LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

麒麟児和春

麒麟児 和春(きりんじ かずはる、本名:垂沢 和春(たるさわ かずはる)、1953年3月9日 - )は、千葉県東葛飾郡(現:柏市)出身の元大相撲力士。二所ノ関部屋所属、最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、146kg。得意技は突っ張り、押し、左四つ、寄り。現在は年寄・北陣(二所ノ関部屋付き)、日本相撲協会委員(指導普及部)。12代式守錦太夫は甥。父は国鉄の駅長を務めていたので夜勤が多く、病気がちな母を助けるために姉と二人でよく家事を手伝っていたという。小学2年生から柔道を行っていたが、中学入学時に90キロに達した体格を生かして柔道の大会で活躍したため相撲を志すようになったという。中学2年生のときに力士を志して両国へ出てきたが立浪部屋(羽黒山)に断られ、時津風部屋に行くと時津風(双葉山)は不在、3つめに訪れた二所ノ関部屋で二所ノ関(佐賀ノ花)が入門を認めてくれた。1967年5月場所で初土俵。幕下時代には生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した末に一旦髷を切って脱走したが直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、これを機に熱心に稽古をするようになった。1973年の9月場所と11月場所、幕下で2場所連続全勝優勝で十両に昇進。本名の「垂沢」から、兄弟子の大関・大麒麟が若手時代に名乗っていた四股名である「麒麟児」に改名。ちなみに十両昇進年齢が20歳以下なら「麒麟児」、21歳以上なら「海山」を名乗らせるつもりだったらしい。1974年9月場所新入幕、好成績でいきなり横綱・輪島にあわせられるなど、すぐに幕内上位に定着。突っ張りを得意としたきっぷのいい押し相撲(左四つでも相撲が取れた)で入幕以来7場所連続勝ち越して関脇まで昇進し三役と三賞の常連になる。輪島とは初顔の対戦以来、10度目の対戦(1976年9月場所)まで7勝3敗とカモにしていた(その後は逆にカモにされ、1不戦敗を含む1勝12敗)。同タイプの富士櫻との取組は人気を博し、1975年5月場所の8日目の天覧相撲では富士櫻と108発の猛烈な突っ張り合いを見せ、昭和天皇が思わず身を乗り出したことは有名な話で、協会も昭和天皇が観戦する日にわざわざ割を組んだほどだった。また、時間前に立合うこともしばしばあった。本人も富士櫻との対戦が現役時代最高の思い出だったと語る(ちなみに対戦成績は麒麟児が17勝9敗と勝ち越している)。同部屋の天龍が二所ノ関を継承した金剛と確執を抱いたことを原因として1976年9月場所を最後に廃業した際、仲の良かった麒麟児は何度も引き止めようとしたと伝わっている。1979年に左膝を負傷して十両陥落。その後小結まで番付を戻すが1981年以降になると、次第に上位には通じなくなり、幕内上位では負け越し、番付が下がると勝ち越すというパターンの繰り返しが続き、いわゆるエレベーター力士として引退まで幕内に長く留まった。昭和天皇も「麒麟児は今度は勝ち越す番だね。下位に下がったから」と言ったエピソードがあり、引退までのほとんどがこの星取りパターンだった。1981年7月場所から1984年11月場所まで実に21場所の間、地方場所では勝ち越し、東京場所では負け越しを交互に繰り返している。両国国技館杮落としの1985年1月場所では9勝6敗と勝ち越し、このパターンをストップさせたものの、逆に翌3月場所で4勝11敗と負け越した。また1986年11月場所から1988年5月場所までの10場所間は地方場所で勝ち越し、東京場所で負け越しというパターンを辿っている。1988年9月場所に以前から痛めていた左膝を再度負傷、この場所限りで引退し年寄・北陣を襲名した。なお、引退の経緯については入門時の師匠である佐賀ノ花の未亡人が「あなたも十分やったから、もう(辞めても)いいんじゃない」と言われ、「もう潮時かな」と思ったことなどを語っている。現役引退後はNHKのテレビ中継や『サンデースポーツ』の解説で、実技をふまえたわかりやすい説明で視聴者から親しまれている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。