キエティスム(英語読みは、クワイエティズム)(Quietism、静寂主義) は、様々な意味と定義を持つ用語である。穏やかな静寂の状態、あるいはアタラクシアの状態は、エピクロスやストア派、あるいは皇帝マルクス・アウレリウスのような古代ローマの信奉者たちによって、望ましい心の状態と見なされていた。キエティスムは、仏教で言う涅槃(ニルヴァーナ)の境地と比較されてきた。罪のない状態、神との合一の達成の可能性は、ローマ・カトリック教会によって否定されている。ヴィエンヌ公会議(1311年-1312年)で非難された「間違い」の主張とは、以下の通りである。すなわち、の側では個人の自律に関する同様の主張が、1317年、ローマ教皇ヨハネス22世によって激しい糾弾にさらされた。1329年、同教皇はマイスター・エックハルトの誤りの中にある、パンがキリストの肉体に変わったという秘蹟(→「化体説」の項を参照)と同様に、我々は総合的に神へと変容するのだという主張、および、内なる行動の価値―これらは持続的に我々に与えられている神格によって造られたとされる―を法的に禁じた。キエティスムは、偉大な16世紀のスペイン神秘家たち、すなわち、アビラのテレサや十字架のヨハネらの流れの中で、さらなる発展を遂げた。その流れにおける最終的な正統派カトリックの擁護者は、ミゲル・デ・モリノスであった。彼は、カトリック百科事典によって、キエティスムの創始者とされた。17世紀のフランスにおけるキエティスム運動の主唱者は、モリノスの文通相手であり、多くの著作活動を行った作家ギュイヨン夫人であった。彼女はルイ14世治世下の裁判で、マントノン夫人や大司教フェヌロン(Francois Fénelon)のカトリック支配下にある支持者たちを改宗させ、大きな影響を与えた。モリノスとキエティスムの教義は、最終的には教皇インノケンティウス12世の1687年の教令「チェレスティス・パストル(Coelestis Pastor)」の中で非難された。フランスの聖職者委員会はギュイヨン夫人の作品を調査して大部分を許し難いものとし、政府は彼女をまず修道院に監禁し、次にバスティーユ監獄で禁固にした。フェヌロンがボシュエとの出版論争において猛烈な擁護を行った後、1699年、教皇インノケンティウス12世は、フェヌロンの著書"Maxims of the Saints"を発禁処分にした。依然として残ったイタリアのキエティストたちに対する宗教裁判の推進は、18世紀まで続いた。キエティスムにおいては、人間の最も崇高な完成は、現世にありながらも自己の精神を無きものにし、そして、その結果生じた聖なるものへの魂の没頭状態であると言われる。このようにして、精神は世俗的な興味から受け身かつ持続的な神の直視へと引き出されるのである。ギュイヨン夫人は、「自分は罪を犯すことはできない。なぜなら、罪とは自我のことだからだ」と主張した。そして彼女は自我からの脱却をはかった。その神学的な意義が何であれ、キエティスムによって暗示される個人の自律が教会の統一、同化、規律を揺るがす効果を持ったことは否定できない事実である。ショーペンハウアーは、キエティスムを生きる意志の否定だと述べた。彼によれば、この服従と無私は知性の最終段階を構成しており、世界の苦悩からの究極の救済もしくは解放である。知性の最終段階だというのは、精神が世界を把握し、それゆえそれ自身が持続的に強い衝動に駆られ、結果として、苦悩や痛みを引き起こすような人間の欲望もしくは意思とよく似ているからである。キエティストは世界と人間の身勝手さから目を背けるのである。なお、正教会に発し、アトス山で盛行した神秘主義、ヘシカスム(ヘシュカスモス)にも静寂主義の訳語を充てる。こちらの静寂主義については、「グレゴリオス・パラマス」の項などを参照。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。