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坂口智隆

坂口 智隆(さかぐち ともたか、1984年7月7日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属する兵庫県神戸市生まれ・明石市出身のプロ野球選手(外野手)。に大阪近鉄バファローズへ入団した後に、2004年の球団合併を経て、からまでオリックス・バファローズでプレー。からまでは、オリックスの選手会長を務めた。愛称は「グッチ」。小学2年時に軟式野球の「鵯台ライオンズ」で野球を始め、投手で4番。明石市立望海中学校時代は硬式野球のヤングリーグ「神戸ドラゴンズ」でプレー、チームの1年先輩には栗山巧がいた。神戸国際大学附属高等学校に進学後、1年秋から背番号1を着けてエースとなり秋季近畿大会でベスト4入りし、翌春に春夏通じて同校初の甲子園出場となる第73回選抜高等学校野球大会にエースで5番として出場。3年時は背番号1のままながら外野手として出場することが多かった。夏の全国高等学校野球選手権兵庫大会では準決勝で金刃憲人を擁する市立尼崎高校を相手に9回裏2死から5点差を逆転してサヨナラ勝ちし、決勝では尾崎匡哉・大谷智久らを擁する報徳学園高校に敗れたものの準優勝。高校通算23本塁打。のドラフトで高井雄平の交渉権を抽選で逃した大阪近鉄バファローズから1巡目指名を受け入団、神戸国際大附高出身者初のプロ野球選手となった。また、大阪近鉄バファローズ最後のドラフト1位指名選手でもあった。4番を打っていた打撃と俊足強肩の身体能力を買われて外野手に転向。はウエスタン・リーグで打率.302を残し、ドラフト指名を受けて入団した高卒野手では球団史上8人目となる1年目での一軍初出場を果たし、初安打も記録した。から合併に伴う入団2年以内の選手への措置でオリックス・バファローズ所属となり、二軍で打率.285、13盗塁を記録。も二軍で54試合出場、打率.328、12盗塁を記録。オフにはハワイ・ウィンターリーグへ派遣された。はオープン戦で結果を残し、テリー・コリンズは「平野恵一が離脱している中で1番バッターは彼以外いない」と絶賛。1番中堅手で初の開幕スタメン出場を果たし、初回に同年のチーム初安打を放った。5月初旬に打撃不振で二軍に降格するも、シーズン終盤に再昇格後はレギュラーに定着し、9月以降は3割近い打率を残し猛打賞も記録。二軍では48試合に出場、打率.317、チームトップの10盗塁を記録。も開幕1番に選ばれ、前半戦は好調を維持。夏場以降は打率が下がり三振も増えたが、主に1・2番打者として、タフィ・ローズと並ぶチーム最多の142試合に出場、初めて規定打席に到達するなどレギュラーに定着した。6三塁打・13盗塁(後藤光尊と同数)はチームトップ、安打数・犠牲バント数・犠牲フライ数はいずれもチーム2位を記録し、満塁時には9打席で7打数6安打11打点と満塁男ぶりも見せた。守備でも外野手としてリーグ3位の7補殺を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。一方で、全打席の半分以上で、3球目までに打った打撃スタイルとチーム4位の三振数を記録した、追い込まれてからの脆さから四死球が少なく、アベレージタイプの打者としては出塁率が低い事や、サウスポーに対し打率.232に終わるなど課題も残した。は、シーズン途中から元近鉄選手用の汎用応援歌に替わり、新たに専用応援歌が作られた。オープン戦では打率.349と好調だったが開幕後は5月初旬まで打率1割台と打撃不振に陥り、同年から加入した近鉄時代のチームメイトでもある大村直之が1番を打つようになった。その後は徐々に復調していき、6月からは大村に替わって再び1番打者に定着。5月以降は7月以外全て月間打率3割以上で8月には月間打率.386、イチロー以来球団史上2人目となる月間40安打を記録し、最終的にはチームトップの137試合に出場してチーム内の規定打席到達者で唯一の打率3割となるリーグ2位の打率.317に同2位の167安打、前年の自己最多を更新するチームトップでリーグ10位の16盗塁を記録。また、リーグ6位の出塁率.381で左投手に対しても打率.297と前年課題を残した部分でも改善が見られた。守備では外野手としてリーグトップの14補殺に同2位の守備率を記録してゴールデングラブ賞を2年連続で受賞し、下位に低迷したチームの中で活躍した。この年は、野手8人の中で唯一日ハムではない選手の受賞となった。同年オフ、背番号を9に変更する事が決まった。12月21日には、阪神・淡路大震災復興15年チャリティーマッチに参加し、地元選手、ブルーウェーブOBらで構成された「がんばろう神戸ドリームズ」の選手として出場した。はフルイニング出場を目標とし1番打者として起用されていたが、打撃不振によりわずか12試合でスタメン落ちしてしまう。しかし、交流戦初戦となった5月12日の対ヤクルト戦で、延長10回表に決勝適時三塁打を打ち、チームの対ヤクルト戦2年ぶりとなる勝利に導く活躍や、6月7日の対広島戦ではプロ野球新記録となる10者連続安打の先頭打者として口火を切り、1イニング2安打を放つなど、交流戦打率.389とMVP候補にも挙がった。しかし7月は打率.213、OPS.539と再び不振に陥り、前半戦終了間際に3年ぶりの2軍降格を味わうも、前半戦終了時点で.288だった打率を昇格後は3割に戻し、最終的に2年連続3割、3年連続ゴールデングラブ賞、3年連続150安打を達成し、三塁打はリーグトップの10本をマークした。また、8月には10二塁打と6三塁打を放ち、8月度のJA全農Go・Go賞(表彰テーマ:最多二、三塁打賞)を受賞した。は全144試合フルイニング出場を果たし、パ・リーグ最多安打を受賞した。シーズン序盤は不振であったが、交流戦では打率.412と一気に調子を上げて3割に乗せ、交流戦首位打者、最多安打、最多得点を記録して日本生命賞を受賞した。終盤まで3割をキープして首位打者を狙える位置にいたが、最後の最後で17打席連続無安打を記録するなど不振に陥り、最終的には打率.297でシーズンを終えた。しかし、最多安打、最多タイ三塁打、リーグ3位の得点、同5位の四球、同7位の打率、同8位の出塁率を記録するなど一番打者として活躍した。守備でも無失策の守備率10割、守備機会リーグ3位、補殺同5位と俊足・強肩ぶりを存分に発揮し、4年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。また、9月度のJA全農Go・Go賞(表彰テーマ:最多二、三塁打賞)にも2年連続で受賞した。、シーズン前の3月10日に行われた東日本大震災復興支援ベースボールマッチの対台湾戦において初の日本代表に選出され、4回から途中出場し、2打数1安打1四球の活躍を見せた。開幕戦では1番・中堅手として先発出場を果たしたが、この年もここ数年同様に春先から打撃不振、守備でも失策を喫するなど精彩を欠いたことから、5月5日の日本ハム戦ではスタメン落ち。この試合で2010年9月19日から続いたフルイニング出場が179試合で途切れた。それでも一向に調子が上がらないまま、5月17日の対巨人戦で、初回に坂本勇人の放った飛球をダイビングキャッチで好捕したが、この際に右肩を地面に強打し負傷退場。検査の結果、右肩肩鎖関節の脱臼、さらに靭帯も断裂と診断され、長期離脱を余儀なくされた。シーズン復帰は絶望的と言われていたが、なんとかその後9月7日のウエスタンリーグ・中日戦で戦線復帰(岡田彰布監督が坂口の復帰を一軍戦の試合中に初めて知った)。しかし、打撃は問題はないが、守備で投げられるほどには万全ではなかったため、専らDHまたは代打として守備に就かずに二軍戦に出場し続け、公式戦終了間際の10月5日に一軍登録され、同日の対ソフトバンク戦で7回裏に代打として復帰を果たすと、大隣憲司からダメ押しの適時打を放った。同月7日の対西武戦でも代打で安打を放ったが、一軍定着後最少となる40試合の出場に留まり、最下位に低迷したチームにとって坂口の戦線離脱が攻守に手痛いシーズンとなってしまった。この年のオフに伊藤光と共にオリックスの副選手会長に就任するも、新選手会長の大引啓次がトレードで移籍したのに伴い、選手会長に就任した。は選手会長として試合に出場。しかし序盤から不振。さらに夏場に入っても一向に調子が上がらず、シーズン途中にはぎっくり腰になり8月に登録抹消。シーズン終盤に復帰した。最終的に97試合に出場。規定打席にはあと6打席届かなかった。には、開幕からスタメンで出場を続けるなど、一軍公式戦122試合に出場。出場試合数が、3年振りに100試合を超えた。しかし、8月以降は川端崇義にスタメンを奪われてしまうなど、シーズン全体では前年に続いて不振。その一方で、前年を下回る打席数で40打点を記録するなど、随所で勝負強さを発揮した。シーズン中には国内FA権を取得したものの、シーズン終了後に球団と2度交渉した結果、権利を行使せずオリックスへ残留することを表明している。にも、一軍の公式戦に開幕からスタメンで出場。一時、3番打者として起用されていた。「『プロになりたい』と思わせてくれた」という阪神・淡路大震災発生年(1995年)のオリックス・ブルーウェーブ復刻ユニフォームで臨んだ4月18日の対西武戦では、地元に近いほっともっとフィールド神戸で、この年唯一の本塁打を放っている。しかし、5月11日に出場選手登録を抹消。抹消の直後に右肘を痛めた影響などから、一軍への復帰を果たせなかった。さらに9月には、翌年の契約について、野球協約上の減額制限を超える大幅な減俸を球団から提示。坂口がこの提示に同意しないまま、他球団での現役続行を視野に自由契約を申し入れたため、球団ではシーズン終了直前の10月1日に坂口の退団を発表した。東京ヤクルトスワローズでは、オリックスからの退団発表を受けて、坂口の獲得調査に着手。2015年11月13日には、坂口の獲得で合意に達したことを発表した。推定年俸は3,000万円で、オリックスでの最終年俸(7,500万円)から半額以上(4,500万円)ダウン。また、「(アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとされる)ジャッキー・ロビンソンに倣って、引退の際に他の選手が『背番号を引き継ぎたい』と思えるような活躍したい」との意向から、ロビンソンの現役時代と同じ背番号42(MLB全球団の永久欠番)を着用する。シーズンでは主に一番打者として安打を量産し、一度も登録抹消することなくチームトップの141試合に出場し5年ぶりに規定打席をクリアした。6年ぶりの打率3割にはあと一歩届かなかったが自己最多の63四球を選ぶなど出塁に徹し、本塁打こそ2012年以来のゼロに終わったものの出塁率.375(リーグ7位)の好成績を残しリーディングヒッターとして見事復活を遂げた。一塁到達3.71秒の俊足を生かし、2008年から2010年までの内野安打率は14.7パーセントである。イチローに似たバッティングフォームから広角に打ち分ける技術を持ち、速球に対しては2010年に打率.379を記録し、特に150km/h以上のボールには打率6割を記録し得意とした。盗塁の試行数が少なく年間20盗塁に達したことはなく、盗塁成功率も通算で約69%と低い。守備では2010年にはUZR6.5を記録した広い守備範囲と、投手として140km/h台を記録したこともある強肩からの正確なスローイングを持ち味とする。野球を始めた時から新庄剛志が好きで自宅には新庄のポスターを貼っており、プロ入り後に公言した赤いリストバンドの着用も新庄の影響とのこと。2004年には本人と対面し、譲り受けたバットは自宅に飾ってある。その影響や、球団合併に伴うプロ野球再編問題の中でファンの大切さを再認識したことから、ファンサービスに積極的である。本人曰く守備が好きで打撃は苦手、投手を務めるのも嫌だったと言う。高校時代の監督である青木尚龍は「運動能力は高いが投手としてはハラハラする投球が多かった」とし、「粘りがないが明るい目立ちたがり」な性格とコメントしている。同期入団の大西宏明を兄貴分と慕っており、大西の横浜ベイスターズ移籍に伴いTV番組「せやねん!」(毎日放送)で“せやねん!専属広報部長”として選手紹介やキャンプリポートなどをしていた大西から“2代目せやねん!専属広報部長”に指名され、2008年12月13日放送の回では2人揃ってスタジオに生出演した。大西は坂口について「やんちゃな悪ガキという感じだが野球には人一倍熱心」と語っている。オリックス時代には、ブルーウェーブのレギュラー外野手だった田口壮(2016年から二軍監督)がMLBのセントルイス・カージナルスに所属していた2006年に、田口へ弟子入りを直訴。これを機に、田口が現役を引退する2012年まで、オフシーズンに合同で自主トレーニングを敢行していた。ちなみに、田口のオリックス復帰(2010年)から退団(2011年)までは、田口のチームメイトになっている。一番好きな映画は「耳をすませば」で、子供が生まれたら家にジブリルームを作りたいと述べている。好きな女性のタイプは家庭的で料理ができて、のほほんとした人。芸能人なら鈴木紗理奈と答えている。また、坂口の登場曲は鈴木がMUNEHIRO名義で歌っている曲(「輝きをもう一度」、「ヒノマルパワー」など)ばかりである。高校時代はストリートミュージシャンでもあった。プロ入り後も2度ストリートライブを行っていたが、これが岩隈久志にバレてしまい、それ以降はやってないと語っている。オリックスの主力選手時代には、髪を金色に染めるとともに、口髭を生やしたことから「球界を代表するおしゃれ番長」との評価を受けていた。2011年10月には、オリジナル写真集の編集サイト「PHOちょ+」を通じて、自身初の公式写真集をリリース(現在は販売終了)。2015年には、交通タイムス社発行のヘアーファッション季刊誌『カジカジH(ヘア)』2015年春号(同年3月24日発売)で、ファッションモデルとしてのデビューを果たした。しかし、同年シーズン終了後のヤクルトへの移籍を機にイメージを一変。11月30日には、髪を真っ黒に染めるとともに、髭を剃り落として入団記者会見へ臨んだ。この会見では、「金髪の(オリックス)時代は忘れた。ヤクルトにはさわやかなイメージがあるので、当分はこのスタイルを続ける」と宣言している。2015年限りでオリックスからの退団を決意したことについては、「肩を痛めた2012年以降は思うような結果を残せていないが、今年(2015年)は少しずつ手応えも出てきたので、バットとグラブだけ持って野球人として一から勝負したい」とコメント。その一方で、球団本部長の瀬戸山隆三は、退団発表の際に「坂口を『功労者』と認識しているが、(野球界は)それだけでお金を払う世界ではない。(球団を運営する立場上)シビアに行くところは行かないと(いけない)」という見解を示している。ちなみに坂口は、その後に移籍したヤクルトでの入団記者会見で、「(同球団に)拾っていただいたことに感謝するしかない。契約をさせていただいた以上は、『絶対にやってやろう』という気持ちがある」と意気込んでいた。

出典:wikipedia

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