭施設。深芝岸壁(-5.5m、延長300m)を持ち、最大3万トン級の船舶3隻を係留できるほか、荷捌き地(0.6ha)を有する。茨城県が管理する公共埠頭施設。A岸壁(-13m、延長280m)を持ち、最大2000トン級の船舶1隻を係留できるほか、荷捌き地野積場(4.5ha)を有する。 2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響により、アンモニア埠頭へ通ずる階段は崩落し、アンモニア埠頭の岸壁の大半は海中に沈降した。震災復旧工事が進み、2013年にアンモニア埠頭は復元された。
出典:wikipedia
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