藤田 まこと(ふじた まこと、1933年4月13日 - 2010年2月17日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン。東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退。父は俳優の藤間林太郎。伯母は大正三美人の一人林きむ子。伯父は曾我廼家喜劇の女形だった曾我廼家弁天。次女は『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現・EMIKO)。孫(長女の娘)は歌手の花リーナ。血液型はAB型。身長173cm。オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、新演技座(個人事務所)に所属していた。2002年に紫綬褒章を受章。1933年4月13日、東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋に生まれる。父親は無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎で、母親は林太郎が大阪の帝国キネマに在籍していた時に身請けした芸妓であった。藤田は芸能人となった後、林太郎にしばしば「お前が生まれるのには金がかかっている。芸人ならばお前の代で元を取れ」と言われたという。藤田の姉と兄が生まれた後、帝国キネマは撮影所の火災が原因で倒産したため林太郎は大都映画に移籍。そのため藤田は東京で生まれた。母親は藤田を産んだ後伏せりがちとなり間もなく他界したため、藤田はほとんど記憶にないという。小学校時代に林太郎が再婚。藤田は継母とそりが合わず(藤田によると再婚した当初は特に反感は抱いておらず兄が反抗していたが、兄に影響されて反抗するようになった。やがて兄は反抗を止めるようになり、藤田だけが反抗するようになった)。藤田は継母を決して「お母さん」とは呼ばず、兄と姉から「『お母さん』と言え」と殴られたこともあった。1943年、一家は関西へ移った。はじめは大阪府枚方市光善寺へ引っ越したが、近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあることが分かり、すぐに京都府京都市の四条堀川へ再度引っ越した。終戦後の1946年、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との養子縁組の話が持ち上がり、継母を嫌っていた藤田は承諾した。藤田は養父母に馴染んだが、間もなく志願兵として兵役についていた兄の戦死が判明(搭乗していた輸送船江龍丸がアメリカ軍の攻撃に遭い、沖縄の久米島沖で沈没)し、家族の元に戻ることになった。兄が家を出た後、藤田は姉から「お前がお母さんの言うことを聞かないので、家の中がめちゃめちゃになってしまった。だから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と言われた。そのため藤田は兄からの最期の音信である葉書を見ては「新しいお母さんと僕が上手くやれていたら、兄貴は戦争に行かなかったかもしれない」、「僕はどうして『お母さん』と素直に呼べなかったんやろう」と後悔するようになった。後に藤田は兄からの葉書をコピーし、常に携帯するようになった。藤田は後年、継母について「いい人でした」、「大金持ちのところ(藤田は継母の前夫について、「とある著名な文化人」と述べている)から、惚れて貧乏役者のところに来たのに、子供が全くなつかなかったというのは辛いことだったでしょう。彼女にも悪かった」と述べている。継母は4、5年で林太郎と離婚した。藤田が家族の元へ戻った時、姉は肺を患い伏せっていた(間もなく死去)。加えて、林太郎は家庭を顧みない性格の人間だったため、藤田は「頼れるのは自分の才覚だけ」という心境に至り、学校をサボって闇市を徘徊、夜は京都市内のキャバレーや将校クラブの近くで進駐軍兵士の靴磨きや連絡係をして金を稼いだ。稼いだ金で買ったどぶろくが藤田が飲んだ最初の酒で、ヒロポンやエフェドリンにも手を出した。19歳の時に九州から大阪へ向かう夜行列車の中でヒロポンを使用していたところを警察官に見つかり、逮捕されたこともある。後年、藤田は『はぐれ刑事純情派』で刑事役を演じたことがきっかけである警察幹部と親しくなったが、ある時ヒロポン使用での逮捕歴を持ち出され、「藤田さん、若い頃はやんちゃだったんですね」とからかわれた。1940年代後半、林太郎が所属していた一座に雑用係として参加するようになり、他の一座の巡業にも参加するようになった。17歳の時に歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌ったのが藤田の初舞台で、やがて舞台俳優としても活動するようになった。「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったのはこの時期である。舞台俳優からキャリアをスタートさせたことから、藤田は「映画俳優を含め、舞台に上がっていない芸人は芸人ではない」という考えを持っていた。10代の終わりに歌手を志して上京し、ディック・ミネのカバン持ちをしながら前座の歌手として活動した。1年ほどで大阪へ戻り、日本マーキュリーレコードでアルバイトとして働きながら歌手としての修業を積んだ。藤田は日本マーキュリーレコード所属の歌手の地方巡業に前座歌手として参加したが、ある時病気になった司会者の代役を務めたのをきっかけに、巡業の司会者としても活動するようになった。司会者時代に最も印象に残っている歌手は東海林太郎で、癌の手術を受けた直後で体調が悪かったにもかかわらず、客の入り悪い冬の公演を一切手を抜かずにこなした姿に感銘を受けた。藤田は東海林の生涯を芝居にしたいという思いを抱くようになり、1981年10月から1982年3月にかけて東京・大阪・名古屋で『東海林太郎物語・歌こそ我が命』を上演、1984年に文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。藤田は中田ダイマル・ラケットの助言を受けて司会の仕事をやめ、俳優として中田ダイマル率いる「ダイマル・ラケット劇団」に入団。藤田曰く当時の大阪では俳優とコメディアンの区別がなく、「役者志望の見習いコメディアン」として活動した。1957年、コメディー時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』で初めてテレビ番組に出演。藤田が演じたのは縁側に座っているだけの与力の役で、藤田によると「なにがなんやらわからんうちにはじまって、終わってしもた」。1961年、『笑いの王国』で生放送のCM(亜細亜製薬「強力ベルベ」)に出演。水戸黄門、西郷隆盛、丹下左膳など知名度の高い人物に扮したことが人気を博した。藤田曰く、この頃に初めて街で視聴者から声をかけられるようになった。1962年、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』に出演。それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢された。出演依頼が来た時点で藤田は脇役としてテレビで6本、ラジオで5本の番組にレギュラー出演していたが、ディレクターの澤田隆治に「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない」という理由からそれらの番組を全て降板するよう要求された。藤田は「三軍から一軍に上がるチャンスかもしれん」と思い、条件を受け入れた。澤田によると、突然のレギュラー降板に激怒し、これ以降長い間藤田を起用しなかったテレビ局もあったという。『てなもんや三度笠』は1年間52回の予定で放映を開始した。当初藤田は番組が予定通り1年間存続することさえ危ぶんでいたが、予想外の人気を博し、同番組のスポンサーであった前田製菓のCMフレーズ「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」や財津一郎ら個性的なレギュラー陣のギャグも大当たりとなり、1968年まで放映された。また藤田はこの時期渡辺プロダクションに在籍し、クレージーキャッツの主演映画などへの助演のほか、自らの主演映画、谷啓とのコンビ主演映画など、『三度笠』と並行して数多くの映画・テレビ番組等に出演した。『三度笠』の視聴率は最高64.8%を記録(1965年)したが、番組末期には3-4%台にまで低迷、藤田自身の人気も凋落の一途を辿った。周囲からの扱いが高視聴率を記録していた時期から一変して悪くなるのを目の当たりにした藤田は「視聴率という、実体のないものの怖さ」を実感したという。『三度笠』の終了後は『てなもんや一本槍』、『てなもんや二刀流』と、続編2作が製作されたが、初期の人気には遠く及ばず、1971年2月末にシリーズは終了した。てなもんやシリーズの終了後、藤田のもとには「コメディのどうでもいい仕事の話」がきたが、「コメディそのものにも、いまひとつ乗りきれないものを感じていた」ことからすべて断り、地方のキャバレーを回る巡業に出た。この時、藤田は「僕はもともと旅芸人、元に戻るだけや」という心境だったという。キャバレーでの興業は「意外に楽しく」、そのことが伝わったせいかキャバレー側から「また来てほしい」と要望されることも多かった。収入も『てなもんや三度笠』に出演していた頃よりも良かったが、巡業先でテレビをつけて見知った顔が出てくると焦りを感じたという。1973年、時代劇『必殺仕置人』に中村主水役で出演。朝日放送プロデューサーの山内久司から依頼を受けた藤田は、「一見情けない男だが、実は腕利きの殺し屋」という設定が「自分にぴったりの役」と感じた藤田は出演を承諾した。なお、交渉の際に山内は「監督の深作欣二が『どうしても藤田まことでやりたい』と言っている」と藤田に話したが、後になって複数の俳優に依頼を打診したものの「安物の同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い」という設定を嫌われたという話を知ることになる。藤田はその時、出演承諾から撮影開始まで1週間しかなかったことに合点がいったという。藤田は『必殺仕置人』の放映開始時はまだ「コメディアン」で、2年ほどが経ってコメディのみならずシリアスな演技もできる「役者」になったと回顧している。『必殺仕置人』は当初、山崎努が演じる念仏の鉄を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった。『必殺仕置人』で複数回監督を担当した三隅研次は、はじめ藤田の芝居を「おっさん!あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思てんのか!」と酷評したが、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続き物になるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体ん中入って、これは一生もんやで」と発言した。三隅の予想は的中し、藤田主演の『必殺シリーズ』は中断を挟みつつ1992年3月まで続いた。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ1本に絞り、あとは舞台に出るというスタンスをとった。この間、1977年11月には渡辺プロから独立。1978年1月には「藤田が座長で座員は藤田一人の劇団」との体裁で個人事務所「新演技座」を設立。客演ゲスト扱いで野川由美子、芦屋雁之助、芦屋小雁の3名が名を連ね、結成に関わっている。7月1日 - 25日には大阪・中座で旗揚げ公演「ちりれんげ / 必殺仕置人 - 私 中村主水です」を行っている。藤田によると、末期の『必殺シリーズ』は荒唐無稽なストーリーが続出し、若い視聴者に向けて、まるで「饅頭の上に苺のっけたり、生クリームかけたり、ちょっとチェリーをのせたり、そんな雰囲気のデコレーション」を施すようになった。これを契機に藤田は制作サイドにシリーズ終了を訴えた。藤田はこの事について「『必殺シリーズ』で時代劇は終焉をみたのであり、それ以降の番組は我々の失敗したことをまた懲りずにやってる状態だった」と当時の状況を客観的に述べている。1988年、『はぐれ刑事純情派』シリーズの放映が開始。派手な演出がない作品だったことから藤田は当初ヒットしないという予感を抱いていたが、「なんや知らんうちに、長続き」し、18年間にわたって放映された。藤田は『必殺シリーズ』と『はぐれ刑事純情派』シリーズとを比較し、「コメディアン」として起用された前者と「役者」として起用された後者とでは重みが違ったと述べている。1998年から放映された『剣客商売』シリーズは、藤田の晩年を代表する作品のひとつとなった。藤田は『東海林太郎物語』や『その男ゾルバ』を上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っているが、50代のうちに60代で行うことを考えなかったため、この先に何をすべきか迷い、頭の中が真っ白な状態になったという。藤田はそんな中で『剣客商売』に出会い、迷いが消えたと述べている。2006年11月4日にはフジテレビの『仕掛人・藤枝梅安』で音羽の半右衛門を演じ、翌2007年7月7日にはABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2007』で再び中村主水を演じた。2008年4月に体調不良を訴えて検査を受けたところ、食道癌であることが判明、6月の明治座『剣客商売』の舞台公演を降板して入院加療を行い、10月下旬より復帰、ABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2009』に中村主水役でレギュラー出演した。 2009年10月期の『JIN-仁-』(TBS)にも新門辰五郎役で出演予定であったが、慢性閉塞性肺疾患により降板。その後リハビリを続けていたが、2010年2月16日、箕面市の自宅で夕食後の家族団らん中に突然吐血し、大阪大学医学部付属病院に搬送されるも、翌17日午前7時25分、大動脈瘤破裂のため死去。。1月には体調の回復もあってナレーションの仕事を務め、3月の完全復帰を予定していた矢先の急逝だった。藤田死去の報に、テレビ創世記の時代に共に活躍した戦友でもあった大村崑は「まこちゃんとの思い出はつきない。彼は大阪人の宝です」、『てなもんや三度笠』で共演した白木みのるは「僕の大きな友達を亡くした」とそれぞれ追悼の辞を発表した。(白木みのるは『情報ライブ ミヤネ屋』で宮根誠司から訊かれるまで藤田まことの死を知らなかったと言う)。戒名は、「寿量院修芸日真居士(じゅりょういんしゅうげいにっしんこじ)」。また、『てなもんや三度笠』のスポンサーを務めた前田製菓も公式サイトのトップページにおいて追悼文を掲載した。遺作は『京都殺人案内』の第32作目(2010年2月27日放送)。また、死から5ヶ月後に放送されたスペシャルドラマ「必殺仕事人2010」(2010年7月10日放送)では、過去の映像と声のみ出演した(そのため、エンディングのキャストロールで藤田の名前が表示されていた。)。通夜・葬儀は、長男が喪主を務め、近親者のみで執り行った為(しかし密葬にも関わらず約100名の弔問客が訪れ、後述の「偲ぶ会」では約600名が参列した)、政財界や芸能関係者から「藤田さんにお別れを言いたい」と望む声が寄せられたことから遺族側は2011年4月13日(藤田の78回目の誕生日に当たっていた)にお別れの会を計画した。しかし、東日本大震災が発生したことによりこれを取り止め、日を改めて同年11月24日に森光子、野中広務、石原慎太郎、森喜朗らを発起人に東京国際フォーラムで『藤田まことさんを偲ぶ会』が「藤田まこと 役者人生最後の花道」と銘打って行われ、当日は塩川正十郎、黒柳徹子、東山紀之、京本政樹など、藤田にゆかりのある関係者が出席し、藤田を偲んだ。ネットチェンジ前(1975年3月まで)ネットチェンジ後(1975年4月以降)ネットチェンジ前(1975年3月まで)ネットチェンジ後(1975年4月以降)
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