ED53形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が輸入した直流用電気機関車である。本項では、本形式を改造した機関車であるED19形についても併せて記述する。東海道本線東京 - 国府津間用にアメリカのウェスティングハウス・エレクトリック社(Westinghouse Electric/電気部分)とボールドウィン社(Baldwin/機械部分)の合作により1926年(大正15年)に6両が製造された。製造当初は6010形(6010 - 6015)と称したが、1928年(昭和3年)10月の車両形式称号規程の改正により、ED53形(ED531 - 6)に形式番号が改められた。1軸の先輪を有する旅客列車用の電気機関車で、箱形の車体の前後にデッキがある。前面には後退角がつけられて3面折妻となっており、前面窓下には砂箱が設けられている。屋根上には、パンタグラフが2基設置されている。同じメーカー製のEF51形は本形式をストレッチしたもので、兄弟形式ともいうべきものである。電装機器類は手堅い手法でまとめられており、主制御器に電磁空気単位スイッチ式を採用、高速度遮断器を装備している。本形式は使用成績も良好で、初の大型国産電気機関車であるEF52形開発に際しても参考にされ、戦後のEF58形に至るまで技術的影響を及ぼしている。その信頼性の高さを受け、1号機及び2号機がお召し列車牽引用に、3号機がその予備機として指定され車体の側面や窓枠などには装飾を施し、運転室には御料車との連絡用電話が設置された。なお、お召し列車の運転時はトラブル防止の観点から必ず重連で運用された。輸入当初は国府津機関庫に配置、その後1930年(昭和5年)までに全車東京機関庫(1936年に東京機関区へ改称)配属となり、東京 - 国府津間および熱海線と呼ばれていた国府津 - 熱海間で湘南列車と呼ばれたスハ32系客車による編成の普通列車を主に牽引し、さらに1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通、1935年(昭和10年)の伊東線開業後は沼津や伊東まで運用範囲を広げたが、3 - 6号機は1937年(昭和12年)から順次ED19形へ改造、1号機と2号機も1938年(昭和13年)頃にはお召し列車牽引の指定を解除され車体の装飾が撤去された。1937年(昭和12年)に仙山線は作並 - 山寺間の開通で全通したが、この区間は長大な仙山トンネル通過に対応して当初より電化された。これに伴い、ED53形3 - 6号機が仙山線運用に充当されることになり以下の改造が大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で施行された。改造後はED19形(ED191 - 4)に改称のうえ、作並機関区に転属した。引き続き東京機関区で運用されていたED53形1号機と2号機も1940年(昭和15年)に甲府機関区に転属、1941年(昭和16年)にはED19形(ED195, 6)に改造されたが、ED191 - 4号機に施された耐寒対雪装備の追加は簡略化、砂箱や側面ルーバーは未改造のまま身延線で使用された。戦時中には1号機が西国立機関支区に転属して南武線の貨物列車を牽引、2号機と4 - 6号機は豊橋機関区に転属し飯田線の貨物列車の牽引に使用された。甲府機関区に転属した3号機も戦後の1948年(昭和23年)豊橋へ転属、1号機以外の全車が飯田線で運用されるようになった。戦後は車体改修が行われ、砂箱が未改造であった5号機と6号機も運転台窓下の砂箱を撤去、さらに5号機は全溶接構造の車体に更新され、側面窓やルーバーの形状で異彩を放った。また2号機は他機に先駆けて内部機器を含めた改修工事を受けたことからパンタグラフの装備位置が異なった。このほか3 - 6号機は運転台前面の窓が隅にrがついた形態に更新、側面ルーバーは1 - 4号機が横並び型に変更され、最終時の形態は、それこそ6車6様であった。機器は国鉄形電気機関車の基礎となったこともあり、構造的にある程度の互換性があったことや、EF51形の廃車で予備品が確保できたため、大部分がウェスティングハウスのものを廃車まで使用し続けたが、2号機のみ戦後に装備改造を受け、制御電源の電圧を32Vから100Vに改めるとともに国産機器に更新している。昭和30年代以降は比較的軽量なことから、6両全車が伊那松島機関区に集結し軌道構造が低規格な飯田線飯田以北での貨物列車牽引に運用されたが、代替機ED62形の投入に伴い1976年(昭和51年)までに全機が廃車となった。ED53 3から改造されたED19 1が、長野県上伊那郡箕輪町の郷土博物館前に唯一静態保存されている。それ以外は全て廃車後、解体処分された。※は、改造により変更のあった数値
出典:wikipedia
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