バッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)は、1966年4月に結成されたアメリカのロックバンドである。様々な音楽的要素を内包しながらも、そして、メンバーたちの際立った個性がぶつかり合いながらも、密度の高い、調和のとれた良質の作品を生んだ。その一方でメンバー間での対立(特にスティーヴン・スティルスとニール・ヤングの対立)が絶えず、1968年5月に解散した。活動期間は約2年と短く、大きな商業的成功も得られなかったが、1970年代以降の音楽シーンの第一線で活躍する人材を輩出した。1997年にロックの殿堂入りを果たした。1965年、Au Go Go Singers のメンバーとしてカナダ・オンタリオ州を訪れていたスティーヴン・スティルス、リッチー・フューレイの2人が、当地で若きギタリスト、ニール・ヤングに出会う。この出会いが後のグループ結成につながる。Au Go Go Singers 解散後、スティルスはカリフォルニアに拠点を移し、セッション活動で糊口をしのぐ合間にオーディションを受けるなどして細々と活動を続けた。プロデューサーのバリー・フリードマンから紹介された仕事をこなすためにバンドが必要になり、Au Go Go Singers で共に活動したリッチー・フューレイをカリフォルニアに呼ぶ。これでスティルスとフューレイが揃う。ヤングは1966年前半、トロントでブルース・パーマーに会い、彼が所属していたバンド「マイナー・バーズ」への加入を要請される。マイナー・バーズはレコーディングの準備が整えたが、リード・シンガーがアメリカ海軍によって逮捕されたため(彼は脱走兵であった)、デビューのチャンスを失う。ヤングとパーマーはスティルスとの再会を望み、ロサンゼルスに向かうことを決めた。約1週間後、スティルスの居場所を見つけられないヤングとパーマーはサンフランシスコへの移動を考えていた。ある日2人はサンセット大通りで大渋滞にはまり立ち往生する。そこに、対向車線から偶然スティルス、フューレイ、バリー・フリードマンが乗った車が通りかかり、スティルス、フューレイとヤング、パーマーは再会を果たす。バーズのマネージャーであるジム・ディックソンの紹介で、パッツィー・クラインやザ・ディラーズとプレイしたこともあるドラマーのデューイ・マーティンが加わり、バンドの陣容が整った。グループ名は、スティルスとフューレイが居候していたフリードマンの家の外に停めてあった蒸気ローラーのメーカー名(Buffalo-Springfield Roller Company)から採った。1966年4月11日にハリウッドのナイトクラブ、トゥルバドールでデビュー。数日後にはザ・ディラーズ、バーズの前座としてカリフォルニアを短期間ツアーした。ツアー終了後、バーズのクリス・ヒルマンがサンセット・ストリップの有名なナイトクラブ、ウィスキー・ア・ゴーゴーのオーナーに強く働き掛け、バッファロー・スプリングフィールドは1966年6月から2カ月間、ウィスキー・ア・ゴーゴーのレギュラーとして採用された。この間の演奏が評判を呼び、多くのレコード会社が彼らに興味を示した。彼らは最終的にアトランティックレコードとの契約を獲得し、アルバムのレコーディングに取り掛かかる。プロデューサーのチャーリー・グリーンとブライアン・ストーン(ともにソニー&シェールのマネージャーでもある)はヤングの声を気に入らず、ヤングの作品の大半のリード・ボーカルをフューレイに割り当てた。アルバムのリリースに先立ち、ファースト・シングル"Nowadays Clancy Can't Even Sing" をリリースしたが、ロサンゼルスでトップ25まで上昇した以外に大した反響はなかった。1966年12月、ファースト・シングルも含むデビュー・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド』をアトランティック傘下のアトコ・レーベルからリリース。1966年11月、LAのナイトクラブ、パンドラ・ボックスの閉鎖に抗議してサンセット・ストリップに集まった若者の群衆に対し、警察が治安目的で働いた暴力的行為を目撃したスティルスは、彼のエポック・メイキングとなる曲 "For What It's Worth" を書いた。バンドはすぐにハロウィンの夜のウィスキー・ア・ゴーゴーのステージでこの曲を演奏、数日後にはレコーディングされ、ロサンゼルスのラジオ局KHJから流された。この曲は翌年の3月までにはトップ10入りし、アトコ・レーベルは ファースト・アルバム収録の "Baby Don't Scold Me" をこの曲と入れ替え、ファースト・アルバムを再リリースした。"For What It's Worth" は最終的に100万枚を売り、ゴールドディスクに輝いた。1967年1月、グループはニューヨークに遠征。ドアーズも出演するクラブ、オンディーヌに出演する。しかし、このツアーでパーマーがマリファナ所持で逮捕され、カナダに強制送還されという事態に陥る。レコーディングやライブのためにアメリカの両岸を行き来していたバンドには、多くのベーシストがセッション・メンバーとして参加し、その中にはマザーズ・オブ・インヴェンションのジム・フィルダーもいた。テレビ出演の際などは、あらかじめ録音しておいた音源を流し、ロード・マネージャーがベースを抱えて当て振りをして乗り切った。こういった環境の中、次のアルバムの制作は難航した。バンドはプロデューサーのグリーン、ストーンと対立し、また、ヤングとスティルスも何かにつけて口論した。2人はそれぞれ自分がアルバムをプロデュースすることを主張した。ファースト・アルバムでは曲を提供しなかったフューレイはヤングと同じ数の曲をこのセカンド・アルバムのために書いた。6月初めにパーマーがグループに復帰、モントレー・ポップ・フェスティバルに出演する。しかしこの時ヤングは一時的に脱退しており、モントレーのステージにはいなかった(グループはダグ・ハスティングス、デヴィッド・クロスビーらをゲストに迎えてステージを務めた)。結局ヤングは10月に復帰。アトランティックの社長アーメット・アーティガンの働きかけにより、グリーン、ストーンのコンビはグループのプロデュースから撤退。バンドはアルバムの仕上げに集中し、1967年11月、セカンド・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』のリリースに漕ぎ着けた(プロデュースはアーティガン自ら手掛けた)。『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』はグループというより個々のメンバーの仕事の集合としてバンドの最高傑作であると考えられている。アルバムの反応もよく、ビーチボーイズに同行するツアーで全米を回り、バンドの状況は上向いているように見えた。しかし、1968年1月に薬物不法所持のためパーマーが再び強制送還され、せっかくの活動に水を差す。グループは後任にジム・メッシーナを加入させる。パーマーがいなくなったのに続いてヤングも徐々にグループから離れてゆき、しばしばスティルスがライブですべてのリードギター・パートを弾くことになった。レコーディングは、3月の終わりまでにメッシーナのプロデュースで予定通り行われたが、グループの解散は間近であった。1968年4月、メンバー3人に加えてエリック・クラプトンも巻き込んだドラッグ事件が決定打となってグループは解散を決めた。ラスト・コンサートは5月5日、ロングビーチ・アリーナで開催された。結成からわずか2年後のことであった。グループが実質的に解散した後、フューレイとメッシーナは1967年半ばから1968年の間にレコーディングされた楽曲を集めて最後のアルバム『ラスト・タイム・アラウンド』として完成させた。フューレイの感動的なバラード "Kind Woman"、ヤングの "I Am a Child"、政治的メッセージを含んだスティルスの "Four Days Gone" などは、作者以外のメンバーはレコーディングに参加していない各自のソロ・レコーディングであった。2010年10月23日と10月24日に開かれた、毎年恒例となっているヤング夫妻主催のブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートにおいて、ヤング、スティルス、フューレイの3人がバッファロー・スプリングフィールドを再結成して演奏した。3人が同じステージに立つのは実に42年振りのことであった。3人はさらに、テネシー州マンチェスターで行われる予定の2011年ボナルー・フェスティバルでの再結成を計画中である。
出典:wikipedia
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