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クイーンズライク

クイーンズライク(Queensrÿche )は、1982年ワシントン州ベルビューで結成されたアメリカのプログレッシブ・メタルバンド。Queensrÿcheは、アメリカ国内で600万枚、世界中で2000万枚のアルバムセールスを誇る、プログレッシブ・シーンで成功したバンドのひとつである。特に、現在もコンセプト・アルバムの名作のひとつと評される1988年リリースの"以降、世界的な高い評価を得ることとなった。続く1990年リリースの"では、シングル"Silent Lucidity"がバンド初のビルボードTop10を記録するなど、さらに大きな成功を収めた。バンドは3度グラミー賞にノミネートされ、90年代後半にはドラマーであるスコット・ロッケンフィールドが個人としてもグラミー賞にノミネートされている。少年期にベースを演奏していたマイケル・ウィルトン(Michael Wilton)は、ハイスクールにすすむとギターに転向した。1970年代後半には、ハイスクールで出会い友人となったギタリストのクリス・デガーモ(Chris DeGarmo)とともにJokerというバンドを結成し、地元のショーやイベントなどで演奏するなどしていた。ハイスクール卒業後、クラシックやジャズなどを学ぶためにシアトルの音楽学校コーニッシュへと進んだマイケル・ウィルトンは、その2年の在学期間中にベーシストのエディ・ジャクソン(Eddie Jackson)、ドラマーのスコット・ロッケンフィールド(Scott Rockenfield)と出会い、1981年、それぞれ別のバンドに在籍していた4人が集結してThe Mobを結成した。The Mobはジャムセッションなどをしながらヴォーカルを持たずに活動していたが、地元のバンドバトルイベントに出場するためにシンガーを探すことを決意。当時地元でBabylonというバンドで活動していたジェフ・テイト(Geoff Tate)に助っ人を依頼し、イベントを乗り切った。しかしジェフ・テイトはその頃まだコピーバンドだったThe Mobに正式に加わることは拒否した。1981年、デモをリリースすることを決めたThe Mobの4人は、オリジナル曲を作成し、4人で資金を出し合い、レコーディングスタジオを押さえレコーディングに入った。しかしその時もまだシンガーがいなかったため、バンドは再びジェフ・テイトに協力を依頼した。バンドは"Queen of the Reich"、"Nightrider"、"Blinded"、"The Lady Wore Black"の4曲をレコーディング。ジェフ・テイトは、そのときまだ詩のなかった"The Lady Wore Black"の作詞も担当した。しかし当時Mythという自分のバンドで活動していたジェフ・テイトには、このときもやはりThe Mobに正式加入する意思はなかった。地元のレコードショップEasy Street Recordsのオーナーであったキム・ハリス、ダイアナ・ハリス夫妻がそのデモをKerrang!誌に送ったところ非常に高く評価され、夫妻が立ち上げたレーベル206 RecordsからそのデモをEPとしてリリースすることになった。このとき、The Mobというバンド名が権利の関係で使用できないことがわかったため、バンドはクリス・デガーモのペンによるEPのオープニング曲"Queen Of The Reich"にちなみ、バンド名をQueensrÿcheとした。1983年にリリースされたEPは、アメリカのバンドでありながらIron Maidenなどイギリスやヨーロッパのバンドに通じるものを感じさせるその音楽性が評判となり、イギリスやヨーロッパをはじめ世界的に賞賛を持って迎えられ、そしてその後バンドはEMIとの契約をつかんだ。またこうした成功の中ジェフ・テイトはQueensrÿcheに正式に加入することを決心し、ここでついにその後長く続くラインナップが完成されることとなった。同年、EPはEMIから再リリースされ、ビルボード最高81位を記録した。EPリリース後のツアー終了後、Queensrÿcheはロンドンで最初のフルアルバムのレコーディングに入った。プロデューサーにPink FloydやJudas Priestとの仕事で知られるジェイムス・ガスリー(James Guthrie)をむかえ、1984年、1stフルアルバム"をリリース。EPよりさらにプログレッシブ要素を強めたそのアルバムでは、シングルカット前に"Take Hold of the Flame"がアメリカ以外の地域、特に日本でヒットを記録した。1986年にリリースされた2ndアルバム"ではさらにさまざまな音楽的要素を内包した、より複雑で洗練されたプログレッシブなサウンドを確立。いずれも商業的にも中程度の成功を収めた。1988年、3rdアルバム"をリリース。レーガン政権末期、経済政策の影響による深刻な貧富格差の拡大、麻薬犯罪の増加やイラン・コントラ事件などによる政府への不信・不満が広がる当時のアメリカ社会を背景として、社会への幻滅と洗脳によってアンダーグラウンドの反権力組織で腐敗した指導者の暗殺者となった麻薬中毒者ニッキーを主人公に、パメラ・ムーア(Pamela moore)演じるシスター・メアリーへの愛を絡めながら展開するストーリーを、完成度の高い楽曲と効果的に配されたSEやオーケストレーションで描いたこのロック・オペラ的なコンセプト・アルバムは大ヒットを記録、ゴールドを獲得するなどQueensrÿcheにとって最初の商業的成功となった。シングルもヒットし、"Eyes Of A Stranger"はビルボード35位を記録、"I Don't Believe In Love"は1990年グラミー賞ベスト・メタル・パフォーマンスにノミネートされた。1990年にリリースされた4thアルバム"は、銃規制や環境に関するものなどこれまでのアルバムのように社会的意識の高い内容を保持しつつも、これまでよりもシンプルでわかりやすくより洗練された作品で、これによりQueensrÿcheはさらに大きな成功を手にした。各曲のクオリティは非常に高く、クリス・デガーモによる"Silent Lucidity"はバンド初のTop10シングルとなりMTVのビデオミュージックアウォーズ視聴者賞を受賞、アルバムも全米で300万枚を売り上げビルボード最高7位を記録。続く1年半に及ぶツアーも大盛況のうちに幕を閉じた。またこの成功により過去のアルバムも再び注目され、"、"はゴールドを、"はプラチナムを獲得した。アルバムリリースに伴うツアー終了後、レコーディング作業に入ったバンドだったが、このころジェフ・テイトはバーンアウト症候群になってしまったり、私生活上の問題なども抱えるなど困難な状況に直面していた。そしてこのころからジェフ・テイトは「これ以上ハードロック、ヘヴィメタルの曲は歌いたくない」「次のアルバムが自分のQueensrÿcheでの最後のアルバムになる」などと発言したり、クリス・デガーモらメンバーに対し暴言を吐いたり暴力的な振る舞いをするなどしはじめ、こうした彼に伴う問題から、次第にバンド内のバランスや人間関係が崩れ始めてしまう。1994年リリースされた5thアルバム"は、Queensrÿcheらしい深みや成熟を感じさせる作品となったが、同時に非常に重苦しく、とてもパーソナルな内容のものとなった。また、このアルバムではじめてジェフ・テイトのサックスが導入された。アルバムはビルボード3位を記録、4ヶ月でゴールド、最終的にはプラチナムを獲得したものの、前作ほどの成功を得るにはいたらなかった。当時はグランジ、オルタナティヴ・ロックの隆盛によってハードロックやヘヴィメタルなど既存の音楽スタイルが急速に支持を失った時期でもあり、そうした風潮もまた追い討ちをかける形となった。"リリースにともなうツアー終了後、ジェフ・テイトは引き続きQueensrÿcheに残ることを決め、バンドは次のアルバムの制作に入った。しかしジェフ・テイトのバンドに対する態度の悪化などの問題によるバンド内の緊張やバンドを取り巻く環境の変化によってそれまでのような創作のチームワークやバンドのダイナミクスは失われていってしまった。これまでバンドの楽曲は、クリス・デガーモ、マイケル・ウィルトン、エディ・ジャクソン、スコット・ロッケンフィールドが曲を書き、ジェフ・テイトは作曲することはなく詩を書きヴォーカルをレコーディングするというというあくまでもシンガーとしての役割を果たす形で関り、そしてバンドメンバー同士の非常なコラボレーションによって生み出されてきた。しかしバンドは、ジェフ・テイトの抱える問題や状況などに理解を示し、彼に配慮し、しだいに、メンバーが作ったたくさんの楽曲をジェフ・テイトに提示し、彼が興味を持ったものを仕上げるという形で楽曲制作をすすめるようになっていった。また、クリス・デガーモはジェフ・テイトとともに作業するなどし、この二人の創作上の関係によって生み出されたものがバンドの大きな力のひとつにもなってきたが、ジェフ・テイトの暴力的な言動等によって次第にその創作上の関係も続けるのが困難になっていった。1997年、6thアルバム"をリリース。これまでとは打って変わったシンプルでコンパクトにまとめられた楽曲と、折からのグランジ・オルタナティブ・ロックムーブメントの中モダンなエッセンスを取り入れることを意識し生々しくラフなサウンドプロダクションで仕上げられたこのアルバムは、ビルボード初登場19位を記録するも、しかしすぐにチャートから姿を消してしまう。アルバムリリースに伴うツアーでは、アルバムセールスの不振に加えさらに大きな問題に見舞われることとなった。ジェフ・テイトの重病によってバンドとしてはじめてツアー日程をキャンセルすることを余儀なくされ、さらに同時期に長く所属してきたレーベルEMI Americaが破綻、そのためバンドは残り2ヶ月のツアー日程を自費で乗り切らなくてはならなかった。クリス・デガーモはこの時期バンド内で非常に口数も少なく、また最小限のコミュニケーションしかとらないようになっていたが、このツアー終了後、彼はメンバーに、バンドを去る決心をしたことを告げた。Queensrÿche脱退後、クリス・デガーモはプロのビジネスジェット・パイロットになった。また、バンドは"Rage For Order"ツアー以降Q Primeとマネジメント契約を結んでいたが、クリス・デガーモ脱退に伴いその契約を失ってしまった。この頃からジェフ・テイトは、ケリー・グレイ(Kelly Gray)をミキシング作業などにつれてくるようになった。プロデューサーとしてDokkenなどを手がけたこともあるケリー・グレイは、ジェフ・テイトのMyth時代のバンドメイトであり、Queensrÿcheのメンバーとも旧知だった。Rushなどのマネジメントをつとめるレイ・ダニエルズ(Ray Daniels)と新たにマネジメント契約を結び、ケリー・グレイをギターとした新たなラインナップでレコーディングに入ったバンドは、1999年にAtlantic Recordsから7thアルバム"をリリース。前作での実験の継承だとジェフ・テイトが表現したとおり、"は"の流れを汲むものだった。アルバムリリースにともなう長いツアー終了後の2002年、ケリー・グレイは薬物乱用やその他個人的な問題を理由にバンドを解雇された。ケリー・グレイの後任には、以前ジェフ・テイトのソロアルバムに参加したマイク・ストーン(Mike Stone)が選ばれた。また、レイ・ダニエルズを信頼していなかったジェフ・テイトの意向により彼とのバンドのマネジメント契約を解除し、彼の妻スーザン・テイトがアシスタントを務めていたラース・ソレンセンと新たにバンドのマネジメント契約を結んだ。2003年、アルバム制作のためにスタジオに入ったバンドは、クリス・デガーモをレコーディングセッションに誘い、その後バンドから、クリス・デガーモが再びバンドに復帰したと発表された。クリス・デガーモはいくつかの曲の作曲やレコーディングにかかわったり、ジェフ・テイトのヴォーカル・セッションに参加しヴォーカルハーモニーのアイデアを作るなどしていたが、ジェフ・テイトの彼に対する態度は終始いいものではなく、結局その後クリス・デガーモは再びバンドを離れていった。そして6月、バンドはSanctuaryから8thアルバム"をリリース。アルバムリリース後のツアーでは、マイケル・ウィルトンがリードギターで、マイク・ストーンはセカンドギタリストとして参加した。この年の6月から、QueensrÿcheはDream Theaterとのダブル・ヘッドライナー・ツアーを開始。プログレッシブ・メタルの両巨頭の競演というスペシャルなこのツアーの様子は、2004年に"としてCDおよびDVDでリリースされた。しかしこのツアーに関連して後の2006年、ジェフ・テイトが、このツアーのときまでDream Theaterの音楽を聞いたことがなかった、などDream Theaterやそのドラマーだったマイク・ポートノイ(Mike Portnoy)を批判するような発言を繰り返したことでジェフ・テイトとマイク・ポートノイ二者間で諍いとなった。ツアー終了後、ジェフ・テイトの意向によりラース・ソレンセンとのバンドのマネジメント契約は解除され、以降スーザン・テイトがバンドのマネージャーを務めることとなった。2004年、同年秋から翌2005年冬にかけてのツアーの中で"を再び演奏すること、そしてその続編のリリースを計画していることが発表された。スーザン・テイトからはじめて"制作のアイデアを提示されたとき、マイケル・ウィルトンやエディ・ジャクソン、スコット・ロッケンフィールドらは非常にためらい、"の価値を損ないかねないとして続編の制作に賛同しなかった。しかしジェフ・テイトとスーザン・テイトはプロデューサーのジェイソン・スレーター(Jason Slater)を雇用し、完全なジェフ・テイトのコントロールの下でのアルバム制作に入った。バンドはジェフ・テイト側に楽曲のアイデアなどを提示したが、特にマイケル・ウィルトンはアルバム制作への関与から外され、彼らはごく一部の楽曲にクレジットされるにとどまった。ツアーではファンの関心を煽るべく、短いグレイテスト・ヒッツ・セットに続き、"のビデオや同アルバムでシスター・メアリー役を務めたパメラ・ムーアとの競演を交えた"の再演、そしてセット終演後のアンコールではPAを通じて"に収録される"Hostage"のデモ・ヴァージョンが流された。2006年、9thアルバム"をリリース。悪役ドクターX役にロニー・ジェイムス・ディオ(Ronnie James Dio)を迎えたこのアルバムは、ビルボード初登場14位を記録。前作" のセールスには遠く及ばないものの、1997年以降のQueensrÿcheのアルバムとしては久々の高順位となった。アルバムリリース後のツアーにはシスター・メアリー役のパメラ・ムーアも参加。カリフォルニア州ユニバーサルシティのギブソン・アンフィシアターでの公演ではロニー・ジェイムス・ディオも登場し、その模様は2007年リリースのDVD、"にエクストラ・トラックとして収録された。2007年8月、ベストアルバム"をリリース。このベストアルバムのスペシャル・コレクターズエディションには、多くのデモ音源とともに、クリス・デガーモのギターをフィーチャーした新曲"Justified"が収録された。11月にはQueen、U2、The Police、Black Sabbath、Peter Gabriel、Pink Floydなどのカバーを収録したカバーアルバム"をリリースした。2009年2月、マイク・ストーンがQueensrÿcheを離れたことが発表された。当時は彼が自身の意思で脱退したように発表されたが、後に公開された裁判文書の中で、ジェフ・テイトとスーザン・テイトの意向によって、バンド内での話し合い等もないまま彼が解雇されていたという事実が明らかになった。マイケル・ウィルトンによれば、彼はマイク・ストーンからもらった電話ではじめて彼が解雇されたことを知ったという。2007年、Queensrÿcheは第二次世界大戦から現代の、特にイラク戦争にいたるアメリカの戦争をその最前線の目線からとらえた、通算10作目のオリジナルアルバムとなるコンセプト・アルバム"をリリースした。アルバム制作では、ふたたびジェフ・テイトとスーザン・テイトはジェイソン・スレーターをプロデューサーに雇い、前作同様ジェフ・テイトのコントロールの下、A&Rの人間と曲を選び、それに彼が詩を書き、制作が進められた。このアルバムではリードギター、リズムギターなどすべてのギターパートをマイケル・ウィルトンが担当しているが、彼やエディ・ジャクソンらは楽曲制作へはこのときも満足に関与できなかった。マイケル・ウィルトンによれば、彼らの多くは従軍経験者を身近に持ち、そうした背景からこうしたテーマについてはそれぞれが想いを持っており、だからジェフ・テイトがこのテーマにおいてさえ他のメンバーのアイデアに関心を持たず独断でアルバム制作を行ったことは非常な衝撃だったという。またセールス面では、"American Soldier"は前作"Operation: Mindcrime II"の半分にも満たなかった。アルバムリリースに伴うツアーでは、ジェフ・テイトのソロツアーでギターを担当し、当時ジェフ・テイトの継娘ミランダとも親しかったパーカー・ラングレン(Parker Lundgren)がツアーギタリストに選ばれた。その後マイケル・ウィルトンやスコット・ロッケンフィールドらバンドは曲作りに入った。当初それは、かつてのようにそれぞれがアイデアを持ち込み、それぞれが貢献しながら進められ、いくつかのデモも制作された。しかしある日突然、事前の連絡なしに再びジェフ・テイトが外部の人間とアルバム制作をはじめたことで、バンドの作業は打ち切られ、デモはお蔵入りとなった。2011年、Roadrunner/Loud & Proud Recordsから11作目のオリジナルアルバム"がリリースされた。マイケル・ウィルトンの曲は結局1曲も使われることはなく、パーカー・ラングレンは、いくつかの曲はリリースされたCDではじめて聞いたという。音楽的にも、強調されたリズムと最小限のギターによって構成されたそのサウンドはそれまでのQueensrÿcheのサウンドから大きく様変わりしたものとなり、アルバムは結果としてQueensrÿcheにとって過去最低のセールスを記録することとなった。2012年4月12日に行われたバンドミーティング(ジェフ・テイトは不参加)において、業務が適正に行われていないことからバンドはファンクラブの管理・運営を行っていたジェフ・テイトの継娘ミランダ・テイトおよびバンドのマネージャーであるジェフ・テイトの妻スーザン・テイトを解雇した。2012年4月14日、ブラジルサンパウロでのライブのサウンドチェックの前、ジェフ・テイトは彼の家族の解雇について、他のメンバーと口論していた。そして激昂したジェフ・テイトはドラムキットを投げつけるなどの暴力的行為をおこなったあげく、ライブの最中ステージ上でマイケル・ウィルトンやスコット・ロッケンフィールドらにつばを吐きかけるという行為に及んだ。これにより、もうこれ以上ジェフ・テイトとともに活動を継続することはできないと判断したバンドは、6月にミーティングを行い、ジェフ・テイトをQueensrÿcheから追放し、新たなリード・シンガーを探すことを決めた。ジェフ・テイトが彼のソロ・アルバム"制作を行っている間、バンドはその当時クリムゾン・グローリーのフロントマンだったトッド・ラ・トゥーレ(Todd LaTorre ヴォーカル)を迎え、EP"から"までのQueensrÿcheの初期の楽曲を演奏するサイドプロジェクトRising Westを始動。先行して公開された、Queensrÿche初期の代表曲をトッド・ラ・トゥーレが歌う約7分の動画はまさに初期Queensrÿcheを髣髴とさせるもので、彼らの最初のライブが6月8日、9日にシアトルのHard Rock Cafeで開催されることが発表されるや、チケットは48時間でソールドアウトになった。そして6月20日、バンドを代表してスコット・ロッケンフィールドから、ジェフ・テイトを解雇すること、またトッド・ラ・トゥーレを後任に迎え、Queensrÿcheとして活動を続ける事が発表された。パーカー・ラングレンも、これまでは雇われメンバーという扱いで曲作りへの関与も認められず、バンドの分裂についても裁判文書が公開されてはじめて何が起こっているのかを知ったというほどだったが、ここで正式にバンドの一員となった。またバンドは新たにCentury Media Recordsと契約することが決まった。こうした動きに対しジェフ・テイトとその妻スーザン・テイトは6月12日、不当にバンドを解雇されたとしてバンドを告訴、また同時にバンド名の使用差し止めを要請した。バンド側もこれに反訴したが、キング郡上級裁判所()は翌日13日、11月の結審までは双方がQueensrÿcheの名称を使用することを認める判断を下した。双方のバンド名の権利をめぐる争いが続く中、バンド側は2012年12月から2013年4月までの間、アメリカ、カナダを始め各地をめぐる、EPから"Empire"までの初期の代表曲をセットリストとしたReturn To The Historyツアーを実施。またアルバム制作では初期のサウンドを取り戻すため、共同プロデューサーには、"や"のミックスを手がけ、"の共同プロデューサーでもある盟友James "Jimbo" Bartonを迎えることにした。メンバー全員が曲作りやアルバム制作に関与し完成された通算12作目、セルフ・タイトルとなるアルバム"は2013年6月にリリースされ、ビルボード23位を獲得した。ジェフ・テイト側もこの間外部ソングライターや著名ミュージシャンを起用しQueensrÿche名義で4月にアルバム"Frequency Unknown"を発表、"25周年ツアーなどを行った。2013年9月3日、ジェフ・テイト側からの要望により裁判の日程が1月27日に延期された事が公表された。その後もたびたび裁判日程が延長されたものの、バンドとジェフ・テイト側の間で調停協議がすすめられ、そして2014年4月17日、ようやく和解に達した。2014年4月28日、和解は友好的に決着したこと、バンド側がQueensrÿcheであること、そしてバンド側は過去のすべてのQueensrÿcheの楽曲を演奏できることはもちろん、今後も引き続きQueensrÿcheとして作品を発表することが認められ、一方ジェフ・テイトは今後2年間については「元Queensrÿche」「前Queensrÿcheシンガー」などの呼称を、自身の名前の半分以下のサイズでQueensrÿcheの名称を記載することなど一定条件の下で使用できるが2年経過後はQueensrÿcheの名称を使用できなくなること、2014年8月31日まで彼のQueensÿcheとしての最後のツアーを行い、それ以降は"および"の2つのアルバムについてのみ演奏できること、などがバンド側およびジェフ・テイト側からそれぞれ正式に発表された。なおこの合意の中の"、"両作品に関する部分について当初、両作品の楽曲を演奏する権利をジェフ・テイトが独占的に持つ、という内容であるとの誤解が一部に生じたが、これは誤りで、Queensrÿcheは当然この両作品を含めたすべてのQueensrÿcheの楽曲を演奏する権利を有している。2014年11月、Queensrÿcheは"Building The Empire"というスローガンのもと、を通じた新しいアルバムの予約販売キャンペーンを開始した。その中ではアルバムの予約購入の他、アメリカ証券取引委員会の要件を満たした資格者が一口$50,000でバンドの会社であるQueensrÿche Holdings, LLCに出資できる機会が設けられるなど新たな試みも行われた。曲作りは順調に進められ、2015年3月にはスタジオでのアルバム制作作業に入ったことが発表された。プロデューサーは当初、前作から引き続きJames "Jimbo" Bartonになると目されており、2015年2月に公開されたスタジオショットではメンバーとともにJames "Jimbo" Bartonの姿も見られていたが、スタジオでの作業に入る事が発表された際、これまでShadows FallやSoulfly、Hatebreedなどを手掛けてきたChris 'ZEUSS' Harrisが新たなプロデューサーに決定したことがあわせて発表された。8月にはWacken Open Air 2015への出演などライブを重ねながらアルバム制作は続けられ、10月2日、オリジナルアルバムとして通算13作目となるスタジオ・アルバム"がリリースされた。前作"よりさらに力強く、また初期作品を彷彿とさせる複雑に構築されたプログレッシブなサウンドとなった"はリリース1週目に13,798ユニットを出荷、ビルボードTOP200チャート27位、ハードロックチャート4位、トップロックアルバムチャート5位、トップアルバムチャート15位を記録した。

出典:wikipedia

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