大飛 進(だいひ すすむ、1952年10月16日- )は、愛知県名古屋市港区出身で、大山部屋に所属した大相撲力士である。本名は小椋 進(おぐら すすむ)。現役時代の体格は185cm、128kg。最高位は東前頭2枚目(1977年5月場所)。得意手は左四つ、上手投げ。現在は、年寄・大山を襲名し、東関部屋付きの親方として後進を指導している。名古屋市立港南中学校での恩師が縁となり、熱心な勧誘の末、中学卒業と同時に元大関・松登が率いる大山部屋に入門。1968年3月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。その当時、大山部屋には2人しか力士が在籍しておらず稽古相手に不足していたため、同じ高砂一門の高砂部屋に通って稽古を積んだ。その甲斐もあり着実に番付を上げ、1974年7月場所で十両に昇進した。だが1場所で幕下に陥落し、1年以上幕下上位で苦労したが1975年11月場所にて十両に復帰すると以後はその地位に定着し、1977年1月場所で新入幕を果たした。四つになってからの右上手投げが得意で、一時は、幕内上位まで番付を上げた。しかし、痛風を患ってからは精彩を欠く相撲が多くなり、やがて十両に陥落。更には右大腿部の故障により、1978年7月場所では幕下まで陥落し、低迷した。1979年7月場所で十両に復帰すると徐々に体調が回復し、1981年11月場所では、実に25場所ぶりとなる再入幕を果たした。しかし、この時も幕内に定着すること無く、僅か2場所で十両に陥落した。以降は再々入幕を目指して相撲を取り続けたが、左大腿部を故障し、再度幕下まで落ちた。1983年5月場所後、現役を引退し、年寄・山響を襲名。以後は暫く、大山部屋付きの親方として、後進の指導に当たった。その後、1986年4月に師匠の大山親方(元・松登)が急逝したため、急遽大山部屋を継承した。しかし、部屋運営のための資金が不足していたこともあり、同年5月30日を最後に大山部屋の経営を断念。間もなく、弟子達と共に一門の本家である高砂部屋に転属となった。更に2011年12月27日には、東関部屋へ転籍している。真面目な性格が買われ、協会内では長く相撲教習所に所属し、相撲教習所の教頭格の存在となっている。また、決まり手係を務め、2001年1月場所から15手加えられ82手となった決まり手の整理・命名を中心となって取り纏めた。さらに近年は「相撲健康体操」を発案し、女性を含め広く相撲の基本動作の普及に励んでいる。2012年1月の日本相撲協会役員選挙で、副理事に初当選。同年2月1日の職掌任命で、巡業部副部長、警備本部副部長に就任した。巡業副部長としては、長年の教習所での経験と豊富な知識を存分に生かした相撲講座を巡業先で行ったほか、初切の指導も積極的に行った。2014年に任期満了で副理事を退任したことから、同年4月3日の職務分掌では巡業部の委員に降格したが、先発業務などを担当する他の巡業部委員とは異なり、全ての巡業に帯同して生活指導とファン対象の相撲講座を行っている。前述の通り、大山部屋を継承した時には部屋運営のための資金が不足しており、先代の葬儀費用にも事欠く有様であった。小部屋の経営難を象徴する事例として、当時、メディアでも取り上げられた。残された少ない弟子達とともに手作りの葬儀で師匠を送り、先代の遺族や後援者に大変感謝されたと伝えられている。大山部屋の閉鎖については、高砂部屋への配慮からあまり語ることはなかったが、後年「部屋を残せなかったことは返す返すも残念で、師匠に申し訳なかった」と述懐している。2010年2月1日に投開票された日本相撲協会理事選挙では選挙管理委員長を務め、投票方法の透明性を高めることに力を注いだ。それまでは投票箱と立会人の距離が非常に近かったため、誰に投票したかわかってしまう状況だったが、この距離を10メートルほど遠ざけ、また投票の様子を報道陣に公開した。このことが、一門を離脱し単独で立候補した貴乃花光司が、不利と思われた事前の予想を覆し当選したことにつながったとする見方もある。角界随一の知識人としても知られ、協会主催の「相撲寺子屋」の講師を長年つとめていた。特に相撲文化史に造詣が深く、過去には横綱・白鵬の綱先の「曲がりっぷり」を指摘した。以前の横綱の写真を携え白鵬に直接説明し、事情を理解した白鵬はただちに元来の「まっすぐに伸びた綱」に改めている。
出典:wikipedia
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