


洛陽市(らくようし、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば中国王朝の首都となった。なお、平安時代の日本においては、文学上の雅称として京都を洛陽と呼ぶことがあった。やがてこれが平安京の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すこととなり、京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。洛陽の南には洛水が流れており、これが地名の由来となっている。「陽」は「日当たりのいい場所」の意で、河川などの北側の土地をいう。なお、山の場合は「陽」は南方にあたる。また、洛陽の北に北邙山があり、昔の王侯や貴族たちはほとんどここに埋葬された。北邙山の本来の名前は邙山である。邙山が洛陽の北に位置するので北邙山と呼ばれるようになった。元々北邙山は景色が美しい名山であった。しかし、その秀麗な景色を穴場とした高官たちが一つ二つと北邙山に墓を作り、北邙山を墓地にした。河南省西部にあり、黄河の中流にある。総面積は、15,208 平方キロメートルであり、区部の面積は 544 平方キロメートルである。黄河・洛河・伊河・澗河・瀍河が領域内を流れる。東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山がある。中岳嵩山も隣接する。古くから兵家必争の地であり、歴代の帝王が都を建てようと考えた土地でもあった。洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきり分かれ、冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は非常に暑く雨が集中して多い。秋には晴れて日照時間が長い。年平均気温は摂氏 14.7 度、年平均降水量は601.6 ミリメートルである。東周の平王の時代、戦乱により荒廃した鎬京(長安)より都が移され洛邑と称した。これ以降、中国古代の政治経済の中心地の一つとなり、後漢・曹魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて都城が設置されている。また長安を都とした王朝でも、この洛陽を副都とした王朝が多い。漢代では、火徳とする漢王朝に洛のサンズイが忌まれ、雒陽に改名された。しかし、土徳とする三国時代の魏により元の洛陽に戻された。また、唐代の中間にある女帝武則天の国の武周(690年 - 705年)では神都と改名されて都となった。これも唐の復活により元の洛陽の名に戻された。唐王朝の衰退・滅亡から五代十国時代を経て建国された宋では東の開封が首都とされ、さらに元代以降は政治の中心が北京に移り変わっていった。このため中国全土の中心地としての重要性こそ低下したが、河南地域の主要都市としての地位は現在まで受け継がれている。明・清代には河南府の府治が設置され、中華民国が成立すると洛陽専区が設置されていた(1948年に設置された洛陽市は県級市であり、洛陽地区の管轄下に置かれた)。1956年に地級市としての洛陽市が成立している。2000年にユネスコ世界遺産に登録された竜門石窟は洛陽市郊外に位置している。これは493年(太和17年)、北魏が洛陽に遷都した時代に建築が始まった石窟寺院であり、中唐まで、およそ3万体の仏像が石窟の中に作られたものである。洛陽市は、下に6区1市8県の行政区を持つ。総人口は615万人であり、区部にはそのうち140万人が住む。洛陽市には様々な民族が雑居し、その数は合わせて32民族を数える。その中で漢族は602万人であり、市の人口の98.8%を占める。その他の少数民族は8万人近くおり、市の人口の 1.2 パーセントを占める。回族・満州族・モンゴル族が割合と多い。
出典:wikipedia
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