ロビンソン・ホセ・カノ・メルセデス(Robinson José Canó Mercedes, 1982年10月22日 - )は、ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身のプロ野球選手(二塁手)。現在は、MLBのシアトル・マリナーズに所属している。父も1980年にヤンキースとアマチュアFAで契約し、1989年にはヒューストン・アストロズで6試合に登板した元・投手である。父はジャッキー・ロビンソンにちなんで息子に「ロビンソン」と名付けた。ロビンソン自身はドミニカ共和国で育ち、サンペドロ・デ・マコリス市サンペドロ・アポストル高校で野球とバスケットボールの選手として活躍した。に同校卒業後、父と同じニューヨーク・ヤンキースとプロ契約を結び、プロ入りを果たした。、AAA級チームで打率.333の好成績を残し、5月3日にメジャー初昇格を果たす。同年、3年連続盗塁王に輝いた事もあるトニー・ウォマックから二塁手のポジション奪取に成功し、打率.297、14本塁打、62打点を記録。特に、チームの快進撃ともなった9月攻勢で大活躍を果たし、週間MVPや9月の月間新人MVPを受賞した。同シーズンのアメリカンリーグ新人王投票では2位に入った。、オールスター投票では二塁手部門でトップを走り続けていたものの、膝の違和感から故障者リストに載ってしまい、結局出場は果たせなかった。しかし、怪我から復帰した8月8日以降の成績では打率、二塁打数、打点でリーグトップであった。欠場の影響で欠けていた規定打席数にも9月末に到達し、首位打者争いに絡む活躍を見せた。また、9月の月間MVPにも輝く。最終的に残した打率.342は同僚デレク・ジーターに1厘差に迫るリーグ3位の数字で、二塁打数もリーグ2位であった。同年のMVP投票では総合22位に入り、シルバースラッガー賞を受賞。、ロジャー・クレメンスがヤンキースに復帰する可能性を作るため、背番号を(クレメンスが去った後カノが付けていた)22番から24番に変更した。また、体重もメジャーデビュー時は80kgも無かったが、92kgに増やした。同年シーズンは前半こそ不調に陥ったが、最終的に打率3割を残し、本塁打・打点で自己最多を記録した。2月7日、球団と調停を回避し4年総額3000万ドル(約32億円)で延長契約を結んだ。開幕前の3月に第2回WBCのドミニカ共和国代表に選出された。シーズンでは自己最多かつリーグ最多タイの161試合に出場し、打率は2年ぶりの3割を記録した。また、自身初となる200安打と25本塁打を記録した。シーズン終了後のMVP投票では7位に入った。は、2年連続となる200本安打を達成し、自身4度目の打率3割以上、自己最高の29本塁打、自身初の100打点以上を記録した。四球が自己最多を記録したことで、出塁率も自己最高を残した。また、自身2度目となるオールスター出場を果たした。シーズン終了後には、自身2度目のシルバースラッガー賞と自身初となるゴールドグラブ賞を受賞した。8月25日、オークランド・アスレチックス戦で記録された、MLB史上初の1試合1チーム3満塁本塁打の一員となった。カノは5回裏に1本目の満塁本塁打を放った。カノに続いて、6回裏にラッセル・マーティン、8回裏にカーティス・グランダーソンが満塁本塁打を放ち、記録が樹立された。は、4番を任される事が多くなった。初めて30本塁打の大台をクリアし、シーズン最終戦まで9試合連続でマルチヒットを記録した。ところが、10月14日のデトロイト・タイガースとのア・リーグ優勝決定シリーズ第2戦でプレーオフ24打席連続無安打となり、1996年のボビー・ボニーヤを抜いてプレーオフのワースト記録を更新してしまった。シーズン終了後に翌年の1500万ドルのオプションが行使された。開幕前の3月に第3回WBCのドミニカ共和国代表に選出された。同大会のMVPになった。また、この年でヤンキースとの契約最終年となる。4月2日には、音楽プロデューサーのジェイ・Zが経営するレーベルのロック・ネイションがビジネスをスポーツ事業まで拡大し、スコット・ボラスと契約を解除しロック・ネイションと契約した。レギュラーシーズンでは、7年連続159試合以上となる160試合に出場し、5年連続となる打率.300超えを記録。打点も2年ぶりに100の大台に到達した。他には、三塁打0と盗塁死1は、いずれも自己最少の数値。10月31日にFAとなった。2013年12月6日、シアトル・マリナーズと総額2億4000万ドルの10年契約で合意したことを報じられ、12月12日、球団が正式発表した。、初めてマリナーズの一員として過ごしたシーズンは、5年連続25本以上放っていたホームランこそ14本まで減少したものの、打率.314を記録し、6年連続.300以上となった。また、自身初のシーズン2ケタ盗塁を決めた。また8月20日に、日米野球2014の選抜メンバーに選出された事が発表された。ただこの大会では、第3戦で日本代表の西勇輝投手 (オリックス) から右足小指に死球を受けて骨折し、そのまま帰国した。は、開幕から不振に陥り、6月終了時点で打率2割前半、4本塁打だったが、後半戦は打率.331、15本塁打を記録した。シーズンではメジャーに昇格してから初めて三振の数が100を超え、ホームラン数は21まで戻したが、2009年から続いていた打率3割超えが6年で途切れることとなった。そのほかにも盗塁数が自己ワースト、OPSも6年振りに800を下回るなど全体的に数字を下げてしまった。セカンドの守備は、149試合で6失策・守備率.991を記録したが、DRSは-9に低下した。は昨年の不振から脱却して序盤からアーチを量産し、前半戦終了時点で本塁打は昨年全体の数に並んだ。最終的に161試合で自己最多の39本塁打を放った。守備面でもDRSで+11を記録し、3年ぶりのプラスに転じた。広角へ自在に打ち分けるシュアな打撃が魅力で、一定の長打力も併せ持っているため、逆方向にも打球が伸びる。マイナー時代には、サード・ショートとしてもプレーした経験がある。
出典:wikipedia
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