平頂山事件(へいちょうざんじけん)とは、1932年9月16日、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の住民が多く殺傷された事件。犠牲者数については、400 - 800人(田辺敏雄による説)や3,000人(中国説)など諸説がある事件の誘因となったのは、1932年9月15日の反満抗日ゲリラ「遼寧民衆自衛軍」による、撫順炭鉱襲撃事件である。この背景には、満州国の建国宣言(1932年3月1日)以来活発化していた、反満抗日運動の存在がある。民間人居住区を狙ったこの襲撃に対し、周辺居住者を炭坑内や公会堂に避難させ、大人だけではなく青年団員や中学三年生以上(いずれも民間人の若者)を緊急に招集し、市街地への侵入を必死で阻止した。当初放火を主としていたゲリラ側は戦術の不手際により、作戦が成功したとは言い難いまま退却したが、日本側も、炭鉱所所長含む死者5名、負傷者6名、総額21万8,125円の被害を受けた。翌日の撫順守備隊の捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され、当集落がゲリラと通じていたとの判断を下した。16日朝、ゲリラ掃討の目的で40名程の部隊が平頂山村に侵入し、同村住人のほぼ全員を同村南西側の崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃し、また、生存者を銃剣で刺殺するなどして住人の大半を殺害した。事件後に旧日本軍守備隊や撫順炭鉱関係者らは、殺害された住人の遺体を崖下に集めて焼却した上、崖を爆破して遺体を埋め、その周囲に鉄条網を張るなどして立ち入ることができないようにした。同集落が(または同集落の一部が)ゲリラに関与していたかどうかについては現在、否定も肯定もされてはいない。事件後、撫順周辺の中国人労働者に動揺が走り、撫順を離れるものが大量に出た、と当時記録されている。中国国内では新聞などで報道され、国際連盟においても、1932年11月24日、国民政府の顧維鈞首席代表が問題にしたが、中国側の追及不足と日本側のあくまで掃討作戦の一環であるなどとする意見に、当時はそのまま終息している。被害者人数については諸説があり、中国側は、発掘死体の数などを根拠にしたとして3,000人を主張している。また、守備隊の中隊長であった川上精一大尉の親族である田辺敏雄は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者数を400-800人と推定している。なお当時、平頂山集落の人口は約1,400人、犠牲者数600人前後とする資料もある。ジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷6~70、軽傷者約130名と報告されている。いずれも確証はなく、被害者の人数については類推の域を出ない。この事件は、終戦後まもなく、国民政府の戦犯法廷で裁かれた。直接実行者である井上清一中尉(当時)をはじめとする軍関係者は終戦までの間に既に他所へ移動しており、終戦時の国民政府による身柄確保を免れたが、代わって現地に留まっていた炭鉱関係の民間人11人が逮捕された。1948年1月3日、元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下され (同年4月19日に刑が執行)、残り4人は事件と関係が薄いとの理由で無罪となった。死刑になった7人も事件とは無関係とされ、。日本では、戦後、当時奉天総領事館の領事であった森島守人が、著書『陰謀・暗殺・軍刀』で事件の存在を知らせた。のちに、本多勝一が朝日新聞に連載した「中国の旅」で、この平頂山事件がとりあげられ(連載1971年、書籍刊行1972年)、広く知られるようになった。この時期に前後して、中国では平頂山殉難同胞遺骨館が建設された(1971年竣工)。2009年5月6日、訪中していた民主党の議員団は、日本政府に対し、事件について公式謝罪をするように要求した。事件当時4-9歳だった生存者の中国人男女3名が日本政府に各2000万円の国家賠償を求めた訴訟。一審(東京地裁)・二審(東京高裁)判決とも虐殺の事実を認定したが、賠償請求については棄却した。2006年5月16日、最高裁が国家無答責の原則により、原告側の上告を棄却する決定を出し、結審した。 (改題『満鉄撫順炭鉱と平頂山事件』新人物文庫667 2010年9月) (発表年月順)
出典:wikipedia
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