越 和宏(こし かずひろ、1964年12月23日 - )は、長野県王滝村出身の元スケルトン選手。長野県木曽高等学校出身。仙台大学体育学部卒。システックス所属。日本におけるスケルトンの先駆者でもあった。幼少期から自然に囲まれた環境で育ち、小学校では水泳と陸上の短距離選手でもあった。またスキーも達者であった。中学から本格的に陸上をやり始め、木曽高校時代は砲丸投の選手として活躍。仙台大学入学後はボブスレー部に所属したものの、練習の厳しさに挫折。一度部を辞め、4年生の秋から再入部する。その後、全日本に選ばれるも、1992年のアルベールビルオリンピック五輪選考会で敗退。その後、スケルトンに転向。スケルトン転向直後は日本国内に指導者が全く居らず、経済的にも苦労していたが、遠征中に他国の選手・指導者などのアドバイスを受けるなどして徐々に力を付けていくと、遂に1999年のワールドカップ・ケニックゼー大会で3位入賞、さらに翌シーズンの長野大会で初優勝した。日本人選手がソリ系種目の世界大会で3位入賞(表彰台登壇)・優勝をしたのは、いずれも越和宏が初めてである。このころ、越の会得した高度なカーブの滑走技術は「越ライン」と呼ばれるようになった。全日本スケルトン選手権大会では1998年から四連覇を果たす。競技で使うソリは当初外国製を使っていたが、越が世界トップクラスの選手に成長したことで販売してもらえなくなったため、2000年初めから和歌山県の金属加工工場「ニギテック」が製作したソリを使用している。2002年のソルトレイクシティオリンピックでは、1948年のサンモリッツ大会以来、54年ぶりに正式種目に復活したスケルトンの日本代表に選ばれた。このとき、日本選手団最年長の37歳でオリンピック初出場を果たした越はマスコミからは「親父の希望の星」と紹介されメダル候補として期待されていた。しかし競技前日からのコースへの積雪により、スタートダッシュで遅れても滑走技術で逆転するスタイルの越には不利な状況だったこともあり、結果は8位入賞にとどまった。ただし、ソリ系種目での日本選手の入賞は札幌オリンピック以来30年ぶりの快挙であった。2003年からシステックスに所属。スポンサーにフリーポート、日立港病院、クラブコング(松本整)、信州スドーがついている。また、松本整とはトレーナー契約を結び、年間を通じてトレーニングの指導を受けている。2006年のトリノオリンピックでは再び日本選手団最年長で代表選手となった。1回目の滑走でメダル獲得も狙えるタイム差の位置につけたが、2回目の滑走を失敗し結果は11位に終わった。この結果に越は自分の情けなさに涙を流した。トリノオリンピック終了後、越の進退が騒がれていたが、まだやり残した事があるとして現役を続行することとなった。2007年6月21日に、メインスポンサーであるシステックスのもと、田山真輔選手、高橋弘篤選手とともに日本で最初のスケルトンのクラブチーム・スケルトンクラブを設立した。2009年9月20日、全日本プッシュ選手権に出場し、順位こそ9位であったものの44歳にして自己ベストを更新した。競技終了後、バンクーバーオリンピックを最後に第一線を退くことを表明した。2010年1月、越はバンクーバーオリンピックの代表選手に決定した。45歳での冬季オリンピック出場は日本選手として史上最年長である。2月19日、20日にウィスラー・スライディングセンターでの競技に挑み、全4回戦を完走して20位に終わった。越は競技終了後に「限界値だと思います」と語り、現役引退の意向を示した。2010-2011年シーズンから日本ワールドカップチームのヘッドコーチをしている。2013年、2年前の宴会での不適切な対応により、連盟より訓告処分を受けた。1992-1993年シーズン1993-1994年シーズン1994-1995年シーズン1995-1996年シーズン1996-1997年シーズン1997-1998年シーズン1998-1999年シーズン1999-2000年シーズン2000-2001年シーズン2001-2002年シーズン2002-2003年シーズン2003-2004年シーズン2004-2005年シーズン2005-2006年シーズン2006-2007年シーズン2007-2008年シーズン2008-2009年シーズン2009-2010年シーズン
出典:wikipedia
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