日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬されることとなった。ただし、家康の遺骸は久能山にそのままとし、日光には家康の遺命に従って分霊が勧請されたとする見方もできる。日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われた。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である本光国師日記には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。なお、2013年度(平成25年度)より、2018年度まで「平成の修理」が陽明門でも行われている。表参道の先に有る高さ9mの石鳥居は日本最大のものであり、福岡藩の初代藩主・黒田長政公によって寄進されたもので、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られた。日光東照宮の建物には、多様な動物の木彫像がみられることが多い。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。神厩舎には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、猿が馬を守る動物であるという伝承から用いられている。この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっている。日光の木彫像の中で眠り猫に続いてよく知られている、「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿は、この神厩舎に造られたものの1枚に過ぎない。なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えであり、転じて「自分に不都合なことは見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えにもなる。日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという、そのため、陽明門前の写真店屋のある辺りが気学における四神相応(しじんそうおう)の土地相といわれている。ただし、Google Earth から経緯度を取得すると、江戸城本丸から日光東照宮本殿への方位角は353度16分20秒(6度43分40秒西振れ)となり、およそ南北の位置関係にあると言える程度である。日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色の彫刻で覆われ、一日じゅう見ていても飽きないということから、「日暮御門」と称されている。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。陽明門は他の社殿と同様、寛永13年(1636年)の造替である。建築形式は三間一戸楼門で、規模は桁行(間口)が約7メートル、梁間(奥行)が約4メートル、棟までの高さが約11メートルである。屋根は入母屋造、銅瓦葺きで東西南北の各面に唐破風を付す。正面唐破風下には後水尾天皇宸筆の「東照大権現」の勅額がある。組物は上層が三手先(みてさき)、腰組は四手先で、柱上のみでなく、柱間にも密に組物を置く詰組とする。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で扇垂木とする。初層の柱は円柱で、礎盤削り出しの礎石上に立つ。初層の柱間は地覆、腰貫、飛貫(ひぬき)、頭貫で固め、頭貫上に台輪(だいわ)を乗せる。礎盤形の礎石、貫の多用、台輪の使用、詰組、扇垂木など、細部は禅宗様を基調とする。柱、貫などの軸部材は胡粉塗で白く仕上げ、要所に鍍金金具を嵌める。初層柱には地紋彫を施す。地紋彫は屈輪文(ぐりもん)の地の上に丸文を散らし、丸文の中には鳳凰、孔雀、二つ蝶、竜、象、虎、牡丹などを表す。12本の柱のうち1本(背面西から2本目)のみは屈輪文が上下逆さになっており、「魔除けの逆柱」と称されている。また、建物を全て完璧に完成させるといずれ崩壊するという言い伝えから、一箇所だけわざと完璧にせず、崩壊を防ぐという意味もある。見分け方として、柱の模様の渦巻きが「魔除けの逆柱」のみ反対の渦巻きになっている。初層中央間に黒漆塗に鍍金金具で飾った両開き扉を吊り、両脇間は表側に一対の随身像、裏側に獅子一対を安置する。これらの像の周囲の壁面は胡粉塗に漆箔仕上げの牡丹唐草文の彫物で飾り、欄間(飛貫と頭貫の間)は黒漆塗の地に花鳥の彫刻を貼り付けている。その上方の組物は出組で、斗(ます)や肘木は漆箔とし、組物と組物の間は菊花文の彫物を入れる。初層の地覆、腰貫、飛貫、頭貫などの水平材は柱などと同様、胡粉塗で、頭貫は牡丹唐草文の地紋の上にさまざまな姿態の唐獅子の彫物を配する。頭貫の木鼻も唐獅子であり、阿吽を交互に配置する。その上の四手先の組物は、斗や肘木を黒漆塗とし、稜線部に金箔を押し、牡丹唐草文の沈金彫を施す。通肘木には鍍金の木瓜形金具を打つ。組物間の空間(琵琶板)には中国の先験や仙人などの人物像の彩色彫刻がある(詳細は後述)。組物の四手先目の木鼻は彩色の唐獅子となり、その左右には牡丹を表す。初層の内部天井は中央間(通路部分)が2面の墨絵の雲竜図となり、その周囲には彩色の雲文がある。両脇間の天井は、東が天女図2面、西が迦陵頻伽図2面をいずれも彩色で描く。初層両側面の外壁には金箔の地に彩色の牡丹立木の彫物があるが、これは当初のものではなく、寛延2年(1749年)から宝暦3年(1753年)にかけての修理時に制作されたものである。昭和49年(1974年)の修理時に、現在の牡丹図の下から、唐油彩色の鶴錦花鳥図が発見された。唐油とは、桐油、荏油などを顔料の溶剤とした絵画技法である。上層は円柱を頭貫でつなぎ、その上に台輪を乗せる。柱、貫、台輪等は初層と同様の胡粉塗とし、柱には松皮菱の地紋彫がある。頭貫の木鼻は竜馬(りゅうば)となる。竜馬は一見、竜と似ているが、前脚に馬のような蹄があることから区別できる。頭貫は浪間に竜馬の地紋彫を施し、正面及び背面の中央には大型の蟠竜の彫物がある。上層の柱間装置は、正背面の中央間を黒漆塗の桟唐戸とし、正背面の両脇間および東面・西面はそれぞれ変形の花頭窓とし、鳳凰円文で飾る。中央間の桟唐戸の前にも変形花頭窓形の枠がある。桟唐戸の左右には胡粉塗の昇り竜降り竜の彫物があり、正背面の両脇間および東面・西面の花頭窓の左右には胡粉塗の松竹の彫物がある。上層の周囲には高欄をめぐらす。高欄の四隅の柱は逆蓮の柱頭を用いた禅宗様である。この高欄の羽目板には、唐子や植物、鳥などの彩色彫刻がある(後述)。上層の組物の仕上げは初層と同様で、斗や肘木を黒漆塗とし、稜線部に金箔を押し、牡丹唐草文の沈金彫を施す。出桁は群青地の上に牡丹唐草に鳳凰文を描く。組物間の空間(琵琶板)には鳳凰の彩色彫刻がある。上層の組物には尾垂木が上下2段に入り、上段の尾垂木先は竜、下段の尾垂木先は竜と似るが、異なった動物である「息」(読み方は「そく」または「いき」)とされている。四隅では尾垂木が3段になり、上段から順に竜、雲形、息となる。「息」という架空の動物の名は、宝暦3年(1753年)にまとめられた『御宮並脇堂社結構書』(『宝暦結構書』)という資料に出てくる。この資料は東照宮内の建築装飾の主題や技法について詳細に記録した書物である。「息」という動物名はこの資料にしか見出せず、「息」の作例も日光東照宮の陽明門と拝殿以外の場所にはほとんど見出せないことから、その正体は謎であり、読み方も「そく」か「いき」か不明のままである。「息」は外見上、竜とよく似ているが、角が1本であること、鼻が豚に似ていることなど、明らかに異なった図像的特色もある。 日光東照宮の社殿はおびただしい数の彫刻で装飾されており、陽明門のほか、表門、回廊、唐門、拝殿、本殿などにも数多くの彫刻がある。これらの彫刻は単なる装飾ではなく、徳川家康を「神」として祀る社殿において、さまざまな象徴的意味を担っている。人物彫刻には中国伝説や故事に取材したものが多く、鳥獣の彫刻には霊獣、霊鳥と呼ばれる、吉祥的意味合いをもつものが多い。初層組物間には人物像の装飾彫刻がある。これらの題材はいずれも中国のもので、故事、古代の先験、伝説上の仙人などを表している。組物間の彫刻は、正面と背面に各7個、側面には各4個の計22個である。それぞれの題材は以下のとおり(便宜上、各面とも向かって右端の彫刻を(1)として番号を付した)。正面の7個の彫刻のうち4個は「琴棋書画」(きんきしょが)を題材としたもので、残りの3つは周公旦と孔子にまつわるものである。「琴棋書画」とは琴、囲碁、書(書道)、絵画の4つの技芸を表す。これらは文人のたしなむものとされ、文人の理想の生活を象徴するものである。周公旦は周時代の政治家で、陽明門の彫刻は、彼が賢人を見逃さないために、髪を洗っている時にも人々との面会に応じたという故事を表している。陽明門の初層正面中央にある彫刻は、水盤を前に髪を洗っている周公旦を表し、その向かって右の彫刻は、周公旦に訴えを聞いてもらおうとしている5人の人物を表している。「孔子観河」は、『論語』の「子罕第九」にあるエピソードで、孔子が河の流れを見つめ、「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず」と述べた場面を表している。背面の7個の彫刻はいずれも仙人を題材にしたものである。仙人とは、中国の道教思想における理想的人物で、仙術(超人的な術)をあやつる不老不死の存在とされている。琴高仙人は鯉にまたがり、黄仁覧、王子喬、梅福仙人はそれぞれ竜、鶴、鳳凰に乗った姿で表される。背面中央の彫刻の題材は費長房とされているが、この彫刻の中に費長房自身の姿はなく、空を見上げる3人の人物がいるのみである。これら3人の見上げる先に空を飛ぶ仙人がいるという設定になっている。東面は北端に虎に乗る鄭思遠、南端に麒麟に乗る張良の彫刻がある。鄭思遠の左は四睡図で、天台山国清寺の豊干禅師と、同寺に住した風狂の隠者寒山・拾得が、禅師の手なずけた虎と一緒に眠っている図である。その左の彫刻は七福神のメンバーでもある福禄寿と寿老人を表したもので、寿老人の連れている鹿(玄鹿)もいる。西面は中国の伝説や故事に登場する人物を題材としている。商山四皓は、秦代の末期に乱世を避けて商山(陝西省商県)に隠棲した4人の高士、東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生(ろくりせんせい)を指す。「皓」は「白」の意で、4名とも眉や髭が白かったことからこの呼称がある。虎渓三笑とは、慧遠、陶淵明、陸修静の3名を表した図像である。東晋の高僧慧遠は、廬山の東林寺に隠棲し、俗界との境である虎渓(川)を決して渡らないことを誓っていた。ある日、慧遠のもとを陶淵明と陸修静が訪ねてやってきた。慧遠は訪問を終えて帰る陶淵明と陸修静を見送る道すがら、彼らとの話に夢中になり、気がついたら3人とも虎渓を越えていた。それに気付いた3人が大笑したというエピソードである。西王母と東方朔の図は「東方朔奪桃」と呼ばれるもので、東方朔が西王母の園から長寿の腿を盗み出し、800年の長寿を得たというものである。三聖吸酸は大甕を囲む3人の人物(蘇軾、黄庭堅、仏印)を表す。儒教の蘇軾、道教の黄庭堅、仏教の仏印の3人が桃花酸という酢をなめたところ、3人とも「酸っぱい」と言ったという故事で、宗教や立場が違っても真理は一つであるという意味を表す。以上の人物彫刻にはそれぞれの含意があるが、特に正面に位置する彫刻には重大な意味があり、正面中央の周公旦は理想の為政者像として、徳川家康その人のイメージを投影したものとみなされる。仙人の像は、家康の肉体は滅びても、その魂は永遠に生き続けることの寓意とみられ、家康を葬った日光の地が仙境であることを含意するとの見方もある。後述の「唐子遊び」の像は、徳川政権下の天下泰平を寓意するとみられる。上層高欄の羽目板には「唐子遊び」と呼ばれる装飾彫刻がある。「唐子」とは、絵画や工芸品の題材として登場する、中国の子供のことを指す。羽目板は正面と背面に各9面、側面には各6面の計30面である。30面のうち10面は鳥や植物などの図柄で、残り20面が「唐子遊び」である。それぞれの題材は以下のとおり(便宜上、各面とも向かって右端の羽目板を(1)として番号を付した)。唐子の彫刻群は、「孟母三遷」と「司馬温公甕割」以外は、具体的なエピソードを語るものではない。「司馬温公甕割」は、司馬温公が幼少の時、誤って大甕に落ちた友人を救うために、高価な甕を叩き割ったという故事を表す。花鳥の彫刻のうち、「鸞」は想像上の鳥で、鳳凰とよく似ているが、尾羽が鳳凰のようにギザギザにならない点で区別される。山鵲は中国などに実在する鳥で、「尾長鳥」と表記されることが多い。瑠璃鳥は実在するスズメ目の鳥であるオオルリ、コルリのことだが、彩色がなければ雀と区別しがたい。以下の5件8棟の建造物が国宝に指定されている。(*)印の2棟は東照宮と輪王寺のいずれに帰属するか未決着である。(以下は「附」(つけたり)指定物件)(指定年月日)典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
出典:wikipedia
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