成瀬 巳喜男(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)は、東京府(現東京都)四谷出身の映画監督。1905年8月20日、東京都四谷区に縫箔職人の父・利三と母・きなの間に二男一女の次男として生まれる。生まれたのが巳年、巳の月、巳の日だったので「巳喜男」と名付けられた。家が貧しかったため早く腕に職をつけようと工手学校(現工学院大学)に入るが、父が亡くなって家計が逼迫したことで中退。1920年、知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社する。1922年頃から池田義信の助監督につく。しかし中々監督には昇進出来ず、後から入社した小津安二郎や清水宏らが入社して3・4年で監督に昇進する中、成瀬はまだ五所平之助の下で師事を受けており、都合10年もの下積み時代を過ごした。1930年、城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たす。最初は短篇のドタバタ喜劇を手がけていたが、1931年の『腰弁頑張れ』で認められる。その後長篇作品も手がけていき、1932年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、期待の若手監督として注目された。翌1933年には『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得る。しかし監督に昇格しても個室も与えられず、他の助監督たちとの大部屋暮らしが続いた。しかも他の監督たちが拒んだ脚本で映画を撮らされ、「これを撮ったら、次は好きなのを撮らせてやる」という約束も何度も反故にされた。そこへ東宝の前身であるPCLから引き抜きの話が入り、移籍を決心する。それを知った小津安二郎は、「それも良し」と日記に書いている。またこの時期、後の東宝で彼の映画を多数製作することになる藤本真澄とも知りあうことになる。1934年、助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍して、初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)を監督する。次いで、中野実の戯曲『女優と詩人』と『妻よ薔薇のやうに』(1935年)を監督。後者は批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。この作品は“"Kimiko"”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となった。『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』の主演女優の千葉早智子と1937年に結婚して、長男・隆司を授かるが、3年後の1940年に離婚した。一人息子の隆司は千葉が引き取って育てた。大佛次郎原作の『雪崩』(1937年)では黒澤明が助監督を務める。黒澤の自伝には、「成瀬さんにしても、物足りない仕事だったと思うが、それでも、私には得る所が多かった。」の記載がある。戦時下では『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』など「芸道もの」というジャンルで冴えを見せる。戦争直後は、民主主義路線映画『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春の目ざめ』といった映画の監督を余儀なくされる。同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬は山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。1951年、林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受ける。東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は一般に成瀬の最高傑作とされている。林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして、川端康成原作の『舞姫』『山の音』、室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききった。遺作は1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』。1969年に直腸癌のため死去。なお闘病中、見舞いに訪れた高峰秀子に「白一色の幕を背にして高峰秀子が一人芝居をする」という奇抜な作品の構想を語ったが、実現しなかった。これについては、成瀬と多くの作品でコンビを組んだ名カメラマンの玉井正夫が後年インタビューで「その発言は、成瀬さんが死ぬ間際に弱気になっていたからこそ出た言葉ですよ。成瀬さんは、高峰秀子を個人的には好きではなかったですよ」という発言をしている。成瀬の生誕100周年にあたる2005年には、DVDボックスのリリースや関連書籍の出版、各地の名画座での特集上映などが行われた。女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによって多数の作品を手がける。また小津映画によって神話化された原節子を『めし』『驟雨』で起用し、市井に生きる飾らない妻の姿を生き生きと演じさせた。また幸田文原作の『流れる』では高峰を始め、田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、中北千枝子、そしてサイレント映画女優の大女優栗島すみ子が共演を果たしている。他に戦前では水久保澄子・忍節子・入江たか子・岡田嘉子、戦後では若山セツ子・杉葉子・久我美子・高峰三枝子・木暮実千代・香川京子・淡島千景・新珠三千代・草笛光子・有馬稲子・団令子・水野久美・淡路恵子・司葉子・星由里子といった女優が彼の映画で輝きを放っている。スター男優の意外な起用にも長けており、三船敏郎は『石中先生行状記』『妻の心』で黒澤映画で見せる男性的魅力とは異なる側面を見せ、三國連太郎は『夫婦』『妻』で奇妙な味わいを残した。戦前の松竹のスター上原謙は『めし』以降の諸作で、山村聰とともに飾らない中年男性の姿を手堅く演じ続けた。晩年の『乱れる』と『乱れ雲』では、『若大将』シリーズで人気絶頂だったスター加山から繊細な演技を引き出したことも特筆に値する。また小林桂樹に殺人犯として主役を務めさせたり(『女の中にいる他人』)、その風貌から篤実、凡庸な性格の役回りが多い加東大介に結婚詐欺師(『女が階段を上る時』)や若い女と駆け落ちを繰り返す亭主(『女の座』)を演じさせるなど、名脇役として知られる俳優についても意外な一面を引き出している。数は少ないが、『まごころ』『秀子の車掌さん』『なつかしの顔』『秋立ちぬ』など子どもを主人公とした情感豊かな佳作も手がけている。特に『秋立ちぬ』は、主人公に成瀬本人の幼少時代が重ねられているという意味でも、貴重な作品である。彼の映画を支えていたのは東宝の映画撮影所の優秀な人材によるところも大きく、それは美術監督を務めた中古智による『成瀬巳喜男の設計』に詳しい。成瀬は美術に中古、撮影に玉井正夫、照明に石井長四郎、録音に下永尚、音楽に斎藤一郎、といった「成瀬組」と呼ばれた固定スタッフでの作業を好み、また彼らもそれぞれの持つ一流以上の技術で成瀬を支えた。脚本には水木洋子が多くの作品で貢献している。非常に時代性を意識した監督であり、作中にさりげなく当時の世相を盛り込むことが多かった。一例として『乱れる』での個人商店とスーパーマーケットとの価格競争や、『妻として女として』で妻や家族が「三種の神器」を欲しがるシーン、などがある。こうした設定が伏線として、話の本筋に活かされることも多い。また、戦後の作品では街頭シーンでチンドン屋が登場することが非常に多い。ほとんどは話に絡むことがなく(『めし』でわずかに登場人物が言及する程度である)BGMとしての意味合いも兼ねていたが、成瀬自身が特に好んで取り上げていたと言われている。成瀬の映画で国内外を問わず最も高い評価を受けているのは『浮雲』であるが、『浮雲』はその重い雰囲気、こってりとした画調などが成瀬作品として異質であり、『浮雲』をして代表作とするべきではないという意見もある。成瀬本人も『浮雲』を自身の最高傑作とは見なしていなかったといわれている。スタッフには慕われていたが、無口な性格で付き合いをほとんど持たなかったため、姓名をもじって「ヤルセナキオ」とあだ名された。成瀬の下で助監督の経験をし、自身も成瀬映画のファンであった石井輝男は成瀬を、大学教授のような物静かな人と語っている。国内では生前から一定の評価を得ていたが、それは個性的な映画作家というより、むしろ職人監督としてであった。成瀬に関しては、後に松竹社長となる蒲田撮影所の城戸四郎所長が「小津は二人いらない」と言ったという伝説がある。その小津は成瀬が監督した『浮雲』を「俺にはできないシャシンだ」と賛している。また溝口健二は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」と評している。かつて教えを受けた石井輝男は不肖の弟子と自ら認めているが、「映画は映画館で上映される数週間だけの命である」とする成瀬の姿勢に敬意を払っていた。黒澤明は自伝の中で自身が助監督についた『雪崩』の撮影での成瀬について、撮影中の時間の使い方など全く無駄が無く「なにもかも自分でやってしまうので、助監督は手持ち無沙汰だった」と振り返っている。また、成瀬の監督としての仕事振りについても「映画のエキスパート」「その腕前の確かな事は、比類がない」と評している。黒澤のスクリプターとして多くの黒澤作品に参加している野上照代は「黒澤さんが一番尊敬してたのは間違いなく成瀬さん」と自著に書いている。国際的名声が高まったのは死から10年以上もたってからで、川喜多かしこのような熱心な映画ファンの尽力により1983年のロカルノ国際映画祭で特集上映プログラムが組まれて以降である。その後、1988年では香港国際映画祭で、1998年にはサン・セバスティアン国際映画祭で特集上映が組まれた。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』は成瀬を、小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。1990年には成瀬の映画の美術を多数担当した中古智と蓮實重彦とのインタビュー『成瀬巳喜男の設計』が筑摩書房から刊行される。ジャン・ピエール・リモザン、レオス・カラックス、ダニエル・シュミット、エドワード・ヤンといった映画監督たちが成瀬に敬意を表している。シュミットはドキュメンタリー映画『書かれた顔』で『晩菊』の一部を引用し、主演の杉村へのインタビューを果たした。成瀬の系統的な評価に関しては、長く「戦中戦後にスランプの時期があったが、『めし』を契機に復活を果たし女性映画の名手となった」とする意見が支配的であった。しかし近年は、戦中作品を中心に評価が向上しつつある。1953年までの作品は著作権の保護期間が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。このためいくつかの作品が、格安DVDで発売されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。