クリティーバ市 (Curitiba) は、ブラジル南部に位置する都市で、パラナ州の州都。発音はクリティーバのように,ポルトガル語では「ティ」にアクセントを付ける。なお日本ではクリチバと表記する場合も多く、加えて「バ」にアクセントをつける発音も多いが、その場合ブラジル人に正しく聞き取ってもらえないことが多い。標高およそ940mという州内でも有数の高地に位置し、近郊にブラジル有数の港湾都市であるパラナグアがある。17世紀にパラナ地方において植民都市として築かれたことを起源とする。現在の人口はおよそ170万人であり、ブラジル南部では最大の都市である。ブラジル地理統計院(IBGE)による調査に基づく(いずれも市内のみについてのデータ)ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。夏の平均気温は摂氏21度、冬は13度。クリティーバの歴史は、1630年頃に金鉱を求めて周辺で始められた入植にその起源が求められる。徐々に村落を形成し、1693年3月29日に村として認められ、パラナマツ(Araucaria angustifolia)の広大な林を有していたことから、ノッサ・セニョーラ・ダ・ルース・ドス・ピニャイス("Nossa Senhora da Luz dos Pinhais"、松林を守護したもう我らが光の聖母)という名で登録された。おそらくこの名前が言いにくかったこともあり、次第にクリティーバという名前で呼ばれるようになり、1721年に町の名称を正式に「クリティーバ(Curitiba)」に変更する。クリティーバという名の由来については有力説が2説あり、ひとつは、先住民が使っていたトゥピ語で「松(coré)が多い(etuba)」という意味の"Coré Etuba"から転じたというもの、もうひとつは、やはりトゥピ語で、「大きな(yba)松(kurit)」という意味の"Kurit Yba"から転じたというものである。1842年に町に格上げとなり、1853年、サンパウロ地方が分割されたことに伴い新設されたパラナ地方の首府となった。周辺にそれほど金鉱を有していないことが明らかとなるにつれ、黄金を求めてきた入植者たちはミナス・ジェライス地方へと移っていった。クリティーバは長い間、特にこれといった産業を持たず、牧畜が盛んな南部のリオ・グランデ・ド・スルと消費地帯であるサンパウロをはじめとする以北の地域との結節点という地理的優位性から、家畜売買とその中継地として収入を得た。1867年から移民団の受け入れが始まり、イタリア人、ポーランド人、ドイツ人、ウクライナ人を中心に、ヨーロッパ、特に中東欧から多数の移民が流入することとなる。1913年には、ブラジル初の大学となるパラナ大学(現在のパラナ連邦大学)が設置されるとともに、これもブラジル初となる路面電車が敷設された。1960年代頃までは、あくまで地方都市の枠を出ない存在であったが、以後、政策的な成功も寄与して、商工業が発展し、ブラジルでも有数の富裕な都市となる。その躍進をもたらした都市計画について、その先進事例として世界中に広くその名を知られるようになった。2014 FIFAワールドカップの開催都市の一つであった。クリティーバは、都市計画の優れた成功例とみなされている。専用レーン、2連結ないし3連結のバス、バリアフリー化も図られたチューブ型のバス停などを用い、大量かつ高速の輸送を実現した極めて効率的な公共交通システムを有している。日常の足として全市民の85%に利用されている。また、緑地政策においても著しい成功を収めており、クリティーバ市において、市民1人当たりの緑地面積は51.5平方メートルであり、これはユネスコが都市に求める基準値のおよそ3倍にあたる面積であり、世界の都市ではオスロについで2番目の広さである。区画整理も綿密かつ柔軟に設定されており、自然環境への悪影響を避けるため工業施設については建設区域が制限されている。1950年代から1960年代にかけクリティーバの人口は倍増し、人口が43万人程度にまで達する。これに懸念を持った市の幹部らは抜本的な対策を講ずる必要性を感じる。1964年に当時の市長イヴォ・アルズアは新たな都市計画の策定を求め、マスタープランの素案を求めるコンペを開催、結果、当時、パラナ連邦大学の学生で後に市長となるジャイメ・レルネルらの社会プロジェクト研究会が最優秀賞を獲る。この際、彼らが提出した案は、都市の乱開発を予防するための厳しい区画管理、市中心部の繁華街における交通(自動車)量の抑制、旧市街の歴史的建造物の保全、便利で手頃な公共輸送システムの構築、といったことを骨子とするもので、これは後にクリティーバ・マスター・プランとして広く知られることとなる。レルネルらが提出したこの案を受け入れた市は、調査目的の外郭団体としてクリティーバ都市計画研究所(イプキ、IPPUC: Instituto de Pesquisa e Planejamento Urbano de Curitiba)を設立し調査期間を与え、1971年にレルネルが市長に就任して以後、これらの計画は実行に移されることとなる。市長となったレルネルの基本方針はヒューマンスケールの町作りであり、モットーは「人間のための都市計画」であった。簡潔に言えば、自動車中心の都市政策ではなく、住民である人間を中心とした都市政策である。これは計画段階においても実施段階においても、ブラジリアの例(当時の市幹部はこれを「失敗例」とみなしていた)を多分に踏まえている。その政策は、まず市内中心部でも有数のメインストリートである、11月15日通り("Rua XV de Novembro")の一区画を閉鎖し歩行者専用道路としたことを手始めに、市内の区画の再整理から着手され、大方針として、市内中心部から放射状に開発するのではなく放射状に設定された開発軸に沿った開発が志向された。この事業は、公共交通網の整備とも密接に絡み、中でも、専用バスレーンを用いた道路の使用法は、トリニティ・ロード・システム(トライナリー・システム)と呼ばれる。これは、市にとっての開発軸となる主要道路を幹線バス専用レーンとして利用し、側道はあくまで道路沿いの施設にアクセスすることに限定した道として一般乗用車に開放し、1ブロック隔てた左右の道路をそれぞれ、一般自動車用の道路として使用するというものである。これはバスと一般自動車が混在することがないため、両者の混在によって引き起こされる問題を回避でき、円滑なバス運行を可能としている。1980年代になると、統合輸送ネットワーク(RIT, "Rede Integrada de Transporte")が創出され、均一料金で一度払うだけで市内のどこにでもバスで自由に行けるようになった。これは、都市郊外に住むことのデメリットを打ち消すため、郊外に主に住む低所得者層への福祉的な効果もあるものである。同時期に、「知識の灯台」と呼ばれるプロジェクトも開始している。これは施設内に図書館、現在ではインターネット設備、その他の文化的なリソースを提供するための自由に利用できる一種の教育施設で、主に小学校の隣に設置された。この施設は、ブラジルでしばしば問題となる子供たちが放課後を過ごす場所を与えているという点で意義が大きいとされるほか、夜間、文字通り暗い夜道を照らす灯台としての働きをすることで治安向上に一役買っている。これら数々の都市政策への評価は高く、1996年6月にはイスタンブールで開催された市長や都市計画家らによるサミット第2回国際連合人間居住会議(ハビタットII)において、「世界一革新的な都市」として表彰を受けている。現在までは成功といえる都市計画ではあるが、今後の課題もある。犯罪指数は今のところ低いが、スラムやホームレスといった問題は他の大都市同様に抱えており、すでに市内の開発が面積的に限界に達しつつあること、郊外の大規模ショッピングセンター建設に伴う都市の郊外化、など、クリティーバ市も頭を悩ませている問題は少なくない。クリティーバ市は、自家用車を使うよりも公共交通システムを使ったほうが便利、という状況を意図的に構築しており、そのため、その交通システムは誰にでもわかりやすいシンプルなもので、しかも効率的かつ安価なものとなっている。(→公共交通指向型開発)公共交通手段としてはバスを主に用い、目的に応じて異なったバスを使用している。その種類は10種類にも及ぶが、全てのバスは機能別に色が塗り分けられているため、利用者側には区別が容易となっている。乗車位置はバスの長さ(2両編成・3両編成もよく見られる)によって違うことが多いので、注意が必要である。またブラジルの多くの街で採用されているように、車内に車掌がおり運賃を支払う場合もある。ただしターミナルから乗る際や幹線バスと直行バスのみ、特殊なチューブ型のバス停を使い入口の改札で運賃を支払う。このバスに乗る前に運賃を支払う方式は、ブラジルでは比較的珍しいため「クリティーバ方式」と呼ぶ人も多い。1回の乗車につき均一運賃を支払う運賃体系だが、同一ターミナル内および同一チューブ型バス停内で乗換を行う際は他の路線に無料で乗換が出来る。このチューブ型のバス停には車椅子用のリフトがあり、車椅子でもバスを気軽に利用できるよう設計されている。なおクリティーバのバスの前面に掲出されている方向幕は行き先ではなく全て「系統番号」と「路線名」で表示される。そのため「セントロ」(中心部)で折り返す際も行先を変えることはない。クリティーバのバス網はバス停の他に12の旅客ターミナルを持ち、そこではさながら電車の乗り換え駅と同様、追加料金を支払うことなく異なる路線のバスに乗り換えることができる。幹線バスや直行バスの各路線に設けられており、乗客に大きな柔軟性を与えている。ただし、中にはクリティーバ市(Cidade de Curitiba)ではなく、大きなMの文字(Metropolitanoの頭文字)が書かれたバスを見かけるが、これはクリティーバ市外へ運行するバスで路線によって運賃が大きく変わるので注意が必要である(ただし、Mの文字入りの基幹バスBi-Articuladoも見かけるがこれのみ市バスと同じ運賃で扱われる)。バス停は市バスと共通なのでクリティーバ市内でも乗降が可能だが、差額を返してもらう事はできない。一般の自家用車でも市内中心部への迅速なアクセスが可能だが、市内中心部では、道路は一方通行が多く設定され、また、公共交通網に主にウェイトが置かれていることから、自家用車で移動するには若干の不便を強いられることもある。そのため、市内中心部に向かいたい人々にとっては、公共交通網が非常に魅力的な移動手段となっている。中心部の一部区画を除いて、ほとんどの大通りは広々としていることもあって、複合的な結果として、市内中心部では交通渋滞に悩まされることはそれほど多くはない。最近、市は交通事故件数を減らすため、200個ほどの監視装置を市内各所に設置した。これは制限速度を超過して走っている車を自動的に撮影するタイプのもので、これで違反の現場が撮られたドライバーには、ブラジル国内のどこにいようとも、罰金のチケットが送付されることとなる。市内の制限速度は60km/hだが、人通りの多い場所などでは制限速度40km/hとなっている。白人(73.9%)、混血(21.4%)、黒人(3.7%)、その他(1.1%)クリティーバの歴史的に意味のあるもののほか、都市計画などの事業を語る上で重要なもののみ取り上げる。ノッサ・セニョーラ・ダ・ルース聖堂("Catedral Basílica Menor de Nossa Senhora da Luz")。町のランドマークとなっているゴシック様式のカテドラル。市内の中心であるチラデンテス広場に位置する。その名の通り、クリティーバの守護聖人である聖母マリアに捧げられている。クリティーバが村として認められたのと同じ1693年に最初の教会が建設され、現在の建物は1876年から1893年にかけて建設されたものである。当時の市の観光政策の影響もあり、1993年に大幅な修復を施され現在まで姿をとどめる。1913年にパラナ大学として設立された、ブラジルで最初の大学(組織としての成立は1912年12月19日)。1946年までは単科大学だったが、1951年に連邦大学(国立大学に相当)となって以後は大学院なども備えた総合大学となる。現在は、60の学科、124の専攻、41の修士課程と26の博士課程を有する。現在も残る建物(右写真)は1913年に建設されたものであり、市内のサントスアンドラデ広場に位置し、同市のランドマークのひとつとなっている。11月15日通り("Rua XV de Novembro")は市内中心部の歩行者専用の大通りである。都市計画を語る上では、同市の市民に文化的な意識変革をもたらした事例の象徴のひとつとして知られている。1971年以前は車道であったが、当時の新任市長ジャイメ・レルネルの独断で通りの一区画が強制的に歩行者専用道路に変貌し、結果的にこれが通りの商店主をはじめ市民に好評を得たことから、現在は通りの多くの区画が歩行者専用道路となっており、同市で最大の繁華街を形成するにいたっている。(理由は都市の中心地は多数の自動車による大気汚染が発生しやすい為、その軽減を目的にしたとされている)24時間通り("Rua 24 horas")は長さおよそ120mの通りに24時間営業の飲食店など、34の店が軒を連ねる商店街の一種。その機能を象徴するかのごとく、通りの両端には「24時間時計」が据え付けられている。パイプを組み合わせたモダンな造りで1992年に開業した。こうした夜間も営業する商店街(飲食店街)というのはブラジルでは珍しい試みで、市民に安心して憩えるスペースを提供するだけでなく、周辺の治安悪化に対する抑止効果も期待された。この通りは、当時の市長ジャイメ・レルネルが日本を訪れた際、夜でも賑やかな神戸の三宮の繁華街を見て感心したことをきっかけに発案・建設された。しかしながら試みは失敗に終わり、現在、商店街は閉鎖されて24時間時計のみが残っている。
出典:wikipedia
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