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週刊プロレス

週刊プロレス(しゅうかんプロレス、"WEEKLY PRO-WRESTLING")は、ベースボール・マガジン社(BBM)が発行する週刊のプロレス専門雑誌。略称「週プロ(しゅうプロ)」。1955年創刊の月刊誌『プロレス』を原点とし、1983年より週刊化している。巻次(1年=1巻)・通算号数は、月刊時代よりカウントしている。また、週刊化以降の号数もカウントしている(通算号数・週刊化以降の号数は、ともに増刊号も含まれている)。1955年8月に『ベースボールマガジン』の増刊号『増刊プロレス』(ぞうかんプロレス)が発刊。11月に月刊誌『プロレス』(『月刊プロレス』〔げっかんプロレス〕と表記される場合もあり)として創刊(ただし、創刊 - 3号までは引き続きベースボールマガジンの増刊扱いだった)。1956年12月号(2巻14号)まで発行。1957年1月号(3巻1号)より、ボクシング専門誌の『ボクシング・マガジン』を吸収し『プロレス&ボクシング』(『月刊プロレス&ボクシング』とも)に改題。その後、1972年7月号(18巻8号)まで発行。その間、1964年10月号(40巻10号)まで発行された『ボクシングガゼット』(発行元:ガゼット出版社)を吸収。1972年8月号(18巻9号=237号)より、ボクシング記事が当時発行していた別冊『プロレス&ボクシング 別冊』(発行時期は#姉妹誌を参照)を改題する形で『ボクシング・マガジン』として分離(復刊)した事に伴い、『プロレス』(月刊プロレス)に再改題。1983年8月号(29巻9号=383号)まで発行。1977年5月号で、創刊300号を迎え、創刊号からの299号までの表紙を交えて日本プロレス界を振り返る特集記事を掲載した。1983年7月28日発売の8月9日号(29巻10号=384号)より週刊化され、『週刊プロレス』に改題(週刊化創刊号の表紙モデルは初代タイガーマスク)。週刊の初代編集長は杉山頴男が務めた。1986年1月28日号より、杉山により格闘技情報コーナーとして、『格闘技通信(かくとうぎつうしん)』を開始。同年秋には、増刊号(週刊プロレス11月7日増刊号)として創刊され、翌1987年春より、週プロより独立した月刊誌となる。1994年6月21日号(週刊化617号)で月刊時代を含めた通巻1000号を達成。先駆けて同年4月29日には、大田区体育館にてBBM主催の「週刊プロレス通巻1000号突破記念興行」として「大江戸炎上」を開催した。2000年に週刊化1000号を達成。同年12月、記念ムック『週プロ1000号anniversary - もうひとつのプロレス事件史』が「B.B.mook」レーベルで発行された。2009年11月18日発売の12月2日号で、週刊化1500号を達成。12月には、記念商品として、BBMの兄弟会社恒文社が1982年 - 1983年にかけて発行していたグラフ誌『プロレスアルバム』の初代タイガーマスクを特集した全3号を復刻・合本した書籍『プロレスアルバム タイガーマスク Special Edition』を発売した。日本のプロレス専門雑誌の中では一番の老舗。現在発売されている、日本唯一のプロレス専門週刊誌である。1990年秋以降、毎年1回(のちに12月前後)、日本のプロレス団体に所属する選手を取り上げた名鑑『プロレスラー写真名鑑号』を発行している。かつてのライバル誌で、2007年3月に休刊した『週刊ゴング』の発売元であった日本スポーツ出版社(実際にはネガや資料を保有していた元社長の前田大作)から、『月刊ゴング』時代からの全資料を譲受している。元々『ベースボールマガジン』の増刊号だった事もあり、長らく題号である文字の上に、「ベースボールマガジン」の文字(当時の同誌題字を横一列に並べたもの)が入っていた。1974年1月号より、週刊化後の2004年8月18日号=週刊1218号まで長らく使用される題字へ変更された際、ゴシック体による「ベースボール・マガジン」が入り、1982年まで続いた。1983年1月号より発行社名「ベースボール・マガジン社」の表示が入り、週刊化後は斜体で「週刊」の文字が入りその横に当時の社名ロゴ(1985年夏頃まで)→「BASEBALL MAGAZINE SHA」の文字(1985年夏頃 - 2004年8月18日号)が入った(2000年秋頃からは同位置に見出しが入ったため、題号の横へ移動したが、2003年1月7日号=週刊1127号から再び上に移動し、その上に西暦の数字が入った)。2004年8月25日号=週刊1219号より、現在の題字に変更。「プロレス」の横に縦書きで「週刊」の文字が入り、右下に「WEEKLY PRO-WRESTLING」の文字が入った。ターザン山本こと山本隆司が2代目編集長を務めた時代は、週刊プロレスの黄金期ともいえる。雑誌の部数としても、単一競技を扱うスポーツ専門誌としては異例の60万部とも言われる部数を獲得したと言われている。しかし、山本の好き嫌いでプロレス界に圧力をかけるような記事の数々掲載した事により週プロと多くのプロレス団体の間には軋轢が生まれた。このことが後述する取材拒否の原因ともなっている。当時の同誌は「現状打破のオピニオンリーダー」を雑誌のコピーとして掲げ、表向きはファン本位の誌面を謳ったが、同誌の報道姿勢は、批判がつきまとっていた。漫画家のいしかわじゅんは、こうした方針を「記事が偏向ぎみで、正しいジャーナリズムやマスコミの姿勢とは思えない」と自身の作品で批判している。これ以外にも、いしかわも関係していた週刊プレイボーイのコラム欄が同誌を槍玉にあげたり、北野誠と竹内義和が『SPA!』で持っていた連載企画『なにわ通信』で前田日明を迎えての対談が行われた際、山本編集長末期の編集姿勢について「(山本に)公開討論を申し込みましょう」という話が持ちあがったこともある。また漫画家の小林よしのりは、初期の『ゴーマニズム宣言』のなかで、やはり当時の山本の姿勢を批判している。こうした批判は高まりをみせ、1996年2月から3月までにかけて新日本プロレスなどから取材拒否を受け(後述)、これを機に山本は団体の他にも、週プロ読者やライバル誌であった『週刊ゴング』をも挑発するような紙面作りへと転換。このことから販売部数を著しく減じることとなった。この責任を取る形で、山本は1996年6月に編集長を退任し、ほどなくベースボール・マガジン社からも退社。山本退社後、編集長に就任した濱部良典は、専門誌(クラスマガジン)としての建て直しを図るとし、その結果、次第に山本色は払拭された。同時に後述の取材拒否も徐々に解除されていった。編集長は浜部、佐藤正行、本多誠と代わり、本多の異動後は半年間、長久保由治でクッションを置いて、2007年4月から佐久間一彦が就任したが、インターネットによる情報の氾濫などから部数の減少傾向に歯止めをかけられず、2009年には表紙や新聞広告に「インターネットにない正しい情報載ってます」というフレーズを出していたこともあった(その後、公式ブログの開設など、インターネットと連動した動きも見せている=外部リンク参照)。結局佐久間は2010年6月に退任し、後任として佐藤が6年ぶりに復帰した。本誌は、杉山編集長時代末期に全日本プロレスとジャパンプロレスから、山本編集長時代に数回にわたって各プロレス団体からそれぞれ取材拒否を受けている。全日本プロレス、ジャパンプロレス、リキ・プロダクション以外は本誌からオフィスの所在地などが削除された。ライバル誌だった『週刊ゴング』(2007年3月休刊)と紙面で舌戦を繰り返したことがある。特に1996年の新日本取材拒否の頃には「ゴングの記事など小学生にも書ける」という一般読者からの投稿をそのまま掲載したり、ゴング誌が取材を行わないで記事を書いているかのように匂わせるコラムが掲載、ゴング側の厳しい反論を呼ぶこととなった。また同時期には、長州力の週プロに対する批判意見を週刊ゴング1996年5月2日号にそのまま掲載した事(週プロ側曰く「ゴングは選手に喋らせたことをそのまま掲載するだけで掲載後の言葉の責任をとらない。自分達の手は決して汚そうとしない」)に端を発し、両誌面で激しいやりとりが行われた(長州へのインタビューを行ったり、週プロへの反論をゴングに書いたのは後のゴング編集長金澤克彦)。後に金澤はゴング誌における週プロへの反論の中で、「週プロは後に痛い目に遭う」と受け取れる発言を行い、金澤の発言通り山本は週プロ編集長を退任、週プロ自体の発行部数も数年間ゴングよりも下回る状態が続くことになった。ちなみに当時新日本プロレスでファイナルマッチを行なった馳浩が、近い将来全日本プロレス移籍の意思があることを初めて記事にしたのは週プロ(現編集長の佐藤正行の取材によるもの)であるが、。1995年4月2日、ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦『夢の懸け橋』が東京ドームで行われた。メジャー・インディー・UWF系・女子プロレスから全13団体が参加。ただし「各団体の純潔メンバーでのカードを提供する」といったコンセプトのもと、各団体間の交流戦は一切行われなかった。全13団体の選手が一堂に会す豪華さと、当時他団体と交流を断っていた全日本プロレスが他団体と同じ興行に参加するといったプレミア性が重なり、会場には6万人の観衆が詰めかけた。試合の他には大木金太郎の引退セレモニーも行われた(なお公に出ている記録の類は、週刊プロレスによる増刊号のみである。試合結果はこちらを参照されたい。No.135 SWS取材拒否以来のパラレル・ワールドが現出。)。だが、ベースボール・マガジン社を除くと、本興行を記事として報じたのは週刊ファイトのみであった。主催者であるBBM社が全ての発表を週刊プロレスのスクープ記事という形でのみ行い、「他紙誌を排除した私的な大会」との印象を他マスコミに与えたことが興行の黙殺に繋がったといわれている。この件について、当時のゴングの編集者は「一マスコミの興行の私物化以外に、それに伴う脅迫(出場しないと紙面での扱いを制限される等)のような概念が各団体にあったため、その独裁的な影響力などにも警鐘を鳴らすため」という意の懐述をしている。週刊プレイボーイからは「『戦後50年を問う』というコンセプトなのに馬場も猪木もいない。こんな大会をやった意味は何なのか」という意見も出た。なお、WARは、以前から同日同時刻に東京ドームと隣接する後楽園ホールでの興行を行うことが決定していたため、「夢の懸け橋」への参加要請を拒否。自らの興行を決行し、こちらも超満員の観客を集めた。週刊ゴングは「反『夢の懸け橋』」を謳って同大会をバックアップ(主催、共催としなかったのは、夢の懸け橋に対して「マスコミが興行をすること自体が問題である」と当初から公言していたため)。反ターザン山本の急先鋒(もしくはゴング寄り)とされた長州力の出場も相まって、さながら反週プロ大会の様相を呈していたという。週刊ゴングは、この大会に参加した長州の反山本的な発言を巻頭で掲載。長州はその中で「俺は(プロレスマスコミは)東スポ一本でいいと思っている」と語っている。このように、『夢の懸け橋』の成功は、反動として、週刊プロレスへの大きな反発を生んだ。新日本プロレスを始めとする複数の団体が、週刊プロレスを取材拒否を通告したり、山本が編集長を退任(前述)したのは、その翌年のことである。2010年になって山本は『夢の懸け橋』について「僕ではなくむしろ、当時の週プロの勢いに目をつけた、ベースボール・マガジン社の事業部の主導だった」と語っている。『夢の懸け橋』から14年が経過した2009年12月31日、山本プロデュースによる『夢の懸け橋2009〜大晦日プロレス祭り〜』が開催された。『週刊プロレス プロレスラー写真名鑑号』の名鑑ページを編集の上再録したムック。

出典:wikipedia

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