田沢湖線(たざわこせん)は、秋田県大仙市の大曲駅から岩手県盛岡市の盛岡駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。地方交通線とはいえ、東北本線沿線から秋田方面へは重要なリレー的路線の需要もあるため、1996年から1年間運休して軌間を新幹線と同じ1435mmの標準軌に拡幅する改軌工事を行い、翌年にミニ新幹線である秋田新幹線のルートとして東京駅からの直通を可能にした。全線が単線であり、上下の秋田新幹線「こまち」が途中の駅や信号場で行き違いを行う光景が見られる。盛岡駅 - 大地沢信号場間が盛岡支社、志度内信号場 - 大曲駅間が秋田支社の管轄である。1日当たりの輸送密度(平均通過人員)は以下の通り。国鉄分割民営化時に当時の運輸省に提出された基本計画や鉄道要覧記載上の起点は大曲駅だが、列車運行上は盛岡駅が起点で、盛岡から大曲・秋田方面に向かう列車が下り、逆が上りである。秋田新幹線ルートの一部として東北新幹線直通特急「こまち」が東京駅 - 秋田駅間で運行されている。秋田新幹線開業以前は、盛岡駅 - 秋田駅・青森駅間に特急「たざわ」が運行されていたが、改軌工事の開始に伴って廃止された。新在直通開始後、輸送指令は秋田支社の管轄になった。普通列車は、岩手県側は盛岡駅 - 雫石駅間が1 - 2時間に1本の運行、雫石駅 - 赤渕駅間は運行本数が少なく5 - 7時間以上運行がない時間帯がある。秋田県側は田沢湖駅・角館駅 - 大曲駅間で2 - 3時間に1本程度(田沢湖駅 - 角館駅間は6 - 7時間以上運行のない時間帯あり)の運行である。盛岡駅 - 大曲駅間の全線直通の普通列車は上り下りともに3本、合計3往復6本と非常に少ない。県をまたいでの利用客が少ないためか、県境の赤渕駅 - 田沢湖駅間を運転する普通列車は前述の6本に加えて盛岡駅 - 田沢湖駅間の区間運転の列車が2本(下り1本、上り1本)の合計4往復8本が設定されているのみで、8時間以上運行がない時間帯がある。そのため、短距離区間の乗車であっても秋田新幹線「こまち」を利用する客も少なくない。岩手県側では各駅で宅地開発の進む盛岡都市圏の通勤通学輸送が主という路線になっている。土曜日には昼間の大曲駅 - 角館駅間の列車1往復が田沢湖駅まで延長運行される。全線電化区間でありながら、秋田県が特急列車の運転に必要な最小限の変電所のみでよいとしたため、特急列車以外は電車化されず、長年に渡ってローカル列車はすべて気動車を使用していたが、改軌工事の完成(秋田新幹線開業)時に電車化され同時に一部列車でワンマン運転を実施している。なお、秋田新幹線が開業した際には大曲駅でスイッチバックを行って奥羽本線秋田駅へ至る方式が採られたことや、従前より普通列車については奥羽本線との直通列車を運行していなかった関係で、山形線のような愛称路線名で呼ばれず田沢湖線のままで定着している。秋田県大仙市の全国花火競技大会開催時は、秋田新幹線「こまち」を大曲駅発着に、また盛岡駅・田沢湖駅 - 大曲駅間の普通列車「ナイアガラ」号として、秋田駅→大曲駅間の直通の快速列車「花火」号としてそれぞれ運転される。後者の場合、大曲駅、神宮寺駅、刈和野駅、秋田駅以外の駅ではホームが無いのですべて通過するか、止まったとしても、神宮寺駅と刈和野駅を含めて運転停車扱いとなる。花火大会の臨時輸送の際は、盛岡駅の田沢湖線ホームに新幹線車両が停車する光景が見られることもある。秋田新幹線の臨時列車運行の関係で、たびたび時刻(季節運行による変更)や発着駅(大曲の花火関連)が変更される列車がある。専用の701系電車(標準軌仕様の5000番台。秋田車両センター所属)が普通列車に使用されている。盛岡と大曲を結ぶ横断線として軽便鉄道法により計画された路線である。盛岡側は橋場軽便線(はしばけいべんせん)として1922年に盛岡 - 橋場(現在休止(実質廃止))間が、大曲側は生保内軽便線(おぼないけいべんせん)として1923年に大曲 - 生保内(現在の田沢湖)間が開業した。なお、1922年の軽便鉄道法廃止により、それぞれ橋場線(はしばせん)、生保内線(おぼないせん)と改称されている。大正末期には全通計画が企画され、調査までされていたものの、緊縮財政のため見送られた。昭和に入り、ようやく同区間の計画が認められ、橋場 - 生保内間が工事線生橋線として着工された。着工時にはすでに全区間の工事計画は鉄道大臣による認可をされており、あとは施工するだけであった。この時の計画は、国見温泉方面を経由した国道46号線仙岩峠旧道(現在は秋田側が廃道)に近似したルートであった。ところが、生保内 - 志度内の手前数十mまでのレールまで敷いた路盤ができた時点で日中戦争の激化により中止された上、1944年には橋場線の雫石 - 橋場間が不要不急線として休止(実質廃止)となってしまった。レールは取り外されて、貨物輸送で磨り減った山田線のレール交換に使われた。戦後、両線を結ぶ鉄道の建設運動が再び起こったが、この時は、あくまで生橋線全線開通を目的としたものであり、休止中の橋場線雫石 - 橋場のことは、関係者共々、日本国有鉄道に承継されていなかったと誤解していたため、廃止・経路・駅名改称等の手続や告示はしなくても、生橋線工事名義で建設しても問題ないだろうと考えていた。また、建設調査では戦前の工事計画は放棄されて、橋場手前の赤渕附近で分岐させる計画となった点を利用し、生橋線全線開通が目的である以上は、そのような些細なことを問題にするのは不適切であると考えられたため、雫石 - 赤渕間を橋場線復活扱いではなく、『日本鉄道建設公団工事線生橋線』の一部として着工させてしまった。同区間は建設後、休止中の橋場線盛岡 - 雫石間への編入がされた。これにより休止中の橋場線雫石 - 橋場間と、新線として建設後編入された橋場線雫石 - 赤渕間が併存する形となった。中断中の生橋線のルートは橋場 - 生保内間から雫石 - 生保内間に変更され(休止した雫石 - 橋場間の途中の赤渕と志度内を結ぶ短絡ルートとなった)赤渕 - 橋場間は放棄されたが、正式に廃止はされなかった。1966年に全通し、生保内線・生橋線を橋場線に編入し、その橋場線が田沢湖線と改称された。全通後も比較的地味な地方交通線であったが、1982年の東北新幹線盛岡開業に伴って、盛岡 - 秋田間の連絡ルートとして電化工事が行なわれ、新幹線接続特急「たざわ」が運行を開始した(このとき電化工事のため、赤渕 - 田沢湖間でバス代行運転が約1年間行われた)。国鉄分割民営化時には、JRの基本計画上、休止中の橋場線雫石 - 橋場間は東日本旅客鉄道へは承継されず、日本国有鉄道清算事業団へ承継され、起終点が逆になったが、実際上は起点も盛岡からのままで現在に至っている。その後、東京 - 秋田間のミニ新幹線構想が浮上し、そのルートの一部として約1年間の列車の運行停止を行い、新幹線と同じ軌間1435mmに改軌が行なわれ、1997年に秋田新幹線が開業。新在直通特急「こまち」が運行を開始した。2015年、盛岡市前潟地区の自治会や商業施設(イオンモール盛岡などがある)が盛岡-大釜間に新駅を誘致する団体を設立し、盛岡市側に働きかけを行っている。市側も誘致に前向きであり、JR東日本と協議を行っている。
出典:wikipedia
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