アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・中央アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(2011年現在、最下位はマラウイの47歳)。パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。自称国名は (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、 (ラテン文字転写 : "Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān" , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。公式の英語表記は、"Islamic Republic of Afghanistan"。通称"Afghanistan"。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は亜富汗斯坦。現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神は無し、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。紀元前10万年、旧石器の文化があった。紀元前7000年、新石器の文化があった。紀元前3000年〜紀元前2000年は、四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。紀元前2000年〜紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。紀元前12世紀、リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。紀元前6世紀、イラン人が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、(ヘラート)、(カンダハール, ラシュカルガー, クエッタ)、バクトリア(バルフ), (ガズニー), ガンダーラ(カーブル, ジャラーラーバード, ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が、すでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。紀元前5世紀頃、には古代民族が住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。この民族が10世紀頃までにパシュトゥーン人を形成した。紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した。紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配。紀元前130年頃にはメナンドロス1世が死んでインド・グリーク朝が分裂すると、サカ族がガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。サカ語は後のパシュトー語に強い影響を与えた。紀元前126年頃にシルクロードを旅した張騫により、シルクロード交易が既に行われていたことが知られている。紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅びた。1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。この頃ギリシア文化は影響力を失い代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになり、4世紀頃までバクト商人がシルクロード交易を掌握する。3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。576年頃、突厥と東ローマ帝国とが対サーサーン朝で同盟。580年頃ので東西に分裂。(588年 - 589年)でサーサーン朝を挟撃した。(619年)、(627年)。イスラーム教徒のペルシア征服(633年 - 644年)。8世紀初頭、イスラム帝国・アッバース朝のイスラム教徒軍がハザール・ソグディアナに侵攻し(、)、その支配下へ入る。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。995年、のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都に栄えていた土着のゾロアスター教国家、は滅亡した。1017年、ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。1040年、でセルジューク朝がホラーサーンを支配。1077年、ホラズム・シャー朝が独立。首都がウルゲンチからサマルカンドに遷都。10世紀以降、この頃からパシュトゥーン人の存在が確認され始める。1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。モンゴルのホラズム・シャー朝征服によってアラーウッディーンもカスピ海のに逃れ、死の前にジャラールッディーン・メングベルディーに後事を託した。ゴール朝の臣下だったシャムス・ウッディーンは、主君のルクン・アッ・ディーンが死去すると、モンゴルに臣従してクルト朝を開いた。シャムス・ウッディーンはに参加して、ジャラールッディーンを攻めた。ジャラールッディーンはとで健闘したが、に追いつめられてクルド人に殺され、ホラズム・シャー朝も滅亡した。14世紀以降、モンゴル系のチャガタイ・ハン国系諸王朝による支配を受ける。1370年頃、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1380年頃、ティムールがホラズムを征服し、サマルカンドのが東南アジアへスーフィズムを伝え、その弟子達ワリ・サンガによってチャンパ王国、マジャパヒト王国などイスラム化されたことは、後にムスリムの鄭和が海の交易路を開くことに大きな影響を与えた。シャー・ルフ(在位:1409年 - 1447年)の治世には、明の永楽帝に使節として鄭和が三度(1415年、1422年、1431年)ホルムズに来訪した。1470年、ティムール朝が分裂し、ヘラート政権に移行。1507年、ウズベク族のシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンが征服し、ティムール朝は滅亡させられた。1510年、サファヴィー朝イランのシャー・イスマーイールの侵攻で、シャイバーニー・ハーンが敗死、征服される。1514年、チャルディラーンの戦いでオスマン帝国のセリム1世がサファヴィー朝を破る。1526年、第一次パーニーパットの戦い。カーブルのバーブルがインドにムガル朝を建設。親政を開始したタフマースブ1世は(1532年 - 1555年)で、最盛期を迎えていたオスマン帝国のスレイマン1世による侵略をしのいだ。1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年、第二次パーニーパットの戦いでスール朝のヘームーを破る。1576年、タフマースブ1世が死去すると、サファヴィー朝ペルシアは後継者争いで混乱し、実権はタフマースブ1世の娘が掌握した。翌1577年に兄ムハンマド・ホダーバンデを傀儡として擁立すると、その妻にパーリー・ハーン・ハーヌムが殺害され、ウリヤも蜂起したクズルバシュによって殺され、無政府状態に陥った。こうした中で(1578年 - 1590年)が始まると、1579年にサファヴィー朝ペルシアが放った間者が、スレイマン時代からオスマン帝国を支えていた大宰相ソコルル・メフメト・パシャを暗殺することに成功してオスマン帝国は長期衰退期へ向かわせたが()、アゼルバイジャンとホラーサーンを失ってしまった。1588年にアッバース1世が即位すると軍制改革を断行し、クズルバシュから常備騎兵軍へ改組して、オスマンにも対抗できる軍隊を目指した。1598年にシャイバーニー朝ブハラ・ハン国へ遠征してホラーサーンを奪還。(1603年 - 1618年)では、アゼルバイジャンを奪還。この時期にアジアでの反オスマン同盟の相手を探していたイギリス、オランダ、フランスと同盟。ロバート・シャーリーの指導のもとで武器が近代化されると、1622年にポルトガルと戦ってホルムズ島を奪った()。1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。この頃、サファヴィー朝は最盛期を迎えた。が始まり、1629年にアッバース1世が死去すると、サファヴィー朝も衰退期へ向かった。1630年に(ドルベン・オイラト、瓦剌)のひとつトルグート部の指導者太師に率いられたカルムイク人は、同じオイラートのホシュート部に発した内乱を避けてヴォルガ河畔(ノガイ・オルダ)へ移住した(の成立、1630年 - 1771年)。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1689年、ロシア帝国と清朝が、「」やジュンガルとの清・ジュンガル戦争(第一次、1687年-1697年)で利害関係が一致し、ネルチンスク条約を締結した。1690年9月、ガルダン・ハーンがロシア製の大砲を擁して清に侵攻したが()、決着がつかずに帰還した。1696年に康熙帝がジュンガルを破り()、翌年にガルダン・ハーンは死去した。1709年、パシュトゥン人ギルザーイー部族のが反乱を起こし、カンダハールにを樹立。1719年、がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠()。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。1729年、アシュラーフがナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した()。ジュンガルのによる1723年のカザフ・ハン国への侵攻(「大いなる災厄()」)に続いて、による侵攻が始まり、耐えかねた小ジュズ()のアブル=ハイル・ハンが、1731年にロシアに臣従したのを皮切りに、中ジュズ()と大ジュズ()も相次いでロシアに臣従し、アブライ・ハーンが最後までジュンガルと戦った。ジュンガルがタシュケントとトルキスタンを占領。ロシア帝国の皇帝アンナの治世(在位:1730年 - 1740年)は、1734年に南ウラル地方に東方前線基地建設計画を立案、1735年に要塞都市を建設を開始した。1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。1743年、ロシアがオレンブルクに城郭都市を建設し、ジュンガルの反乱に備えた。1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族の族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。1757年、でパンジャーブが占領される。1759年、で清の乾隆帝がバダフシャーン地方(現バダフシャーン州、ゴルノ・バダフシャン自治州)に侵攻。1761年、第3次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とアワド太守などのムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラーター同盟と戦い勝利。パンジャーブの領土を拡張した。1771年にカルムイク人指導者が、父祖の地である東トルキスタンのイリ地方へ帰還したことがきっかけとなり、プガチョフの乱が勃発。が落とされそうになったが鎮圧に成功した。以降、オレンブルクは南下政策の拠点となる。1783年にエカチェリーナ2世はキュチュク・カイナルジ条約を破って「ノヴォロシア」(旧クリミア・ハン国領)を併合した(南下政策の始まり)。これをきっかけに露土戦争 (1787年-1791年)が勃発し、東方問題が顕在化する。1796年のガージャール朝に対するは、エカチェリーナ2世の死去によって中止された。ロシア皇帝に即位したパーヴェル1世は、体制刷新を図ってスヴォーロフらを解任したが、1798年12月に第二次対仏大同盟が結成されると、1799年2月にスヴォーロフを呼び戻した。フランス革命中の1800年から1801年頃にロシア帝国のパーヴェル1世がナポレオンと手を結んでイギリスの植民地であるインドへの遠征を企てた。1800年1月21日にスヴォーロフは再び解任され、5月18日に死亡した。しかし1801年3月にパーヴェル1世が暗殺され()、インドへの遠征は実施されずに終わった。ナポレオン戦争(1803年 - 1815年)期にも、ナポレオンとロシア帝国のアレクサンドル1世が共同してインドに侵攻する可能性が再び想定されたため、大英帝国はそれに対抗する意味合いで1809年にシュジャー・シャーと同盟した。ロシアへ侵攻したフランス軍は、焦土作戦と冬将軍によって衰弱させられ撃退されたため(1812年ロシア戦役)、インドへの遠征は杞憂に終わった。1823年、でドゥッラーニー朝がシク王国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1826年にイギリス東インド会社の情報将校は、モスクワを出発してコーカサスへ向かいコーカサス戦争の戦況を観察するとアジアへ向かい、1830年9月にはヘラートへ、1831年1月にはインドへ到着。1834年、国名をアフガニスタン首長国()とする。1834年にコノリーは旅行記を発表し、1840年に「グレートゲーム」という言葉を初めて用いた。1838年〜1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。シク戦争(1845年 - 1849年)では、第一次シク戦争(1845年 - 1846年)でを締結したイギリスはシク王国からカシミール地方を譲渡された(ジャンムー・カシミール藩王国の成立)。第二次シク戦争(1848年 - 1849年)で敗れたシク王国がイギリスに併合され、のとなり、()が夏の首都となった。1855年にイギリスはアフガニスタンとペシャーワル条約()を締結し、ガージャール朝の侵攻に対する両国の相互防衛関係を構築した。ナポレオン3世の仲裁でイギリスのストラトフォード・カニングとガージャール朝イランの(、)の交渉が行なわれた結果、が締結され、ガージャール朝はアフガニスタンから手を引かされた。1858年にイギリス領インド帝国が成立し、1864年にはシムラーがイギリス領インド帝国の夏の首都となる。その頃、ロシア帝国はオレンブルクを拠点として1830年代から1850年代にかけて南下政策の準備を推進し、1853年に将軍率いるロシア軍がヤクブ・ベクが守るアク・メチェト要塞(現クズロルダ)を占領。その後、ヤクブ・ベクの政権は、英露双方から緩衝国家とみなされるようになった。1865年にコーカンド・ハン国北部の経済都市タシュケントを征服。1868年にはサマルカンドを占領し、ブハラ・ハン国を保護国化した。1869年に帝政ロシア軍がカスピ海東岸に上陸。1873年にでヒヴァ・ハン国を占領。1873年に三帝同盟が締結され、ドイツ帝国・ロシア帝国・オーストリア・ハンガリー帝国が同盟した。1875年に清朝の欽差大臣に任命された塞防派(対露強硬派)の左宗棠は、ロシアと同盟していたドイツのテルゲ商会の支援で、1876年にヤクブ・ベクの乱を鎮圧してしまい、想定外の清朝によって緩衝国家が失われた結果、均衡が破られ中央アジア情勢はにわかに動き出すことになった。1876年にコーカンド・ハン国を占領。1877年にオレンブルクとサマーラ間の鉄道が完成。1879年に。1880年から1881年のでアシガバートを占領。1881年に()を締結し、ガージャール朝イランはロシアへの割譲に同意()。ロシアはザカスピ州を設置した。一方、第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のでアフガニスタン首長国もイギリスに敗れ、でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。1885年、ロシア帝国との。イギリスは巨文島でを起こし、ロシアを牽制した。1886年、フランシス・ヤングハズバンドが満州からゴビ砂漠を横断し、カラコルム山脈のを越えてインドに至る「中国-インド間のルート」を開拓。1888年、カスピ海横断鉄道が、カスピ海からアシガバート、ブハラを経てサマルカンドまでの路線が完成。1889年、フンザによる「ヤルカンド-インド間の交易路」への襲撃が激化。1890年、ヤングハズバンドが南下するロシア帝国の率いるロシア軍兵士にワハーン回廊ので拘束されそうになる事件が発生。1891年、が勃発。1893年、デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、。1897年、によってパシュトゥーン人の居住地域「」はデュアランド・ラインで分断され、が設置された。1901年、インド副王カーゾン卿によって、(、、略称:NWFP)が創設された。同年、小説『』が出版され、1907年にラドヤード・キップリングはノーベル文学賞を受賞。1950年の映画化『』によって「グレートゲーム」という言葉は万人の知るところとなった。第一次世界大戦中には中央同盟国が外交ミッションの(1915年 - 1916年)を行いアフガニスタンに独立を促した。ロシアのインド学者フョードル・シチェルバツコイによるは、英国諜報部員が、ボルシェビキとドイツによる中央アジアでの動きを察知し、チベット、ネパール、シッキム、ブータンを守った。一方のソ連もバスマチ蜂起(1918年 - 1924年)によって中央アジアの統治は大混乱となった。戦後にはイギリスが疲弊し、ソ連が混乱した好機を逃さず、1919年に第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国()とする。同年、オーレル・スタインがインダス川上流及び流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルクの世俗主義、民族主義、共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。王妃は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。タジク人の指導者は、イギリスから資金と武器の支援を受けて、カーブルを占領してアマーヌッラー政権を打倒した()。こうしてイギリスの横槍で近代化は失敗に終わり、女性の地位向上も実現されずに終わった。1929年、ナクシュバンディー教団のムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタンは「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもの独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にとして独立させた。しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫()に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとした為、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「独立運動」を起こし牽制した。ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進したが、1973年にイタリアで病気療養中にクーデターを起こされてそのまま亡命した。1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こして国王を追放し共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国()。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指しソ連に接近しイスラム主義者達を弾圧する。この時パキスタンに脱出したヘクマティヤールは(ヘクマティヤール派)を結成し、ラッバーニーらは(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し国名をアフガニスタン民主共和国に変更する。初代革命評議会議長兼大統領兼首相はヌール・ムハンマド・タラキー。これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する中、1979年2月にイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。1989年、ソ連軍が撤退した後国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンの(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟(マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。1997年、第一次でターリバーンが敗北1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。またケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めたが採択される。2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めたが採択される。2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト二名の自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOがアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバード アフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した。11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した。ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また、周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日〜6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)開催される。1500人以上の代表参加。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し、当選した。6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆、市民48人死亡、117人が負傷する。2003年12月14日〜2004年1月4日、憲法制定ロヤ・ジルガが開催され、新憲法を採択。北部同盟がターリバーン政権転覆に成功した後、かつての「独立運動」の地域が逆にターリバーンやアルカーイダの潜伏場所に変わっていた。2004年3月、ワジリスタン紛争が勃発。2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国発足。選挙を前にターリバーンの活動が活発化、南部を実効統治。2005年、総選挙・州議会選挙実施。2006年、ISAFの指揮権がNATOに移譲される。5月、ターリバーンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。2009年8月、大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。二位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定。2010年1月16日、下院は、カルザイ大統領が9日に再提示した第2次政権の閣僚候補17人について信任投票を行った。そのうち7人が信任され、10人が不信任となり、大統領は三度目の名簿提出を余儀なくされた。全閣僚中、外務、内務、国防、財務の四主要閣僚を含む14人は確定した。9月18日、下院議会選挙。97か所の投票所を含む多数のターリバーンによるテロ攻撃があったと発表。2011年5月2日、CNNが、ビン=ラーディンをアボッターバードで殺害した、と報道した。7月12日、カンダハール州議会議長(大統領の弟)が自宅で警護官によって暗殺される。7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退開始。9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自宅への自爆攻撃により死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示した(後にターリバーンが犯行を認めた)。12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都マザーリシャリーフ、南部カンダハール州などで、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出ている。警察はテロの可能性を指摘している。2014年9月29日、アシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。なお、大統領選の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も新設された首相格の行政長官に就任した。2016年4月、タリバンがカブールの情報機関、国家保安局を襲撃。9月5日午後2時半ごろ、カブールの国防省近くで自爆テロがあり、治安当局高官を含む35人が死亡、103人が負傷し、タリバンが犯行声明を出した。アフガニスタンは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は2004年1月16日に公布されたもの。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。ムスリム以外は大統領になることが出来ない。行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。当初首相職は設置されていなかった。しかし2014年のアフガニスタン大統領選挙において混乱が続いた為、首相格として行政長官が設けられた。BBCやNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという。立法府は二院制の国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。国民議会とは別に、国家主権、安全保障、憲法改正、反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議(ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成。閣僚と最高裁判所長官及び最高裁判所裁判官は、ロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導する(タジク人中心。北部同盟)、アブドゥルラシード・ドーストム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動、ハザーラ人主体のがある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンやヘクマティヤール派()等の反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在。三審制。純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、例えば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる、「名誉殺人」も行われているという。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしている、と報じられた。ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省(宗教警察)が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの、巡礼・宗教問題省の名で復活している。元々の国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部には若干平野部がある。最も標高の高い地点は、海抜7,485m のノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られている。気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリシャリーフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サラング峠の上方で1150ミリである。主要都市は、首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥーズ、南部のカンダハールなどである。アフガニスタンは34の州 (velāyat) で構成されている。IMFの統計によると、2013年のアフガニスタンのGDPは207億ドルである。一人当たりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの国々の中で最も低い。後発開発途上国の一つで、農業と牧畜への依存度が高い。経済は近年のターリバーンとアメリカ軍を主体とした多国籍軍との戦闘や内戦での戦闘による灌漑施設の破壊や、ソ連軍の侵攻などの社会的な混乱、旱魃により大打撃を受けている。また同じ理由から国民の多くに食料、衣料、住居、医療施設が不足している。現在は政府歳入の大半を国際援助に依存しており、国民の3分の2は、1日2ドル以下で生活している。旱魃地域ではアヘンの原料となるケシの栽培が盛んであり、政府が対策に当たっているが功を奏していない。幼児の死亡率は25.7%と高い。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢である。国の衛生状態は極めて悪い状態である。失業率も極めて高い国であり、ネパール、レソトなどと同じように、40%を超える。アフガニスタンは国家予算の約7割を国際支援に依存している。日本は2001年以降約58億ドルを拠出しており、アメリカに次ぐ第2の支援国である。2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。2012年10月22日、中国石油天然気集団がアムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産を初めて開始した。古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190km、ヒンドゥークシュ山脈山中の (Sar-i Sang)が主力。産出量は数トン程度。その他、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタン国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる。交通インフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行なわれていなかった為に現在も復興が行なわれている。なお、多くの先進諸国でみられる様な高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行なわれている。かつては国際列車カイバル鉄道(カブール〜パキスタン国ペシャワール間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。現在、アフガン公共事業庁の監督の下、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進んでおり、2011年8月20-21日に開業した。。また、首都カブールには1992年当時トロリーバスが存在したが、現在は存在しない。なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行なわれている他、カーブル国際空港をハブとした国営航空会社のアリアナ・アフガン航空や、その他の乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。主要民族 (2003年推計)その他にアイマーク人、ヌーリスターン人、、など。※言語と宗教は前田(2002) 14ページより公用語地方言語その他その他には、シーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒が存在する。イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツでキリスト教に改宗した人の死刑判決に対し国際的非難を浴び、この法律は撤廃され、現在は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーンは韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の二つがユネスコの世界遺産に登録されている。バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。
出典:wikipedia
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