ヴァージル・アイヴァン・"ガス"・グリソム(Virgil Ivan "Gus" Grissom, 1926年4月3日 - 1967年1月27日)はアメリカ合衆国空軍のパイロットで、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画における宇宙飛行士のひとり。アメリカで2番目の有人宇宙飛行経験者であり、また世界で初めて2度目の宇宙飛行を経験した。アポロ計画における、アポロ1号の宇宙飛行士として訓練中に火災事故にあい、アメリカの宇宙計画における最初の犠牲者のひとりとなった。家族は二人の息子スコットとマーク、妻のベティ・ムーア・グリソム。グリソムはインディアナ州ミッチェルに生まれ、地元のミッチェル高校を卒業。1944年、高校卒業後にアメリカ陸軍航空軍に入隊。終戦により、1945年、パデュー大学に入学、1950年には機械工学の理学士号を取得した。1951年3月、少尉に任官し空軍に復帰、戦闘機に搭乗し始め、朝鮮戦争では第334飛行隊に所属しF-86で100回もの戦闘を経験した。戦後、テキサス州ブライアン空軍基地でジェット機のインストラクターとなった。1955年8月、オハイオ州のライト・パターソン空軍基地にある空軍工科大学で航空工学を専攻した。1956年10月、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地のテストパイロット学校で学び、1957年5月にライト・パターソン空軍基地に戻って戦闘機部門のテストパイロットとなった。1959年、体力および精神力テストの結果、マーキュリー計画に参加する7人の宇宙飛行士(いわゆるマーキュリー7)のひとりに選ばれた。その他の人々は以下の通り。1961年7月21日、グリソムはマーキュリー・レッドストーン4号(リバティベル7)のパイロットとして、アメリカで2番目の弾道飛行を成し遂げたが、帰還時にトラブルが起きた。司令船リバティベル7の着水時ハッチが開くのが早すぎたために、海水が船内や宇宙服の中に入り込んでしまったのである。グリソムは司令船が沈もうとするなか溺れかけたが、ヘリに救助された。その後、ジェミニ計画に参加。シェパードがメニエール病と診断されて地上勤務となったためにグリソムが最初のパイロットに選ばれた。1965年3月23日には計画中では初めての有人飛行(ジェミニ3号)を行い、ジェミニ6-A号ではバックアップに回った。グリソムはアポロ1号の船長となり、アポロ計画最初の有人飛行を実行することになった。しかし1967年1月27日、船内での訓練中、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーとともに爆発炎上による事故で亡くなった。この痛ましい事故に関してNASAは即死と発表。しかし、後に公開された事故機には細工されていたと思しきスイッチが見つかり遺族が事故の調査を開始したところグリソムは即死ではなく炎の中を15分以上も生きていたと検死報告書で判明。彼らは宇宙船のハッチが内側から開かない機構になっていたため脱出できなかったのだが、皮肉にもこれはリバティベル7の水没事故を受けた措置であった。亡骸はアーリントン国立墓地に葬られた。NASAとしてはマーキュリー7の誰かを最初に月面に立たせたいと考えていた。もしグリソムが存命していれば彼がその人物となっていた可能性は高かった。グリソムの生涯飛行時間は4,600時間で、そのうち3,500時間がジェット機によるものである。以下は、グリソムの栄誉をたたえるために名付けられたものである。グリソムの事績は映画やドラマで描かれ、その他の映像作品でも様々な名称の由来となっている。
出典:wikipedia
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