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Il-2 (航空機)

イリューシン Il-2(露:)は、ソ連のイリューシン設計局が開発した攻撃機。第二次世界大戦において、ソ連軍の主力対地攻撃機として使用された。各形式を合わせての総生産機数は36,163機で、これは軍用機としては史上最多である。乗組員の中では大変人気があり、あるパイロットはこの航空機に捧げる歌を作曲した。なお、本機を指して「シュトゥルモヴィーク」という名称が用いられることがあるが、これを直訳するならば「襲撃機」であり、ソ連軍(ロシア軍)において「対地攻撃任務を主とする軍用機」を指す軍用航空機の区分である。しばしばIl-2が「シュトゥルモヴィーク」と呼称されるのは、本機がその中で最も有名であることから付いた通称であり、本来は本機を指す固有名称や愛称ではない。Il-2は1938年にソビエト中央設計局(TsKB)の設計主任、セルゲイ・イリューシンを長とする設計チームが開発した TsKB-55(')を発展させた対地攻撃機である。当初はBSh-2(')として開発され、その後、採用に伴い機種は「重シュトゥルモヴィーク」()と改められた。原型機のTsKB-55は1939年に完成して初飛行した。その後、軽量化単座型のTsKB-57が1940年10月に初飛行し、各種試験で高い性能を示した。そのため、試験審査の終了した1941年6月より「Il-2」と改称されて直ちに量産が開始され、実戦部隊への配備が進められた。装甲軍用機自体は第一次大戦中にすでに追求されている。ただしエンジン出力が貧弱、装甲に重量を取られ、完成した機体は鈍重で運動性が非常に悪かった。このため、実用レベルに達したものはごくわずかであった。ソ連において、装甲された攻撃機の開発は1920年代半ばから開始された。ポリカルポフR-5を改修したTsKB-6、改良型のTSh-2、1933年には低翼単葉固定脚のTSh-3が作られた。1938年2月、セルゲイ・イリューシンは新しい装甲された攻撃機の設計案を提示した。彼のアイデアは認められ、原形機3機の製作が指示された。Il-2は複座型として開発が開始された。イリューシンは、Il-2の胴体のほぼ前半分を鋼板で作った。機体の外板そのものがモノコックの装甲であり、骨格構造、外板、防漏ゴム、装甲板を省略できた。これにより軽量化を図っている。このような装甲板が作れたのは、プレス可能な高張力鋼が開発されたからである。設計が進むにつれ、重量増と航続力の不足から仕様を単座に変更した。装甲厚はエンジン前部が6mm、エンジン側面が4mm、コックピット側面が6mm(後に8mmに増強)、操縦席背面が12mmであり、これらの装甲の重量は700kgを超えた。イリューシンはこの装甲部分にエンジン、冷却器、燃料タンク、配線、補機類、パイロットを配置した。操縦席の背中と座席下と計器盤の前に燃料タンクが配置されており、パイロットは燃料に包囲されて飛んでいる状態であった。冷却機構は特徴的で、冷却用空気は被弾確率の低いエンジン上面の吸気口から導入され、ダクトを通じて胴体内の冷却器を通り、胴体下方へ排出される。ただし冷却能力は不足気味であり、滑油冷却器は胴体に設置できず、装甲したうえで胴体下面に設置された。Il-2の胴体後半と垂直尾翼はジュラルミン不足のため木製であった。この木製胴体部はモノコック構造で、厚さ0.8mm、幅100mmの木のテープを、桁の上に厚さ5mmほど積層し、接着して成形したものである。なお大戦後期には、供給量の増加したジュラルミンでおきかえて、約100kgの重量軽減に成功した胴体部品も作られたが、生産ラインの関係から大戦中これを採用した機体は作られず、戦後に木製胴体から換装するパーツとして使われている。主翼は38.5平方メートルと、艦上攻撃機並みに巨大な翼面積を持つ。これは大重量の機体を飛ばすためである。改修により、重量位置を後退させてバランスをとる必要が生じたため、イリューシンは外翼に後退角を持たせた。大きな主翼と重量のため、本機の横転性能や高速性能は決して良くなかった。爆弾倉はこの翼内部に設けられた。100kg爆弾を専用に用い、最大搭載量は600kgである。さらに翼内にShVAK 20mm機関砲2門、ShKAS7.62mm機銃2丁を備えた。後に機関砲が武装強化され、VYa-23 23mm機関砲に換装された。主脚は後方引き込み式であり、タイヤの一部がフェアリングの外にはみ出した。これは不時着時に機体の損傷を抑えるためである。主脚の作動には空気圧・または手動を用いた。なお後退角のついた外翼部は試作型では全ジュラルミン製、量産型では木製桁に合板張り、後に金属桁に合板張り、材料の供給が安定した後期には全ジュラルミン製に戻っている。エンジンにはAM-34FRN、後にAM-35が用いられた。これは離昇出力1,350馬力の液冷エンジンであり、1939年10月2日に初飛行した。さらに1940年10月には低空で出力を増強したAM-38(離昇出力1600馬力)が装備され、初飛行した。最大重量6トンの屈強な襲撃機の完成であった。初期のIl-2は単座機であったが、後方火器がないことから敵戦闘機による損失が激しかった。一線では後方への固定機銃を装着したり、時限信管付きの迫撃砲を撃ち出した例もあった。そこで改良が行われ、装甲を強化、複座化し、12.7mm後方機銃を装備したIl-2M()が生産された。生産ラインの変更、重量増、重心位置の移動の改設計などの手間から、銃手席には後方に対する6mmの限定的な装甲しか施されなかった。このため銃手の死傷率はパイロットの数倍に達した。完全な装甲防御の施されたタイプは戦争も末期になってからでなければ登場しなかった。その後、主翼に途中から後退角がつけられたIl-2M3()、37mm機関砲や45mm機関砲を搭載した重対戦車シュトゥルモヴィーク型、魚雷を搭載する雷撃機型、エンジンを変更した機体など、多くの派生型が開発・生産された。なお、Il-2MやIl-2M3等の名称は正式なものではなく、型を区別しやすくする為に後世に付けられたものである。戦後はポーランド、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、ブルガリア、モンゴルなどいくつかの国で使用されたが、多くの国では後継型のIl-10で代替され1950年代には退役した。また、朝鮮戦争でも中華人民共和国義勇軍機や朝鮮民主主義人民共和国軍機として使用された。初陣は1941年6月27日、第4航空攻撃連隊により5機がドイツ軍を襲撃した。1機の主翼に機関砲弾を受け、大きな穴が開いたものの、帰還した。しかし、対地攻撃任務は苛烈であり、同隊はその後の12日間で427回出撃し38機を喪失、パイロットは18名を失った。一日当たり36回の出撃である。装甲厚から見ても、ドイツ軍機の20mm(MG 151)や30mm(MK 103)といった大口径機関砲弾の正撃には耐えられないが角度や距離、弾種によっては弾くこともあった。また20mm榴弾の命中した写真があるが装甲個所の損害はわずかにへこむ程度である。単座型は、後部銃座がなく運動性と高速性能に劣るため、敵戦闘機に執拗に銃撃をかけられた。統計によればこの時期、8〜9回の出撃で1機が失われることもあった。攻撃機全体の統計としては、大戦全体を通じ53回の出撃で1機が失われた。Il-2が攻撃に主用したのはロケット弾と成形炸薬爆弾のコンテナだった。ロケット弾は翼下にレールを装着し、口径82mmのRS-82、口径132mmのRS-132を8ないし4発搭載した。命中率は低く、戦車に対し降下角度30度、距離300mまで近づいて8発を全弾斉射した場合、命中率は25%だった。1943年7月、クルスク戦においてPTAB(成形炸薬爆弾)が用いられた。重量1.5kgから2.5kgの弾頭を翼内爆弾倉に搭載、200発を投下し、効果範囲は高度300mから攻撃して幅15m、長さ70mほどを覆った。Il-2はこれを編隊を組んで投網のように投下した。クルスク戦では46機と33機のグループが、戦闘機の護衛のもとで進出、ドイツ軍戦車部隊に攻撃。偵察写真では200輌以上の車両が放棄されたと戦果判定された。さらに23mm機関砲の威力は強く、掃射すれば戦車でも上面や側面など鋼板が薄い箇所なら貫通も可能であった。アレクサンドル・イェイモフ大尉は1942年夏から222ミッションに出撃した。戦果は戦車126輌、航空機85機(地上撃破)、機関車30台、大砲193門、対空機関砲43門を撃破した。さらに空戦で7機撃墜したとされる。ただし地上攻撃の成否の判定は空中からでは難しい面がある。Il-2と後継機のIl-10は、合わせて10759機が戦闘で失われたものの、東部戦線で猛威をふるい対独戦の勝利に貢献した。

出典:wikipedia

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