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上小阿仁村

上小阿仁村(かみこあにむら)は、秋田県の中央部に位置する村である。秋田県の市町村の中で最も人口が少なく最も高齢化、過疎化、空洞化が進んでいる。2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて、毎年自殺者が4、5人出ており、10万人あたりの自殺率に換算すると、150ポイント前後と、きわめて高い値となっていた。このため、村では2010年(平成22年)度から自殺予防への取り組みを行う集落に助成する制度をスタートさせた。その成果もあってか、2010年(平成22年)の自殺者数はゼロとなり、翌2011年(平成23年)も自殺者は1人と、以前と比較して自殺率は大幅に改善している。また、合わせて少子高齢化に対応するため、子宝祝金制度を実施している。転勤による異動者、里帰り出産を除く村民に対し、第1子から出産時の一時金および第3子から月ごとに支給する制度で、一人当たりの支給最高額は第4子以降が6歳まで村内に在籍した場合で、合計272万円支給される。村内には、鉄道は走っていない。2007年(平成19年)12月5日に指定金融機関契約の締結を行い、2008年(平成20年)1月4日から北都銀行が指定された(北秋田市の米内沢支店が受託)。これに先立ち、同行は、村役場の真向かいにある道の駅かみこあにの敷地内に、米内沢支店が管轄する店舗外ATMを設置している。JAあきた北央の上小阿仁支店は村役場に隣接し、上小阿仁郵便局(ゆうちょ銀行代理店)は沖田面地区にあり、中心部には村役場の裏に小沢田郵便局がある。ほかの銀行・信用金庫・信用組合の支店・有人出張所は村内に所在しない。上小阿仁村を代表する「マタギ集落」は八木沢と萩形で近世、「阿仁マタギ」などの狩猟民によってきり開かれた。萩形は1966(昭和41)年、県営第1号となる「萩形ダム」が完成したのをきっかけに離村。一方、八木沢は2009年春、集落ただ一人の古老マタギが鉄砲を返納し、生業とするマタギ集落が消えた。【八木沢集落】:集落最後のマタギ 佐藤良蔵(1924-2013没)萩形は1822(文政5)年、約10㌔北東の萱草や根子のマタギによって開かれた。1700年代に入り、菅江真澄翁の「月のおろちね」に阿仁マタギが移住以前にマタギ小屋や「祠」があったとされ、当時は一年の狩猟に依りて生計を立てたとされる。主峰、太平山(1171メートル)を背に奥羽山脈を旅する「阿仁マタギ」の砦でもあり、戦前は「バンドリ(ムササビ)やテン」などの毛皮が軍向けに高く売れた時期もあり、マタギを生業とする「狩猟文化」が盛んであった。66年、秋田県営第1号となる萩形ダムが完成したのをきっかけに約10戸が水没し、残りの30戸ほどの住民も故郷を後に方々へ散った。集落の外れに、1969(昭和44)年に村の消滅とともに建てられた「離村記念碑」に当時の家長たち38人の名が刻まれ静かに佇む。八木沢集落は文化10 (1813) 年、旧北秋田郡荒瀬村根子のマタギが移住・定着している。根子は マタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった「万次・盤(万)三郎」を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい「長男相続制」のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど「マタギ文化」が広範囲に拡散されている。1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄(1754 - 1829)は、マタギの里として知られる「奥阿仁地域」を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。真澄翁が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒が定着する。集落は近世から「出羽丘陵・奥羽山脈」での狩りをする狩猟民の中継地点。冬場は豪雪にみまわれ厳しい自然環境のもと、狩猟が盛んに営なまれた。山の神に対する厚い信仰をもち「俗信、禁忌」があった。昭和30年代、民俗文化の大きな転換期をむかえる、伝統的な信仰・行事・習俗・芸能にいたるまで大きく変化。小さな一地域の民俗文化の改廃。「鉄砲も槍もどこの家にもあった。みんながマタギ、自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を作った」。しかし、マタギ集落も高度経済成長とともに若者が流出、過疎化による後継者不足となった。そして、ついに「2009年春」集落最後の古老マタギ佐藤良蔵(1924-2013)が所持許可証の有効期限を半年残し、鉄砲を北秋田警察署に返納した。日本の民衆の文化「狩猟伝承」を保持してきたマタギ集落が惜しまれながらも消えていった。わずかに残された伝承や信仰、俗信、禁忌などを語る者は、古老のみとなったという。近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。文献「上小阿仁村史 通史編」有形民俗文化財指定 第1号 上小阿仁村教育委員会 古来、日本民衆の狩猟用具は先人から受け継がれた文化をもち「普遍的習俗」が守られた。史料5点は八木沢集落が阿仁・根子集落から移住以前から用いられたものとされる。いずれも近世中期から後期。所有者は代々のマタギを継承する六代目:佐藤良蔵マタギ(1924-2013没)で先祖は根子マタギの組頭(伍長)善兵衛から分家。狩猟用具は佐藤良蔵(故人)が所有した近世後期の「蔵」に収蔵されていたものである。≪狩猟用具5点の機能・検証≫1.マタギ熊(くま)槍(やり)(三角槍)(穂先:37・8㌢・柄:2㍍) 近世の秋田マタギ(阿仁マタギ)の槍ではない。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州・秋山郷の秋山マタギが所持した槍と類似する。熊槍は「タチマエ」(射手)が所持したもので断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称。熊猟で用いられたと分析される。2.マタギ槍 身…鉄材 木部材質:クルミの木  近世初期から中期。阿仁マタギは「たて」(槍型)と呼称。阿仁マタギ猟具と同一。近世後期、根子村から移住以前から用いられたものである。一般的な「槍」でクマ狩りなどに用いた。火縄銃が浸透する以前からの代表的な狩猟具であるが、鉄砲が普及したあとも用いられた。3.火縄銃の背負袋 (しょいぶくろ) 近世末期とされ、旅マタギで用いられた。牛革で作られた鉄砲のケースで「火縄銃」を入れた。「背負袋」は冬狩りで雪の上においても濡れない、凍らないなど寒中のマタギに適した。4.マタギマキリ 刃長4寸8分(約14.8㌢)柄(イタヤ材)長さ11㌢  マキリはアイヌ語と共通。近世中期。クマやアオ(カモシカ)などの大型動物を解体するための道具として用いられた。 刃は鋼で日本刀を改造したものとされる。新潟県岩船郡朝日村、三面マタギが所持したものと共通。5.マタギベラ(長さ167㌢・幅8㌢) 近世中期。イタヤ製の雪ベラ。日本古来の狩猟用具の代表。冬狩りでアオ猟(カモシカ)で用いられた。アオ猟は毛皮を獲るものとされ、、槍を使わず、巻狩りで「マタギベラ」で斃して獲った。まん中の窪みは火縄銃が用いられたときに上端に銃身をのせ安定させて撃つことができるように窪みをつけたものである。また、狩りだけではなく、雪除けや雪洞つくり、股に挟んで急斜面を滑り下りるとき等に用いられた。冬狩りのマタギの必需品。 近世、秋田マタギ(阿仁マタギ)は出羽山系で一つの文化圏を形成したといえる。八木沢集落は近世後期(文化10年)、マタギの発祥とされる秋田郡大阿仁根子のマタギによって開かれた村であります。狩猟用具は集落のマタギ文化の特色を示すものでありますが秋田マタギ(阿仁マタギ)との歴史的変遷、時代的特色、地域的特色など、集落の生活様式や様相を示すものであり、マタギ文化の歴史上、その価値を形成している集落が学術上価値の高い歴史史料であり、極めて重要であると思っております。 マタギ文化は今では、幻の如く消滅をしました。山の神を山神(サンジン)さまと呼び女子(オナゴ)の神とされました。女子はマタギが狩りに向うときや山の神の祀りごとでは近寄ることができないほど厳格に戒められました。マタギ文化という長い歴史と習俗は集落の民がひとつとなり大切に守ってきた文化。多くは消滅し、わずかに残された尊い貴重な史料の「狩猟用具」5点は近世後期の越後(新潟)、大阿仁村根子、八木澤村のマタギ文化を繋ぎ合わせる史料であり、近世の証しである。(史実の調査と考証:佐藤良美)2008年以降、村唯一の医療機関である上小阿仁村国保診療所に医師が定着せず、村への批判の声が高まっている。『週刊プレイボーイ』の報道によれば、個々の医師の退職にはそれぞれ異なる事情があったとされる(後述の「一連の報道への異論」を参照)。長年同村に勤務していた医師が定年退職したのに伴い就任した医師Aが2007年6月に依願退職したことから上小阿仁村は医師の公募を開始した。2008年(平成20年)3月、僻地医療に20年間の従事経験のある医師Bが「この村が、医師として最後の勤務地。人への愛情、興味が尽きない限り、診療を続けたい」と同年2月に着任したものの、村人からの嫌がらせにより、4か月で辞意を表示し、着任から6か月で退職した。その後、2009年(平成21年)1月に、離島やタイで医療に従事した経歴を持つ医師Cが新たに着任するも、Cも翌2010年(平成22年)3月に辞意を表明、「後任が見つかるように」との理由から2011年(平成23年)3月をもって離職すると発表した。この辞意表明の直後、数多くの村民からの慰留、村当局による改善策の申し入れにより、一度は辞意は撤回されたが、2010年(平成22年)9月にCは再び退職願を提出し、2011年(平成23年)2月下旬受理された。さらに村の公募に応じて北海道北見市から2011年(平成23年)6月に赴任した医師Dも、2012年5月に村に辞意を伝えた。上小阿仁村は2012年(平成24年)10月1日、Dが10月12日に退職し、同日付で北海道帯広市の医師・西村勇が診療所の新所長に就任すると発表した。しかし、西村も着任から1か月足らずの11月6日までに村に辞意を伝えている。理由は体調不良としているが、これにより、医師が4人連続して赴任後1年以内に辞意を示すこととなった。2012年(平成24年)11月22日、前北秋田市長の岸部陞が所長に就任し、診療を再開した。村は後任が決まるまで当分の間、診療を続けてもらう方針であると発表した。しかし、2013年4月30日付けで岸部も退職することが判明、後任については4月26日現在未定で、後任が決まるまで週1回泌尿器科の診察にあたっている医師が臨時で所長に就任し、岸部が担当していた内科・外科については週1回外部から招聘した医師が診察にあたるとしていた。2013年8月19日、かつて診療所の前身に当たる施設で勤務した経験のある内科医の柳一雄が常勤医師として着任した。僻地医療のベテランを含む3人の医師が相次いで短期間に辞職している背景には、激務によるものだけでなく「モンスターペイシェント」による嫌がらせなどの問題行動、およびそれに真摯に対応しなかった村役場の姿勢にあるとされている。『読売新聞』は、患者の問題行動について以下のように報じている。当時の上小阿仁村長だった小林宏晨は、「医師を攻撃する『不心得者』の村民は5・6人に過ぎないことを確認している」とした上で、「このような状態が続く限り、当局がいかに努力しても、わが村は医師に敬遠され、しまいには無医村になることも大いに考えられます」と述べた。医師Cの辞意表示のあと、村当局は急きょ改善策を申し入れるがいったん固辞される。また同村の広報誌『広報かみこあに』2010年(平成22年)3月号では、重要事項として「有能で献身的な医者を安定的に確保すること」を挙げた。Cは一度は辞意を撤回し、上小阿仁村の無医村化は回避されたが、最終的に退職願は受理された。しかし、村民の医師に対する接し方および村当局の対応は改善することもなく、2012年(平成24年)5月には医師Dも辞意を表明している。医師Bは村の広報誌にて「村執行部の医師に対する見方、接し方、処遇の仕方の中に医師の頑張る意欲をなくさせるものがあった」「次の医師が見つかっても、その人も同じような挫折をすることになりかねない」とのコメントを残している。

出典:wikipedia

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