鈴木 大地(すずき だいち、1967年3月10日 - )は、千葉県習志野市出身の元水泳選手、体育学者、スポーツ庁初代長官。1988年ソウルオリンピック100m背泳ぎ金メダリスト。バサロ泳法で有名な選手である。順天堂大学教授(体育学修士、博士(医学))、日本水泳連盟会長(2013年-2015年)。小学二年生で地元の千葉アスレティックセンタースイミングスクール(CAC)で水泳を始める。全国SC大会にて100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得する。中学時代にスポーツクラブのセントラルスポーツで鈴木陽二に出会い、以後引退まで指導を受けることになる。船橋市立船橋高等学校に進学。当時、保健体育の教師は小出義雄であった。在学中の1984年、ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれて出場。100m背泳ぎ11位、200m背泳ぎ16位、400mメドレーリレーは決勝で失格という結果であった。1985年、市立船橋高校卒業とともに順天堂大学体育学部(現・スポーツ健康科学部)体育学科に進学する。1986年、ソウル・アジア大会では100m背泳ぎ、400mメドレーリレーで金メダルを獲得。1987年には第14回ユニバーシアード(ザグレブ)で、100m背泳ぎ、200m背泳ぎで金メダルを獲得。400mメドレーリレーの第1泳者として、100mで1987年の世界最高をマークした。 1988年、ソウルオリンピックの100m背泳ぎに優勝し、日本競泳陣16年ぶりの金メダルを獲得した。決勝戦は、世界記録保持者であるアメリカのデビッド・バーコフ、200m金メダリストで予選を2位で通過した元世界記録保持者のソビエトのイゴール・ポリャンスキーとの接戦となった(3人はいずれもバサロ泳法を使用)。最後は弧を描かず水面すれすれをリカバリーしてゴールタッチし、バーコフに0.13秒差をつけて優勝した。男子100m背泳では、1932年のロサンゼルスオリンピックの清川正二に次ぐ、日本人2人目の金メダリストであり、表彰式では当時IOC委員だった清川からメダルを授与された。この決勝で樹立した55秒05の日本記録は、その後の度重なるルール改正にもかかわらず、15年間(16年近く)更新されることがなく、国内の選手にとって大きな壁となった。ソウルでは200m背泳ぎでは15位、400mメドレーリレーで5位に入賞している。ソウルオリンピック金メダル獲得が評価され、日本スポーツ賞など多くの賞を受賞する。 1989年に順天堂大学卒業後、大学院体育学研究科体育学専攻に進む。1992年4月に現役を引退した。現役時代は公式な世界記録は樹立できなかったが、FINA競泳ワールドカップの50m背泳ぎで短水路世界最高記録(その当時はまだ公式種目ではなかった)を2回更新した経歴を持つ。また、1988年度の日本選手権水泳競技大会(兼オリンピック選考会)の100m自由形に出場して52秒35で優勝したことがあるほか、短水路ながらバタフライ50メートルや200m個人メドレーでも日本記録を樹立するなど得意としていた。1993年に順天堂大学大学院体育学専攻を修了。1994年よりコロラド大学ボルダー校にて客員研究員となる。1998年からは、日本オリンピック委員会から派遣される形でハーバード大学水泳部のゲストコーチを務めた。2000年3月、日本に帰国し、母校である順天堂大学講師および水泳部監督を務める。この年、ジャパンオープンウォータースイムで順天堂大の東翔が優勝したことにより、日本一の監督となった。2006年、順天堂大学スポーツ健康科学部助教授に就任 2007年、順天堂大学医学部より健康関連イベント参加者の生活習慣と健康状態に関する研究をテーマにした分析で博士号を取得した(学位論文は白石安男(東京理科大学経営学部教授)との共同執筆)。オリンピック金メダリストで博士(医学)の学位を授与されたのは、鈴木と同じソウルオリンピックでレスリングフリースタイル52kg級に優勝した佐藤満に次いで日本では2人目である。2009年、日本水泳連盟の理事に選出される。同年4月より、競泳委員会の委員に加え、オープンウォーター、生涯スポーツ、及び日本泳法の統括責任者となる。2010年1月、世界アンチ・ドーピング機構のアスリート委員会委員に選出される。2013年、 順天堂大学スポーツ健康科学部スポーツ科学科コーチング科学コース教授に就任。学外では日本オリンピック委員会アスリート委員会委員を退任する一方、日本水泳連盟会長、日本オリンピアンズ協会会長に就任した。他に、世界オリンピアン協会 (WOA)理事、日本アンチドーピング機構理事を務めていた。公職以外ではオリンピックや世界水泳選手権などで解説者、講演者、執筆者として、また水泳教室での指導者としても活動していた。2014年、日本選手権水泳競技大会(競泳)の大会ポスターに起用される。金メダルの瞬間、水面でガッツポーズをする写真に「うれしいに決まってます」という当時の優勝コメントを添えた図柄であった。2015年、スポーツ庁長官、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事に就任。スポーツ庁長官は副業禁止の国家公務員にあたるため、他の役職は全て辞任している。「黄金の足を持つ」と言われた、バサロキックのパイオニアである。鈴木のバサロは25m潜行(21回キック)であったが、ソウルオリンピックの決勝では30m潜行(27回キック)とした。鈴木が30m潜行のバサロキックをしてからは、潜行距離は10m(鈴木が引退してからは12.5m(スタートとターンを合わせると25m)までという制限がルールの中に付け加えられた。その代わり、更なるルール改正で背泳ぎにクイックターンを認めることになり、次のバルセロナオリンピックまでに、100mで1秒5近く、200mで3秒ほど、競技全体としては記録が大幅に短縮した経緯がある。なお、その後、さらなるルール改正があり、現在では潜行距離は15m(スタートとターンを合わせると30m)まで認められている。ソウルオリンピックの決勝では「優勝はまず難しいだろう。なんとかメダルを獲得してくれれば」という大方の予測・悲観的希望を覆した。また、当時の日本人(アジア人)が短距離の種目で金メダルを獲得したことはその後の日本やアジアのスポーツ界に大きな影響を及ぼした。日本の競泳界ではミュンヘンオリンピックの青木まゆみ・田口信教以来16年ぶりの金メダル獲得(メダルとしても16年ぶり)の快挙となり、かつての水泳王国が影をひそめ、オリンピックでは決勝はもとよりコンソレーションファイナル(順位決定戦(現在で言うところの準決勝に相当する。準決勝を開催しない代わりにコンソレ方式が採用されていた時期がある))進出さえ困難な状況が続き、長らく低迷・沈滞していた。1960年代 - 1980年代の日本の競泳界は、外国勢が飛躍的な記録の更新を続けたのに対し、水没泳法の禁止といった国際ルールの壁に苦戦を強いられるなど、まさに冬の時代にあった(平泳ぎでは高橋繁浩や長崎宏子ら、世界のトップクラスに入る選手はいたが、不運も重なり、オリンピックでのメダル獲得はならなかった)。そのような中で、鈴木がソウルオリンピックで金メダルを獲得したことは、日本の競泳を復活させることに大きく貢献した。古橋廣之進(当時、日本水泳連盟会長)は、鈴木の金メダルに「もう一度日本の水泳を復活させたい」と涙していた。プライベートでは離婚と再婚を経験している。2児の父親。2016年7月31日の東京都知事選挙に際し、一部で候補者として名前が取り沙汰されたが、「やりかけのプロジェクトがあるし、途中で投げ出すわけにはいかない」と否定し、ソウル五輪での自身の優勝タイム55秒05を引き合いに「出馬は5505%ない」と発言した。
出典:wikipedia
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