結城 無二三(ゆうき むにぞう・弘化2年4月17日(1845年5月22日) - 明治45年(1912年)5月17日)は、京都見廻組及び新選組の元隊士だと主張していた人物。幼名は米太郎(よねたろう)、のち有無之助(うむのすけ)、さらに無二三(むにぞう)。名は影祐(かげすけ)といったが、知人からは「けいゆう」と呼ばれたという。幼名の「有無之助」は「俺ほどの豪傑が世の中に有るか無いか」という意味で、「無二三」とは「俺ほどの豪傑は天下に二人も三人も居ない」という意味で名乗ったという。自信に満ちた人物であったことが窺える。なお、「むにぞう」が発音だけでは判りにくいためか、「麦造(むぎぞう)」と間違われることもあったという。坂本龍馬暗殺事件について新選組のアリバイを主張、後世の新選組研究家たちに影響を与えたが、新選組の同時代資料では彼の在籍を確認出来ず、現在では自称「隊士」であるとされている。また、後に日本メソジスト教会の牧師・伝道師となったことでも知られる。結城無二三についての事績は、「国民新聞」記者であり、のちに「帝国新聞」創刊にも携わっていた息子・結城禮一郎(ゆうき れいいちろう・1878年〜1939年10月17日)による書『お前たちのおじい様』に詳しい。と言うより、これがほぼ唯一の記録である。本書は無二三の子息・禮一郎が、自分の子(無二三の孫)たちに口伝しているかのような文体で書かれており、生活感ある描写(下駄箱の上に無二三が使っていた棒術の棒がある、等)によって真実味あふれる資料として扱われていたが、以下のような疑問点も指摘されている。本書の最も注目される点は、同時代の事件の中でも最も関心を呼ぶ「坂本龍馬暗殺事件」について、その殺害容疑者と噂された新選組の「元隊士」として言及している点である。その主張の要点は、以下の二つに絞られる。本書は上述の部分が坂本龍馬暗殺事件について新選組に対する容疑を否定する(または、同事件における今井信郎犯人説を裏付ける)重要な証言として扱われてきたが、実のところ本書を除くと、結城有無之助(在籍中は改名前の名を名乗ったはずなので)が新選組に在籍していたことを客観的に証明する資料は現在にいたるまで見つかっていない。同時代資料としては、慶応3年6月10日に新選組が見廻組として幕府直参となった際の名簿や、同年12月12日付『同志連名記』(永倉新八)、慶応4年1月20日に土方が作成した人員名簿、果ては箱館戦争後に中島登によって描かれた『戦友絵姿』などにも、結城有無之助の在籍を確認出来ない。近藤の馬周り役や後に桑名藩などからにわかに合流した者たちでさえ隊士(同志)として扱っている資料もあるにもかかわらず、他に見つからないということは、在籍していなかったのではないか、と推測される理由の一つである。また、以下のように他の同時代資料や隊士たちの遺稿とズレを生じる部分も多い。これらの点から、結城有無之助の新選組在籍を疑問視する研究家は多く、彼が新選組に接触があったとすれば、明治以降に親交を持っていた隊士南一郎からの伝聞によるのではないかとされている。「結城有無之助」として見廻組・新選組を過ごした前半生は確証が無いとしても、「結城無二三」としてキリスト教伝道に生きた後半生は確たるものがある。ちなみに説法や賛美歌はあまり上手くなかったらしい。もっぱらその熱意と人柄とによって信者が集まってきたものと考えられる。日本語では「イビー」「イービ」「イービィ」「イーブ」などとも表記され、『お前たちのおじい様』には「イビイ」と書かれている(ここでは検索などで比較的多い「イビー」と表記している)。「ドクトル・イビー」とも呼ばれる。キリスト教の初期伝道期に活躍した宣教師の1人で、本郷中央会堂開設など、事績も多い。前掲書にてうかがい知ることの出来る結城無二三は、とにかく自信に満ち、強い野心を持っていたようである。実際、「一国一城の主になる」という表現が多用されており、とにかく少しでも出世をしようとしていたことが解かる。これは藤原秀郷の末裔であり、足利尊氏や武田信玄にも仕えた名家の出であるということに対する自負に起因するものであった。その一方で親友・南一郎の死に際して立派な墓碑を建立したり、キリスト教の敬虔な信者となったり、子に対しても慈しみ深いなど、優しさも持った人物であり、さらに初期キリスト教時代の迫害を受けつつも伝道を行い、またその死に際しては医師が驚くほど胃癌が進行するまで顔色一つ変えないなど、精神的な強さも持っていたと思われる。また、政治的な理由からか態度を何度も豹変させた徳川慶喜や、勤王を唱えながらも禁裏に砲火を浴びせた薩長、ならびに元は攘夷を叫びながら明治になれば開国・開明を唱える人々に対して、深い不満を抱いていたようである。結城無二三は、客観的に新選組への在籍を確認出来ないことはたしかであるが、一部で言われるような詐欺師的人物では無い。公衆に向けて新選組隊士を名乗ったのは彼自身ではなく、彼の言葉として文に著した息子・禮一郎だからである。この点において、内容の真偽はともかく、むしろ禮一郎の父親への敬愛の念が優れた文筆力で著された結果と見ることが出来るであろう。なお、講武所の剣術師範代を務めた今井信郎は、「実際、結城さんは不思議の人だった。竹刀を持たせて立ち会ってみるとカラ駄目だが、いざ真剣となると私たちよりもずっと勝れた腕前を見せる。それで私も一時は剣術なんて馬鹿馬鹿しいものだ、苦労してやるものではないと思ったくらいだ」とその腕前の程を評している。※本年表は子息による伝記に基づくものである。
出典:wikipedia
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