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中標津町

中標津町(なかしべつちょう)は、北海道根室管内の北部に位置する標津郡の町である。根室振興局管内では根室市に次ぐ人口を擁し、管内中部の中核となる町で、酪農・商業が盛ん。2005年から北海道庁による移住促進事業のパートナー市町村として、道外からの移住を推進している。分村により誕生した1946年から2010年の国勢調査まで、人口は増加傾向を見せている。2005年の国勢調査では、釧路・根室地方で唯一人口が増加した。その後、2015年現在まで毎年人口増加しており24000人を突破している。東北海道の根室振興局管内北部、釧路市から北東に約100km、根室市から北西に約80kmに位置する。南部は丘陵(根釧台地)が広がり、北部は知床半島から連なる山岳地帯を挟んで清里町に接する。土地は主に泥炭地と火山灰地であり、稲作・畑作などには向かない。最寒月である1月は平均気温-7.3℃で、最暑月の8月には平均気温が18.0℃になる。月間降水量は最多で9月の175.9mm、最少で2月の34.4mmが平年の数値である。当地は亜寒帯湿潤気候(Dfb)と太平洋側気候に分類できる。冬は積雪量が多く特別豪雪地帯である。市街地から北4kmの位置には中標津空港がある。開拓期にアメリカ人顧問ホーレス・ケプロンの提唱で作られた防風林が、別海町、標津町、標茶町に至る広域に存在している。この防風林は2001年に根釧台地の格子状防風林として北海道遺産に登録された。中心市街地は南北に延びる"大通"を境に東n条又は西n条と呼ばれ、東西に延びる"中央通り"を境に、北n丁目又は南n丁目と名付けられる。中心市街地であっても、一部の地区は先述の条を定めずに町名を指定している(例:丸山、東中、桜ヶ丘など)。市街地を中心に、西に計根別(けねべつ)地区、北西に養老牛地区・西竹地区・若竹地区、北に開陽地区、北東に武佐地区、東に俵橋地区、南に協和地区・豊岡地区がある。現在の中標津町域を含む東北海道は東蝦夷地と呼ばれ、1799年に江戸幕府が直轄政策を採るまで、松前藩の緩やかな支配とアイヌ民族による自治が続いていた。1821年に松前藩の支配となり、後に会津藩(1859年)・熊本藩(1869年)・佐賀藩(1870年)・仙台藩(1871年)と領主を替えていった(北海道の分領支配を参照)。最後に受領した仙台藩が廃藩置県により廃止されると、1872年には開拓使根室支庁の直轄となった。1869年に当地は標津郡と名付けられ、根室国の一部であるとされた。郡名の由来は、アイヌ民族が当地を流れる川(標津川)を「シ・ペッ」(アイヌ語で大きい川または本流の意味)と呼び、地名に使っていたことに由る。1879年に標津村が設置された。標津村には標津郡戸長役場がおかれ、標津村と伊茶仁村を受け持った。漁業の盛んな海岸部に比べ、内陸部は開拓が大幅に遅れていた。1901年(明治34年)6月に、標津村はチライワタラ原野に殖民区画を設定。中標津地区、俵橋地区、武佐地区などが区画開放される。しかしその10年後、1911年に俵橋地区へ入植者が現れるまで、現在の中標津町の区域内に入植する者は現れなかった。1911年の俵橋地区に続いて、1913年には武佐地区に入植が始まり、1916年には養老牛温泉が開発された。当時の交通状況は非常に悪く、開拓民は満足に経済活動が行えなかった。大正末期の大凶作も相まって、離農する者もいた。1924年に殖民軌道が敷設され、1930年から1937年にかけて鉄道省により標津線が敷設されると、状況は好転する。標津線の分岐点となった中標津周辺に移住する者が増え、他の集落より大規模な市街地を形成した。この人口増加には、1930年代の酪農転換の推進や北海道農業試験場根室支場(現・北海道立総合研究機構農業研究本部根釧農業試験場)の設置、そして海軍中標津飛行場の建設も一役買っている。1936年ごろには人口増加を背景に標津村役場を中標津地区へと移転する運動が興った。移転運動が村議会で否決されると、分村運動に形を変えることになる。第二次世界大戦で分村運動は鳴りを潜めたが、戦後まもなくの1946年に標津村から中標津地区を中心とした地域が分村し、中標津村が誕生した。村名は最大の集落である中標津地区(村内を横断する標津川の中流域に位置することに因む)から取っている。分村の前後には別海村西春別地区などから、計根別地区と合同で新村を設置しようと言う運動が興った。この運動は別海村の強い反対によって実現されることはなかったが、この運動には海岸部重視の政策を採ってきた別海村への不満が根底にあった。同時期に協和地区と豊岡地区の開拓民が中標津村への編入を希望したのも、西春別地区と同じ不満を抱えていたためである。1955年、協和地区と豊岡地区が町域に編入された。標津線が開通するまでは、別海・標津両村とも、海岸部に中心市街地を形成しており、内陸部に入植するものは少数派であった。1950年、町制を施行し、中標津町となった。1946年の分村時に9,644人であった人口も、町に昇格した1950年には11,569人に増加していた。1950年には公営住宅法の制定よりも早く町営住宅を建設するなど、積極的な施策を採ってきた。しかしそれらが町財政を圧迫、1955年に財政再建団体の指定を受けることになった。財政再建団体の指定は1962年まで続いた。1974年には新酪農村建設事業が始まり、機械化による大規模酪農が推進された。同年代から始まった乳価不振による経営破綻も見られた。町の発展に大きな役割を担っていた標津線だが、地域のモータリゼーションと所要時間の問題から利用者が減少し、1989年にバス転換され廃止された。その間に国道272号が開通し、根室中標津空港が開港するなど、新しい交通手段が確保された。2003年には根室管内4町の任意合併協議会が開催され、中標津町と目梨郡羅臼町との法定合併協議会に移行した。飛び地合併ではあったが協議は順調に進み、合併協定により新市名は「東知床市(ひがししれとこし)」にすることなどまで決まっていたが、翌2004年に中標津町が実施した住民投票で合併が否決された(合併賛成4,385票、合併反対6,810票)。条例では投票結果に拘束力を持たせていなかったが、町は合併を断念することを決定。合併解消を羅臼町に通知した。根室支庁中部の商業都市。そのほか、酪農と農業が盛ん。平成14年の小売販売額は530億円を数える(販売額は『2006地域経済総覧』東洋経済新報社)。平成12年の産業人口は、1次1,618人・2次3,006人・3次7,628人・公務402人、合計12,671人であった。酪農は主に乳牛。ほかに少数ではあるが肉牛、羊、豚、ヤギの飼育を行っている農家がある。農業は主に馬鈴薯、デントコーン、テンサイ、大根。町営牧場や北海道立総合研究機構農業研究本部根釧農業試験場(主に酪農担当)が存在する。幹線道路沿いに大規模小売店が4店舗出店しており(内、地元資本は2店)、近隣町村一帯を商圏に含んでいる 。1990年代までは中心市街地に商業施設が集積した。2000年代前半から国道272号(中標津バイパス)付近の開発が進み、中心市街地からの商業施設の移転もみられた。その一方で中心市街地の空洞化が近年問題視されている。市街地の西端には町により中標津町公設地方卸売市場が置かれ、青果、水産物を取り扱っている。町内に雪印乳業(現・雪印メグミルク)と中標津町農業協同組合の工場があり、生乳加工を行っている。2006年には雪印乳業により、チーズ工場の増設が発表された。総数 [単位: 人]各年10月1日現在平成24年度現在、計根別小学校区・中学校区は4路線のスクールバス(民間会社と契約)で、下校バスは早便遅便の2便対応となっている。中標津町は全域が釧路・根室三次医療圏および根室二次医療圏に属する。かつては標津線と簡易軌道が通っていたが、後に廃止となった。町内には以下の駅が設けられていた。鉄道廃止後はJR中標津トラベルセンターが設置されていたが、2012年3月末をもって閉店した。

出典:wikipedia

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