私小説(ししょうせつ、わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。1907年(明治40年)の田山花袋「蒲団」を私小説の始まりとする説が有力であるが、平野謙は、1913年(大正2年)の近松秋江「疑惑」と木村荘太「牽引」を、私小説が確立した時期だとする。これらが多く自己暴露的性質を持っていたのに対し、志賀直哉の『和解』のような作風を「心境小説」と呼ぶ。客観描写ではなく、対象を見た著者の内面を描く事を主眼とした。文学史的には、絵空事のストーリーを楽しむロマン主義を否定する形で生じたリアリズム(写実主義)の極北に相当する。あらゆる空想的要素・虚構的要素を排して、実際にあった事実を示すことで、「真実を描く」という芸術の目的を達成しようとした。結果的に、ひたすら作者の実体験に範囲を限定して、身辺や自分自身のことを語ることが多い。描写も、客観描写よりも内面描写を中心とすることが多い。その名称から、「私」と一人称で語られるものとする誤解があるが、三人称のものも多い。私小説の「私(ワタクシ)」とは「公(オオヤケ)」の対語、つまり「プライベートなこと」と解することもできる。小説においては作者と作品の主人公は同一視出来ないとするのが一般的だが、私小説の解釈では主人公がしばしば作者本人と同一視され、作者の年譜との比較検証がされる事もある。破滅型私小説として、花袋、秋江に続いて、葛西善蔵、嘉村礒多、初期の太宰治、また調和型私小説としては、志賀の弟子筋の瀧井孝作、尾崎一雄、藤枝静男、網野菊などが挙げられる。小林秀雄は「私小説論」(1935年刊)で、西洋の「私」は社会化されているが、日本の「私」は社会化されていないと、「私小説は死んだ」と説いた。小林の批評は、戦後も長く影響を持った。他方、西洋19世紀のいわゆる本格小説は通俗的であるという観点から、久米正雄は、私小説のみが純文学であると主張し、この通念も長く文壇を支配した。私小説批判を展開したのは、戦後の中村光夫、福永武彦、中村真一郎らであり、彼らはフランスのフロベールやバルザックなどの“客観小説”を模範とした。しかし、のちに中村光夫は自身が私小説を多く書き、また実際の文芸批評では私小説も評価した。伊藤整は、近代小説の根源に作家本人の告白性があると主張した。さらに平野謙は、私小説には調和型と破滅型の2種類があるという考えを押し進め、の2種類に分けて論じた。そこには実生活と芸術の二律背反が見られた。1960年代以後、丸谷才一、篠田一士らの私小説批判が長く続いたため、1980年前後に村上春樹、村上龍が登場して以後、ファンタジー、SF風の純文学が隆盛を迎え、私小説は低調となったが、車谷長吉、佐伯一麦、また21世紀に入ってからは西村賢太などが現れ、また秋山駿は『私小説という人生』で、小谷野敦は『私小説のすすめ』で、それぞれ私小説再評価の烽火を上げた。海外の日本文学研究でも注目され、イルメラ=日地谷・キルシュネライトは、小林の「私小説論」は論理的に読めないと批判し、鈴木登美『語られた自己』は、日本には「私小説言説」があるだけで、私小説がきちんと定義されたことはないと指摘した。実際、夏目漱石の『道草』などは明らかに私小説でありながら、単に漱石は自然主義派ではないというだけでこれを否定するという風習が行われてきた。大江健三郎の『個人的な体験』に始まる諸作についても同じことが言える。「自伝的小説」との明白な区別はかなり困難だが、私小説ではない自伝的小説は海外には多く見られる。小谷野敦は、鈴木の論を受けて、西洋にもゲーテ『若きウェルテルの悩み』、トルストイ『幼年時代』『少年時代』『青年時代』、ラディゲ『肉体の悪魔』、プルースト、アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』、ヘッセ『車輪の下』、ヘンリー・ミラー、ハンス・カロッサのほぼ全作品など、自身の経験に基づいた小説が多いことを挙げて、「私小説は日本独自のもの」との通説に疑問を投げかけているが、これは自伝的小説と私小説を混同したものだろう。実際には、自身の体験に基づいた小説を書かない作家は、安部公房や倉橋由美子などごく少数であり、それ以外は大衆小説になっている(『小説「私小説」』の中で私小説以外を認めない老大家を諷刺した筒井康隆にも『騒春』など自身の体験に基づく小説がある)。また三島由紀夫の、式場隆三郎宛の手紙の公開によって、『仮面の告白』が自伝的小説であることがわかり、ラディゲの『肉体の悪魔』が、のちの研究によって事実であったとわかるなど、のちに自伝的小説だとわかることもある。さらに、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』や、島崎藤村『夜明け前』、北杜夫『楡家の人びと』のように自身の家系を描いたものがある。ほかに、村上春樹『風の歌を聴け』を例にとると、この作品は村上の実体験に基づいているとする分析ができて、推理小説、歴史小説、ファンタジー、SFなどを除いていくと、自伝的でない純文学を見出すのはかなり困難になる。[注]ここでは、単に「自伝的要素が主柱となっているもの」という基準で選別している。表現方法は本来の私小説とはかなり違うものが多い。
出典:wikipedia
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