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ヤエノムテキ

ヤエノムテキは日本の元競走馬。1990年JRA賞最優秀父内国産馬。おもな優勝レースは1988年皐月賞、1990年天皇賞(秋)、京都新聞杯、産経大阪杯、鳴尾記念。東京競馬場の芝2000メートルの元レコードホルダー。国内レーティングの最高は1989年の112。ヤエノムテキは浦河の宮村牧場という小さな牧場で生まれた。母ツルミスターは3戦未勝利という戦績で、近親にも特に目立った活躍馬はいなかったが、ダービー馬を出したイエローゴッド、ソロナウェー、トサミドリや、桜花賞馬を出したトキノチカラなどの種牡馬が血統表に名を連ねていることから、同馬を管理していた荻野光男調教師の勧めもあって繁殖牝馬となることができた。父ヤマニンスキーは競走成績こそ22戦5勝重賞未勝利と目立たなかったものの、父ニジンスキー・母父バックパサーという血統は名馬マルゼンスキーと一緒であり、マルゼンスキーの代替種牡馬としてそれなりの人気を集めていた。ヤエノムテキは気性面や体質面の問題により4歳の2月までデビューが遅れたが、西浦勝一騎手鞍上で新馬戦、続く沈丁花賞(共にダート戦)をそれぞれ7馬身差、12馬身差という大差で勝ちあがった。その後、皐月賞出走のための賞金を稼ぐために連闘で「東上最終便」毎日杯に挑むも、オグリキャップから離された4着に沈んだ。本賞金は得られなかったものの、その後6分の3の抽選をくぐり抜けて皐月賞に出走する事ができた(なお、この年の皐月賞は東京競馬場で行われた)。単勝25倍の9番人気で挑んだ皐月賞では、1番枠からスタートすると第2コーナーでメイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行で1番人気のモガミナインが不利を受ける中、その影響を受ける事無くサクラチヨノオーをマークしながら好位で進み、直線で鋭く脚を伸ばして2着のディクターランドに4分の3馬身差をつけて優勝した。その後ダービーに出走するも4着に終わったヤエノムテキは、放牧に出る事無く夏場も走り続け、中日スポーツ賞4歳ステークス2着、UHB杯1着の成績を残し、秋初戦の京都新聞杯も快勝して1番人気で菊花賞に挑んだが、距離が合わなかったのか10着に敗れた。その後当時2500mで行われていた鳴尾記念を勝って1988年を終えた。年明けの日経新春杯2着の後、産経大阪杯を快勝して1番人気で宝塚記念を迎えたが7着に敗れた。秋には調整の失敗もあってぶっつけで天皇賞(秋)に挑むも4着、有馬記念は6着と不完全燃焼に終わった。年明けから春にかけては、日経新春杯2着、マイラーズカップ3着、産経大阪杯3着と勝ちきれない競馬が続いた。安田記念からはそれまで主戦だった西浦騎手から岡部幸雄騎手に鞍上を替えるも2着、宝塚記念は3着と勝ちきれない競馬が続いた。そして迎えた天皇賞(秋)は7番枠からスタートすると中団の内側を追走、直線では内を突いて残り400mで先頭に立つと、最後はメジロアルダンの急襲をアタマ差抑えて優勝、GI2勝目を飾った。その後ジャパンカップ6着を経て引退レースとなる有馬記念に出走したヤエノムテキは本馬場入場直後に放馬してしまう。馬体に異常無しとしてレースには出走したもののいいところ無しの7着に敗れ、現役生活を終えた。引退後、総額5億円のシンジケートが組まれ、1991年(平成3年)新冠町農協畜産センターにて種牡馬デビューした。しかし、1996年には早くもシンジケートが解散、その後安価のシンジケートが組まれたがそれも解散。先行きを案じた同馬のファン150人がヤエノムテキ会を結成し、北海道日高スタリオンステーションで種牡馬として供用されていた。ただし、2003年を最後に種付けは行われなかった。2010年を最後に種牡馬を引退し、日高スタリオンステーションで功労馬として余生を送る。2014年3月28日、腸閉塞により死亡した。2006年3月時点で、通算コンパラブルインデックス0.94に対してアーニングインデックスは0.76。これまでに競走に送り出した177頭のうち116頭が勝ち馬になっており、457勝をあげている。2005年、ヤエノムテキの子は一年間で350万円ほどの賞金を稼ぎ、種牡馬順位で535位だった。年間アーニングインデックスは0.16。オグリキャップは536位、メジロアルダンは538位である。このほか、ユウキツバサオー、ヤエノビューティが中央競馬で準オープン馬になっている。

出典:wikipedia

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