ナムラコクオーは、日本の元競走馬で、現在は土佐黒潮牧場で余生を送っている功労馬である。ナリタブライアンと同世代で、ラジオたんぱ杯3歳ステークス、シンザン記念、NHK杯などに優勝し1994年の中央競馬のクラシック路線を賑わせた一頭である。1996年からは高知競馬に移籍し、2005年12月6日に引退するまで10年以上に渡って現役を続けた。脚部不安に悩まされ幾度も故障するが、そのたびに復活し走り続ける姿がファンの人気を集めた。なお馬名は冠名「ナムラ」と漫画「北斗の拳」の登場人物・ラオウの愛馬「黒王号」に由来する「コクオー」の組み合わせである。ナムラコクオーのデビューは1993年9月19日である。デビュー戦と2戦目の新馬戦をともに2着し、3戦目の未勝利戦で勝ち上がった。その後も順調に勝ち星をあげ、その年のラジオたんぱ杯3歳ステークスに駒を進めた。同競走ではここまで5戦2勝2着3回の好成績にも関わらず、全てダート競走だったことが嫌われたのか6番人気にとどまった。しかしそれに反発するように人気馬を抑えて重賞初勝利を挙げる。翌1994年、初戦のシンザン記念を制し、ナムラコクオーは既に朝日杯3歳ステークスを制していた同世代のナリタブライアンの対抗1番手として期待された。皐月賞トライアルの弥生賞でも1番人気に推されたが3着に敗れ、同時に屈腱炎を発症してしまい皐月賞は回避することとなった。一時は春シーズンは絶望とされたが症状は軽く(すぐ復帰できたことから屈腱炎は誤診では無いかという意見が多く出た)NHK杯で復帰するとヤシマソブリンを破り復帰初戦を飾った。そして打倒ナリタブライアンを目指して東京優駿(日本ダービー)に出走する。ナムラコクオーは2番人気とはいえ単勝のオッズは8.6倍に過ぎず、レースでは10馬身以上はなされた6着に終わった。不幸なことに競走中に骨折しており、その後マイル路線に標準を定めて秋はスワンステークスからの復帰を予定したが、屈腱炎を再発し休養に入る。復帰には2年近くかかり、1996年2月の仁川ステークスに出走。だがナムラコクオーの傷跡は大きく、次走の大阪杯では最下位に敗れた。起死回生策としてダートのプロキオンステークスへ矛先を変えると実に2年ぶりの勝利をものにした。だが、京王杯スプリングカップ13着、かしわ記念4着を経てまたもや脚部不安を発症した。経過は思わしくなく中央登録を抹消され高知競馬場に移籍することになる。移籍初戦は翌年の1月、初戦を2着とすると脚部不安の休養を経て10ヶ月後に出走も再び2着。そして屈腱炎を再発しさらに1年間の休養。翌1998年の10月に復帰すると翌1月のA級戦で3年ぶりの勝利を飾った。復帰直前にはかつて共に走ったナリタブライアンが死亡していたうえ、ナムラコクオーもすでに7歳(旧8歳)になっており同期の馬は殆ど引退していた中での勝利であった。しかし脚部不安は直らず特別戦2着の後休養へ。8月に復帰したときはC級に落ち、さすがにここでは実力が違い5連勝、そして6連勝目で高知の重賞黒潮スプリンターズカップを制し高知競馬場のトップホースの1頭に上り詰めていた。だが高知県知事賞で競走中止になり1年後に復帰したA級戦でもまたもや競走中止となり屈腱炎を発症。2年後に奇跡的に復帰するも、すでにナムラコクオーは11歳。だがクラスが最下級のE級まで落ちていたこともあり一気に7連勝を飾ると2003年の3月には統一重賞黒船賞に出走し4番人気に支持され、GI優勝馬ノボジャックやノボトゥルーと10馬身余りの差で9着に入っている。その後C,B級を7連勝、だが脚部に不安を抱え2003年9月27のAB混合戦を最後に、2005年12月6日、およそ12年間にも渡る競走生活に終止符を打った。引退後は土佐黒潮牧場で余生を送っている。野村彰彦(栗東)→堅田忠雄(高知1戦)→山岡恒一(高知1戦)→松下博昭(高知11戦)→田中守(高知19戦)
出典:wikipedia
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