キリスト教神秘主義(キリストきょうしんぴしゅぎ)は、人間が、キリスト教の神、イエス・キリスト、聖霊を直接経験するための哲学と実践である伝統的には、普通、以下の3つの実践が行われる。キリスト教神秘主義では、聖書の文句は譬喩的に解釈される。例えば、イエスの山上の垂訓(マタイによる福音書5-7章)は、全体として、「神との合一」を説くものとして理解される。キリスト教の教理では、一般に、全ての人々(または少なくとも全てのキリスト教徒)の中に神が住まわり、イエス・キリストを信じることを通じて神を直接経験できるとされている。一方、キリスト教神秘主義は、知性では到達できない霊的な真理を、おもに「キリストに倣う」ことにより、把握しようと努める。キリスト教神秘主義の伝統は、キリスト教史そのものと同じくらい古い。少なくとも新約聖書の3つの文書には、後のキリスト教神秘家の思想を思い起こさせる主題が幾つも見られる。まず、「ガラテヤの信徒への手紙」(2:19-20)には、次のようにある。キリスト教神秘主義にとって、次に重要な一節は「ヨハネの手紙一」(3:2)である。そして3番目は、(とりわけ東方キリスト教神秘主義にとって重要なのだが)、「ペトロの手紙二」(1:4)である。また、キリスト教神秘主義においては、以下の2点が主要な主題である。これらの点について、「コリントの信徒への手紙一」(13:12)には、以下のようにある。他にも神秘体験の記述が見られる。例えば、「コリントの信徒への手紙二」(12:2-4)には、パウロが、ある人が、おそらく体を離れて「第三の天」まで引き挙げられた例を紹介している。このような神秘体験は、おそらくイエスの山上の変容の際にも起こった。共観福音書に確証されているように、この時、イエスは3人の使徒、すなわちペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを率いて、高い山に登り、そこで彼は変容したのである。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そこへ、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合った。そうして、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。このような神秘現象はしばしば、(キリスト教神秘主義を含む)神秘主義一般に見られるものであるが、キリスト教徒にとっては、強調点が別の所にある。つまり、キリスト教神秘主義で強調するのは、主に、人間の霊的変容である。人間の霊的変容とは、時として強調されるように、人間は「神の似姿に造られている」ので、より完全な人間になる、あるいは人間性をより実現するということである。キリスト教徒にとって、この「人間の潜在性を完全に実現すること」は、イエスにおいて最も完全に果たされており、また他の人においても、イエスとの結びつきを通じて実現される。この場合、キリスト教神秘家の場合は、イエスとの結びつきを意識しており、またガンジーのような、他の伝統宗教を信奉する者の場合は、イエスとの結びつきを意識していないという違いはあるけれども。
東方キリスト教界では伝統的に、この人間の変容について「神化」()という術語で表現している。この教理は、「神が人間となったのは、我々を神とするためである」という、普通、アレクサンドリアのアタナシオスに帰される古い金言に最もよく表されている。時代をさかのぼると、少なくともすでに、黒海南岸ポントスのエウアグリオスや、偽ディオニュシオスなどのキリスト教神秘家は、聖なるものの三つの位階を求める実践道を探究していた。教派により、様相や用語は異なるが、この実践道は、「浄化」、「照明」、「合一」という段階を経ると説明され、これらは、肉体、心魂、霊という人間の「人性」の三形態を認識することに対応する。第1の「浄化」の実践は、神秘家の修行の始まるところである。この段階の焦点は、訓練、とりわけ人間の肉体の制御にあり、神秘家は、独りで、または仲間とともに、一定の回数、一定の姿勢で(しばしば立ったまま、あるいは跪いて)祈りを行うことに重点を置く。断食と施しという別の修行も重視される。特に施しには、飢えている人に食べ物を与えたり、身寄りのない者に住まいを与えたりするなど、「慈しみの業」と言われる、霊的、かつ物質的な活動が含まれる。
キリスト教神秘主義一般の基礎となるこの浄化の実践は、パウロの言葉を借りれば、「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(「ローマの信徒への手紙」8:13)ということである。「肉体のしわざ」とは、外面的な振る舞いのみならず、キリスト者として生きるのを妨げる習慣や態度、貪欲さ、耽溺など(いわゆる「情欲」)をも指す。これはもちろん、外面的なものだけではなく、内面的なものも指すのである。肉体上の制御を行うため、浄化の実践はしばしば、キリスト教神秘主義の実践全体と同じく、「禁欲主義・苦行」と呼ばれる。ここで追い求められるのは、本来の意味における「救済」であり、「永遠の命」を得るというよりも、霊的な、精神的な、感情的な、また肉体的な「癒やし」を得ることを言う。第2の「照明」の実践は、聖霊が人の心を照らし、聖書やキリスト教の伝承に明示されている真理のみならず、自然界に明示されている真理を悟る知恵を与えてくれるという働きに関わるものである。ここで言う「自然界の真理」とは、科学的な意味ではなく、経験するあらゆる事物の中に神の働きを感じるというような、森羅万象の「深み」を照らす働きを指す。第3の「合一」の実践は、西洋世界で普通、「瞑想」と呼ばれ、何らかの形で、神と一体になる経験に関わる。この一体化の経験は様々であり、記述するのが難しい。しかし、先ず第一に「神の愛」に関連づけられる。「ヨハネの手紙一」(4:16)に「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」とあるように、知性による以前に、心によって、至高なる存在を知るのであるという根本テーマである。この3段階について、第1、第2は、第3へと至る凖備的なものであると説く古典的神秘主義の教えもあり、一方、この3つは相互に重なり合っているものだと説くものもある。キリスト教神秘主義の別の特徴は、集団生活に関係するものである。世を捨てた隠者にとってさえ、キリスト者の生活は常に、教会や信徒の交わりとともにあった。すなわち、とくに「聖餐式」(聖体祭儀)などの集団儀礼に参加することは、キリスト教神秘主義にとって不可欠の要素である。これにより、霊的指導者や告悔師(聴罪司祭)、また「魂の友」と交わることができ、霊的な修道の過程について論じ合うことができる(霊的な師は、聖職者である場合も在俗信徒である場合もある)。
出典:wikipedia
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