桂 歌丸(かつら うたまる、1936年〈昭和11年〉8月14日 - )は、日本の落語家。本名は椎名 巌(しいな いわお)。神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)の出身・在住。定紋は『丸に横木瓜』。血液型はA型。横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。出囃子は『大漁節』。公益社団法人落語芸術協会会長(5代目)。当初は新作落語中心だったが、近年は、廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動している。地元・横浜においては横浜にぎわい座館長(2代目)、横浜橋通商店街名誉顧問も務めている。位階勲等は旭日小綬章。演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして活躍し、2006年(平成18年)5月から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務めた。妻の名前は冨士子(富士子という表記は誤り )。1932年生まれで歌丸より4歳年上。冨士子夫人も、歌丸と同じく横浜真金町の出身であり、歌丸の生家の近くに在住していた。このため、師匠・5代目今輔から勧められた女性を断って、顔見知りであった冨士子夫人と結婚したと後に語っている。冨士子夫人との結婚は21歳の時。娘も20歳で結婚したため、42歳で孫が生まれている。1989年(平成元年)に歌丸が座布団10枚の賞品として獲得した「クィーンエリザベスIIの夕べ」にて“美女とクルージング”をすることになったが、その「美女」として冨士子夫人が登場している。ただし、後ろ姿のみで顔は出していなかった。その後も番組内で姿を現すことはなかったため、笑点では「謎のヴェールに包まれた人物」とされている。2007年(平成19年)11月23日に行われた歌丸の旭日小綬章と金婚式を祝う会では、公の場に夫婦揃って登場した。高座や大喜利でもしばしば恐妻として登場する。前身番組の『金曜夜席』第1回から出演。『笑点』になった後も、降板していた1969年(昭和44年)4月6日から11月2日まで、および病気療養のため休んだ1985年(昭和60年)4月7日・4月14日、腰部脊柱管狭窄症の手術・療養のため休んだ2008年(平成20年)6月29日・7月6日、および肺炎に伴う入院が長引いたことに伴う休演となった2010年(平成22年)3月7日・3月14日、肋骨骨折他で休演した2014年(平成26年)5月11日 - 6月1日、インフルエンザによる休養で休演した2015年(平成27年)1月25日・2月1日、手術後の体調不良で休演した同年7月12日 - 9月6日を除き、出演を続けていた。『笑点』がスタートした頃は、司会が立川談志であり、真打が談志と5代目三遊亭円楽だけであったことから、引け目もあって歌丸の雰囲気は陰気であった。これは談志がブラックユーモアを多くしろと言ったことも手伝った。。当時歌丸が談志の言い付けで行ったブラックユーモアを理解したのはマスコミ関係者などであり、一般には受けなかった。そうしたことから、歌丸は自分が1年でも持てば良い方だろうと思っていた。事実、1969年4月には番組の路線を巡って歌丸を含めて談志に異を唱えたメンバー全員が降板する事態に発展したが、同年11月、談志に変わって前田武彦が司会に就任、歌丸も番組に復帰した。歌丸曰く、前田武彦とは「畑が違う」ため番組内でのやり取りがちぐはぐになりがちだったといい、三波伸介が司会になったころからやり取りがスムーズになり、番組の色や歌丸の雰囲気も変わったという。番組中でも人気を博したのが、三遊亭小円遊との掛け合いであり、小円遊が歌丸を「ハゲ!」と罵倒すれば、歌丸は「お化け!」とやり返し、どんどんエスカレートするものであった。この掛け合いはものすごくウケたが、その時「あたしは落語を怠けている」と痛感し、落語をちゃんとやることにした。歌丸は「笑点」を務める中で「マンネリ」との批判を受けることがあったが、これに対して「マンネリってことは、長く続いているということだからね。それに、批判するってのは、それだけ見てるってこと、あるいは気にしてくれているってことでしょ」とむしろ喜んでいる。司会者としては「舞台に並んだら全員同格。上も下もない」という意識をメンバーに徹底させており、林家たい平や春風亭昇太がメンバーに入った時もはっきりとそのことを言った。。1973年(昭和48年)に脱腸と2001年(平成13年)に急性腹膜炎と2度開腹手術を受けているが、いずれも番組に穴を開けることはなかった。1973年(昭和48年)の手術直後の神奈川県伊勢原市での公開録画には、体調が優れない中で看護師同行の上で収録をこなした(この伊勢原での公録の模様を放送した『笑点』は40.5%の歴代最高視聴率をマーク)。2001年(平成13年)2月11日放送では手術直後の収録で、積み上げた座布団への昇降が困難だということで、歌丸は座布団の後ろに座ってその前に座布団を積み上げるという方式を取って臨んでいる(この放送で、後に現在に至るまでネタにされることになるほか、自身も司会就任後に何度かしでかした「大喜利を2問目で終了」を圓楽がしでかしている。後に、6代目円楽から「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」とネタにされている)。2006年に腰部脊柱管狭窄症の手術を行った際は、収録がない時期に手術を行った。2012年に腰部脊柱管狭窄症の手術を再び行った際も、収録のない時期に手術を行った。その後、2009年(平成21年)には肺気腫に伴う感染増悪で入院。50年以上に亘る喫煙の結果慢性閉塞性肺疾患と診断される。このときも笑点の収録のない間の入院で済んだため番組を休演することはなかった。しかし2010年(平成22年)には、今度は軽い肺炎を起こし入院。当初愛知県みよし市での地方収録の前日には退院の見通しであったが、大事を取って延期されることになった(同年3月2日に行われた6代目円楽襲名披露パーティは、一時退院の上で会見に臨んだ)ため、同年3月7日、3月14日放送分の『笑点』は、それぞれ木久扇と好楽が代理司会をする形で休演。同日放送分の『笑点Jr.』も木久扇が代理でナビゲーターをする形で休んだ。大喜利では4代目三遊亭小圓遊と、その後6代目圓楽(楽太郎)との罵倒合戦がおなじみであるが、新人時代にネタに悩んでいた6代目円楽(当時:楽太郎)に対し、「(ネタは)俺のことでいいから」と提案したことに由来しており、番組上の演出である。基本的には仲が良く、歌丸と6代目円楽の二人会などで共演することは多い。6代目圓楽の襲名披露を定席興行で実現させたのも、歌丸の尽力によるものだった。2014年(平成26年)3月29日、慢性閉塞性肺疾患の悪化で入院。5月1日に高座復帰したが、帯状疱疹で再入院し、5月22日に退院。5月31日、復帰後初となる『笑点』の収録を行った。6月23日の紀伊國屋ホールでの公演には車椅子で楽屋入りし、合間に酸素吸入器を付けるなど万全な体調ではなかったが、無事に高座をこなした。この様子は6月25日にテレビ朝日『ワイドスクランブル』のコーナー「情熱人」で放映された。同コーナー内での映画監督の井筒和幸との対談では、今回の病気で引退を考えていたものの、妻から「あなたが落語辞めたら張り合いがなくなる」と説得されて現役続行を決めたことも語った。2015年6月1日、背部褥瘡(はいぶじょくそう)の手術のため入院。同月9日に退院していたが、その後、体調不良となり、入院・休養することになる。『笑点』の収録などの仕事も休む。22日、病名が腸閉塞だったことがわかる。7月11日、退院。8月8日の『笑点』収録で仕事に復帰。高座にも同月11日からの東京・国立演芸場中席で復帰した。入院生活により脚の筋肉が落ち正座をするのが大変苦しいとして、見台を使用したものの、当日の“トリ”として登場し約1時間の高座を務めた。8月23日、日本テレビ系『24時間テレビ38 愛は地球を救う』内の「チャリティー笑点」に司会として登場。腸閉塞からの仕事復帰後では初めての生番組出演となった。9月13日、『笑点』復帰の回が放送される。2016年4月30日、同年5月に『笑点』が放送開始50周年を迎えることを機に、5月22日の放送を以て司会者を勇退することを発表し、番組初の終身名誉司会に就任することとなった。2016年5月25日、文化庁が歌丸の文部科学大臣表彰を発表。31日に文部科学省内で表彰式が行われ、馳浩文部科学大臣から表彰状が贈られた。2016年7月26日、新橋演舞場で開催された「桂歌丸芸歴65周年記念落語会」に出席したが、翌27日、腸閉塞治療のため再入院したことを明らかにした。2016年8月27日の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」39』では、オープニングで開会宣言を担当。笑点のオープニング風に、開会宣言を行った。
出典:wikipedia
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