ミサイル・ギャップ論争(ミサイル・ギャップろんそう)とは、1950年代後半に冷戦下のアメリカ合衆国で行われた軍事論争。単に「ミサイル・ギャップ」などと表記される場合もある。原子爆弾・水素爆弾といった核兵器の大量保有を達成したアメリカであったが、その輸送手段は専ら戦略爆撃機などであった。ソビエト連邦が核開発に成功しても、その生産規模・輸送力においてアメリカは優位であると信じられていた。だが、ソ連はかつてのナチス・ドイツのミサイル技術を以って世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7(愛称「セミョールカ」、NATOコードネーム「サップウッド」)を開発する。1957年にはR-7系列のボストークによるスプートニク1号の打ち上げで、人類で初めて人工物体を地球で周回させる事に成功した。ソ連のニキータ・フルシチョフはミサイル戦略の対米優位を強調する。しかしソ連の人工衛星も核ミサイルも国民生活の犠牲あっての成果であった。過剰な中央集権体制が経済発展を阻害していた。農業生産は低迷し、工業力もアメリカの半分でしかなかった。アメリカにおいては、核技術での地位は揺らがないものの、ミサイル技術の遅れが命取りになるという論争が生まれた。アメリカはソ連に続く人工衛星「エクスプローラー1号」の打ち上げを成功させ、大陸間弾道ミサイルを中心としたミサイル戦略を進める。だが、ソ連のミサイル配備がどれほどなものかがわからない状況で、不安が募るばかりであった。だが実際には質量ともアメリカはソ連を大きく引き離していた。ところがアイゼンハワー政権は自国の優位を誇示するのを思いとどまった。下手に発表してソ連を無用に刺激したくなかったことと、国内に軍事費削減の圧力可能性があったのである。不安は疑心暗鬼を呼び、アメリカ国内は反共色と右傾化が進み、ローゼンバーグ事件、赤狩りのような魔女狩りにも似た暴挙まで起きた。また、「ソ連の核に対する予防戦争としての先制核攻撃の是非」さえもが公然と論じられた。しかしこのミサイル・ギャップはやがて虚構であることが明らかになった。アメリカにおける大陸間弾道弾ミサイルの開発では、初のICBM「アトラス」を1959年から実戦配備となった。一方で当時「PGM-17 ソー(1958年実戦配備)」や「PGM-19 ジュピター」などの中距離弾道ミサイルを保有していたアメリカは、ソビエト近海の北極海から中距離弾道ミサイルを発射し、ソビエト国内の目標へ攻撃を行う「ポラリス計画」をスタートさせ、潜水艦発射弾道ミサイルと呼ばれることになるこのポラリスは、1960年に初めて潜水艦から発射テストが行われ、配備が進められる。この論争は、1958年頃から論じられて当時野党であった民主党上院議員ジョン・F・ケネディもその急先鋒であり、そして1960年の大統領選挙では民主党大統領候補になってからも対抗馬の共和党ニクソン候補への攻撃材料として使われた。しかし実態はそうではなく、大統領就任後の1961年2月に、ケネディ政権で国防長官に就任したばかりのマクナマラ国防長官がミサイル・ギャップを否定した。けれどもケネディ大統領はこの時点ですでに実態について認識していたことではあるものの、すぐにマクナマラ発言を取り消す声明を出した。しかし、結局マクナマラとラスク国務長官及びマクジョージ・バンディ国家安全保障担当特別補佐官との協議を経て、同年10月にギルパトリック国防次官が、アメリカはソ連に対して核戦力で優位にあるとの声明を出して、このミサイル・ギャップ論争に終止符を打った。事実はミサイル・ギャップは存在するが、それはアメリカがソ連に対して劣勢ではなく、逆にソ連が遥かに劣勢であったことである。これより先の1962年のアメリカ国防省の情勢評価ではソ連のICBMは30基であるのに対して、アメリカは220基が実戦配備していた。これは東西冷戦の中でソ連に対する力の優位を確保し、核戦力及び通常戦力の拡張を急ぎたいタカ派の行動がそうさせたと思われる。ケネディもこの時期はまさに冷戦の闘士であった。このミサイル・ギャップは皮肉な事態をもたらした。ソ連のフルシチョフ首相がソ連を包囲する西側の核戦力に対して東側が脆弱なために、1959年に起こったキューバ革命でカストロ政権のキューバを支援し1962年夏にキューバに核ミサイルを運び基地を建設するところまでいった。この時のフルシチョフの目的はキューバの防衛とともにアメリカの近くに核配備をすることで東西のミサイル・ギャップを挽回することでもあった。
出典:wikipedia
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