ステイゴールド(英:、中: 1994年3月24日 - 2015年2月5日)は日本の競走馬である。引退後は種牡馬となった。1996年に中央競馬でデビュー。GI競走での2着4回を含む重賞競走での2・3着の多さから、勝利に一歩及ばない「善戦ホース」として人気を博す。しかし2001年末に引退レースとして臨んだ香港の国際競走・香港ヴァーズに優勝し、国際GI制覇を果たして有終の美を飾った。競走馬引退後は種牡馬として供用され、数々のGI、重賞勝利馬を輩出している。※現役中に馬齢の表記が変更されたため、競走名をのぞき馬齢は全て新表記を用いる。1994年、北海道白老町の白老ファームに生まれる。父は1989年の全米年度代表馬で、日本輸入後に1995年から12年連続のリーディングサイアー(首位種牡馬)となるサンデーサイレンス、母ゴールデンサッシュは中央競馬で5戦未勝利ながら、その全兄には快速馬として知られたサッカーボーイがいた。父にとっては3世代目、母にとっては2頭目の産駒であった。当時白老ファーム場長だった服巻(はらまき)滋之によれば、サンデーサイレンスよりもゴールデンサッシュの雰囲気が出た馬であったという。管理調教師の池江泰郎は、生後間もない本馬の第一印象を、「きりっとした小柄な馬で、かわいらしくてからだは薄かったけど、黒くて品があってバランスがいいと思ったね。動きがキビキビして見えた」と語っている。秋から系列のノーザンファーム空港牧場に移され、馴致および育成調教を開始。当初は大人しい馬であったが、人を乗せて走るようになると気性の激しさを見せ始め、しばしば後肢で立ち上がり、周囲の馬に乗り掛かろうとする悪癖を出していた。調教に向かう最中もしばしば立ち上がっていたが、ほぼ垂直に立ったままふらつくことがなく、それを同じ場所で何度も繰り返すなど、腰の強さも窺わせるものであったという。1995年、系列のクラブ馬主法人・社台サラブレッドクラブの出資募集馬となり、一口95万円×40口、総額3800万円でカタログに載せられ、間もなく満口となった。競走年齢の2歳となった1996年、「ステイゴールド」と命名され、滋賀県栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎に入った。馬名は映画『アウトサイダー』の主題歌に使用されたスティーヴィー・ワンダーの同名曲に由来する。1996年12月1日、阪神開催の新馬戦でデビュー。オリビエ・ペリエを鞍上に初戦は3着であった。続く2戦目では右前脚に骨膜炎を生じたこともあって最下位となり、いったん休養に入る。翌年2月の3戦目から、以後長く主戦騎手となる熊沢重文が手綱を取った。しかしこの競走では最終コーナーを曲がろうとせず、右回りのコースで左に旋回したため熊沢が落馬し競走を中止、競走後には競馬会より調教再審査を通告された。その後、左へ斜行しようとする癖を直すためハミの種類を変え、2戦の2着を経て通算6戦目で初勝利を挙げた。のち夏の間に条件特別戦で2勝を加え、陣営は秋の目標を3歳クラシック三冠最終戦の菊花賞に据えた。10月に京都新聞杯(菊花賞トライアル)で重賞に初出走したが4着となり、3着までに与えられた優先出走権を逃す。菊花賞には獲得賞金上位に回避馬が出たことで出走を果たしたが、当日は10番人気と評価は低く、結果もマチカネフクキタルの8着に終わった。年末には準オープン競走のゴールデンホイップトロフィーで2着となり、当年は3勝のみでシーズンを終えた。最終戦は抽選で騎手が選ばれるワールドスーパージョッキーズシリーズの一競走で、武豊が騎乗していたが、武によればステイゴールドは競走中に他馬へ噛み付きにいったといい、「競走に対する集中が全然できていない馬」という印象を抱いたと述べている。翌1998年も緒戦から3回連続の2着と惜敗を続けていたが、重賞のダイヤモンドステークスでの2着が含まれていたことから、獲得賞金規定によりオープンクラスに昇格。続く日経賞での4着を経てGI戦線に出走を始めた。GI競走において当初ステイゴールドは軽視されていたが、5月の天皇賞(春)でメジロブライトの2着(10番人気)、7月の春のグランプリ・宝塚記念でもサイレンススズカの2着(9番人気)と好走、GIにおける2戦連続の2着と、そこまでで通算8度の2着という成績から注目され、「シルバーコレクター」という異名を与えられた。秋シーズンも天皇賞(秋)(蛯名正義騎乗)でオフサイドトラップの2着、年末のグランプリ有馬記念でグラスワンダーの3着といった成績が続いた。1999年に入ると3着が増えたが、秋の天皇賞ではGIで4度目の2着となっている。陣営は試行錯誤を続けていたが、一方でステイゴールドはその惜敗続きの成績から、独特の人気を獲得していった。作家の高橋直子は伝記『ステイゴールド物語』において、人気の萌芽が見られたレースを1998年の宝塚記念として、次のように記している。熊沢はコンビを組んでいた期間のなかで、サイレンススズカに敗れた1998年宝塚記念を「一番悔しかったレース」、スペシャルウィークに敗れた1999年天皇賞(秋)を「一番ステイゴールドの強さを感じたレース」として挙げている。宝塚記念では、サイレンススズカに並び掛けたところで、同馬が最後のひと伸びを見せて3/4馬身及ばなかった。一方の天皇賞(秋)では、ハイペースの中での後方待機策が功を奏して直線で先頭に立ったが、さらに後方に控えていたスペシャルウィークにゴール寸前でクビ差交わされた。熊沢は前者について「ステイは完璧なレースをしていると思う。相手が強かったです」、後者について「レース中、何秒かは勝ったと思えた。結果的には負けたけれど、このレースが僕の中では馬の持ち味を引き出せた一番いいレースだと思ってます」と回顧している。2000年も緒戦からGIIを2・3・2着と勝ちきれず、天皇賞(春)で4着となった後、5戦目の目黒記念を前に熊沢は降板となり、以前一度だけ騎乗していた武豊が代役として迎えられた。池江泰郎は乗り替わりについて、「心を鬼にして、すべてをユタカ君に任そうと思いました」と語った。競走当日は、当年初戦のアメリカジョッキークラブカップで負かされていたマチカネキンノホシに次ぐ2番人気に推された。レースは重馬場ながら前半1000m通過が58秒7という速いペースで推移し、武は後方待機策を取った。最後の直線で追い込みを開始すると、残り100m付近でマチカネキンノホシを捉え、同馬に1馬身1/4差を付けて優勝。通算38戦目、3歳時に勝った900万下条件戦の阿寒湖特別以来、約2年8カ月ぶりの勝利で、陣営念願の重賞初制覇をサンデーサイレンス産駒重賞100勝目の区切りの記録で果たした。その間の連敗数は28戦、うち重賞での2着・3着がそれぞれ7回ずつあった。土曜日開催・雨天下のGII競走ながら、観客スタンドからはGIに匹敵する歓声と拍手が送られ、またモニター中継を行っていた中京競馬場でも拍手が湧き起こった。池江は「GIでもね、あんなのないものね。あんな温かいのは。僕もね、本当は拍手したかったんですよ。みなさんと一緒に。それぐらい感動しましたよ」、担当厩務員の山元重治は、「振り向くとさ、みんなが応援してくれているじゃない。喜んでくれているじゃない。それを見て涙が出て困ったよ」と語った。また武は、「土曜の、しかも雨降りのGIIなのに、クラシックレース並の大拍手で迎えられて、ステイゴールドの得難いキャラクターというものを肌で感じました。池江先生なんか感激で泣いてるんですからね。まわりの、そうした空気というものに一番の驚きを覚えましたね」と述懐している。一方で降板させられた熊沢は後に行われたインタビューで、この競走について次のように語っている。武は東京競馬場からの帰路において「熊沢さんは今どんな気持ちなんだろう」とその心中を慮り、「ちょっと顔を合わせにくい」という気持ちもあったと述懐しているが、熊沢から「意外なほど屈託のない声で」祝福の言葉をかけられたといい、「すごくいい気持ちになれました」と語っている。目黒記念の後は年内に5戦を消化したものの、宝塚記念(安藤勝己騎乗)の4着が最高という成績に終わった。一方、同年秋には日本中央競馬会が主催した20世紀の名馬選定企画「Dream Horses 2000」において、GI級競走の未勝利馬として最上位の34位に選ばれた。翌2001年初戦の日経新春杯(藤田伸二騎乗)で重賞2勝目を挙げると、3月28日には厩舎の僚馬トゥザヴィクトリーらと共にアラブ首長国連邦のドバイへ遠征、世界最高賞金開催であるドバイミーティングの一競走・ドバイシーマクラシック(GII)へ武豊を鞍上に出走した。当日、イギリスの大手ブックメーカーにおける単勝オッズは34倍でブービー人気のグループに入っていたが、レースでは中団待機で馬群の中を進むと、最後の直線では先頭を行く地元の1番人気馬ファンタスティックライト(前年のワールドシリーズ王者)を、ゴール寸前でハナ差交わしての優勝を果たした。この勝利は日本調教のサンデーサイレンス産駒として初の国外重賞初勝利であった。武は「日本でなかなか勝てなかったのに、こうやってステイゴールドが大きなところを勝ったこと、それから日本のサンデーサイレンス産駒がやっと海外で勝ったこと、これは日本の競馬の歴史を変えるできごとで、今後大きな意味を持ってくると思います」と語った。帰国後は、フランスで騎乗していた武に代わり後藤浩輝を新たな鞍上に迎え、宝塚記念に臨むも4着に終わり休養に入る。復帰戦の京都大賞典でも鞍上は引き続き後藤が務め、当時の最強馬であったテイエムオペラオー、前々年の菊花賞優勝馬ナリタトップロードらと対戦。最後の直線ではこの3頭の競り合いとなったが、ステイゴールドがナリタトップロードを交わして先頭に立った後、左に斜行してテイエムオペラオーと接触、これに挟まれる形となったナリタトップロードの鞍上・渡辺薫彦が落馬した。審議の結果、ステイゴールドは1位入線したものの失格となり、半馬身差で2位入線のテイエムオペラオーが繰り上がりでの1着となった。なお、ナリタトップロードはこの事故で右前脚に跛行を来たし、続く天皇賞(秋)を回避することになった。天皇賞(秋)では騎手が武に戻り、テイエムオペラオー、当年の宝塚記念に優勝していたメイショウドトウに次ぐ3番人気に推された。レースではスローペースの中を先行し、最後の直線で抜け出しを図ったが、またしても左側の埒にもたれかかる素振りを見せ、武が全く追うことができないまま7着に終わった。2戦連続で悪癖を出したため、続くジャパンカップではハミを替え、さらに左眼だけにブリンカーを装着して臨んだ。また競走前には、これが国内における最後の出走となることが発表された。レースでは中団を進み、最後の直線では真っ直ぐ走ったものの、先頭に立つまでには至らず4着に終わった。これが国内での最終戦となった。通算50戦目の引退レースとなったのは、香港・沙田(シャティン)競馬場で毎年12月に行われる香港国際競走のひとつ・香港ヴァーズ (G1) であった。国際レーティングで120ポンドの評価を得ているステイゴールドは、他馬と4ポンド以上の差がある抜けたトップクラスの存在であり、当日はオッズ2倍の1番人気に支持された。レースでは淡々とした流れの中で後方から6番手を進んでいたが、第3コーナーからランフランコ・デットーリ騎乗のエクラールがロングスパートを仕掛けて後続を引き離し、ここから流れが高速化した。武は無理にこれを追ってもステイゴールドの持ち味を活かせないと判断して中団に留まり、大きなリードを許したまま最後の直線に入った。直線では素早く馬群を抜け2番手に上がるも、残り200メートルの地点では逃げるエクラールから約5馬身の差があり、さらにステイゴールドは武が警戒していた向きとは逆の右側に斜行を始めた。ここで武が咄嗟に左側の手綱を締め直すとステイゴールドは態勢を立て直し、エクラールを急追。ゴール寸前で同馬をアタマ差交わして1着となり、引退レースで念願のG1制覇を果たした。またこれは同時に、日本の厩舎に所属する日本産馬として初めての国外の国際G1制覇ともなった。武はゴール前の追い込みを「まるで背中に羽が生えたようだった」と評し、またエクラールがドバイで破ったファンタスティックライトと同じ、青い勝負服を用いるゴドルフィンの所有馬だったことから、「どうもステイゴールドはゴドルフィンのブルーの勝負服を見ると燃えるみたい」とも語った。共有馬主のひとりだった競馬評論家の山野浩一は、「まるで一瞬ヴィデオがカットされて一秒くらい飛んだかのように、次の瞬間にはエクラールをとらえていた。いったいその間をどんなスピードで走ったのだろう。少なくとも私は過去にあのような瞬間的なスピードを発揮した馬を見たことはない」と感想を述べている。5年間に渡った競走生活の末、50戦の節目、引退レースでのG1制覇は、「まさに絵に描いたような大団円」(武豊)、「映画でもドラマでも、二度とは見られないようなシーン」(池江泰郎)、「ここまでドラマチックな幕切れはそうそうあるものではない」(『優駿』)など、史上希に見る出来事として称えられた。この勝利を評価され、ステイゴールドは当年国内においてJRA賞特別賞を授与された。また、生涯G1出走回数20、重賞連続出走回数36は、いずれもナイスネイチャをしのぐJRA記録である。当初は引退式の予定はなかったが、ファンからの強い要望があったことに加え、JRAからも陣営に要請が行き、翌2002年1月20日、京都競馬場で引退式が行われた。当日は香港ヴァーズで使用されたゼッケンのレプリカを着用し、場内には名前の由来となったスティーヴィー・ワンダーの「Stay Gold」が流された。競走馬引退後は北海道門別町のブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬となった。2年ごとにブリーダーズスタリオンステーションとビッグレッドファームを移動する契約となっており、ブリーダーズスタリオンステーションでは2002-2003年、2006-2007年、2010-2011年、2014年-2015年(死亡前まで)、ビッグレッドファームでは2004-2005年、2008年-2009年、2012年-2013年に種牡馬生活を送った。2006年からはアドマイヤマックスと互いの供用場所を交換する形となっているが、2013年シーズンはビッグレッドファームで初めて共に供用された。産駒は2005年よりデビューし、初年度産駒からソリッドプラチナムがマーメイドステークスを制して、産駒の重賞初勝利を挙げた。また次年度産駒からドリームジャーニーが朝日杯フューチュリティステークスを制し、産駒のGI初勝利を挙げた。その後もドリームジャーニーの全弟オルフェーヴルが2011年に史上7頭目となる牡馬クラシック三冠馬となった。2012年には牡馬二冠を制したゴールドシップなどの活躍馬を輩出し、サイアーランキングで自己最高の3位となった。2013年にはレッドリヴェールが阪神ジュベナイルフィリーズで優勝し、産駒初の牝馬のGI制覇となった。2013年の種付料は、受付窓口となるサラブレッド・ブリーダーズ・クラブからの発表で、受胎条件のみで800万円にまで値上げされるも、すぐに満口となるなど、サンデーサイレンスの後継種牡馬の一頭と目されている。2014年終了現在、中央競馬における産駒のGI競走19勝はサンデーサイレンスの後継種牡馬の中ではディープインパクトに次ぐ2位である。ステイゴールド自身は古馬になってから活躍したが産駒は早くから活躍する馬も多く、産駒のJRA重賞63勝のうち、5勝が2歳馬、26勝が3歳馬(3歳限定重賞=21勝、古馬混合重賞=5勝)によるものである(2014年11月2日現在)。また、産駒は2009年-2014年の6年間で有馬記念が4勝(ドリームジャーニー1勝、オルフェーヴル2勝、ゴールドシップ1勝)、宝塚記念が5勝(ドリームジャーニー、ナカヤマフェスタ、オルフェーヴル各1勝、ゴールドシップ2勝)と、グランプリレースに強いのも特徴である。産駒の中では、母の父がメジロマックイーンである産駒が良績を残しており、ドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップ、フェイトフルウォーといった活躍馬がそれにあたる。乗馬として供用されていたメジロマックイーン産駒の牝馬(ミツワオーロラ)がステイゴールドと種付けする目的で買い戻される事例も出ている。種牡馬としての活躍を受け顕彰馬選定記者投票でも票を集め始めており、オルフェーヴルがクラシック三冠を制した翌年の2012年には初めて3票を、ゴールドシップがクラシックで活躍した翌年の2013年には4票を獲得した。2015年2月5日、繋養先のブリーダーズスタリオンステーションでの種付け後に異常をきたし、輸送先の社台ホースクリニックにて死亡した。死因は大動脈破裂。勝ちきれなかった頃には、「華々しいスタートダッシュを持つわけではない、鋭い切れ味を持つわけでもない」(『優駿』2000年9月号)と目立つところがなかった。しかし2001年に入るとスローペースからの瞬発力勝負に対応できるようになり、重賞2勝目の日経新春杯では最後の600m(上がり3ハロン)を推定34秒4、失格となった京都大賞典では同33秒8という優れた脚力を見せた。ライターの河村清明は、2000年シーズンを終えた時点で43戦という「ずっと重賞を走り続けた馬としてはめったにないほど」の戦績を重ねながら、競走生活の晩年に急速な成長を遂げたことについて、「一般的に考えるなら、豊富すぎるキャリアゆえ、それ以降の上がり目は望むべくもない。7歳馬ステイゴールドの変身はまさに驚異というほかはない」と評した。武豊はステイゴールドの引退に際し、「ステイゴールドは、今がまさに競走生活のピークじゃないですか。種馬になるのも大事だけど、ボクは乗り役だから、あれほどの競馬ができる馬を種牡馬として奪われたような、そんな寂しさをひしひしと感じているんです。思い出をありがとう、と素直に言える日は、もう少し後からになりそうです」とその引退を惜しんだ。ステイゴールドを種牡馬として高く評価したビッグレッドファーム代表の岡田繁幸は、ステイゴールドの良さは「回転の良いフットワーク」とそれを支える筋肉の柔らかさにあるとしている。岡田は巷間にあった「ステイゴールドはステイヤー(長距離向きの馬)である」という評価に対し、香港ヴァーズを例に挙げて異を唱え、「あの驚異的な瞬発力はむしろミドルディスタンホースと言えるのではないでしょうか。いかにもサンデーサイレンス産駒らしい馬だと思いますね。ただ、ステイゴールドはスタミナもあるので長い距離になってもあの瞬発力を温存できますし、スタートがそれほどうまい馬ではなかったので、厩舎でも中距離を使わなかっただけでしょう」と述べている。一方、武豊は2000年秋の天皇賞で7着と敗れた敗因として、位置取りの失敗のほかに距離の不向きを挙げ、「根本的に2000メートルは距離的に短いのではないかということも感じていました。忙しい競馬は似合わない、根っからのステイヤーなんですよ」と述べている。しばしばレースの障害となった左への斜行癖に対して、厩舎では日々の調教や馬装に様々な工夫を凝らし、その矯正に努めた。ハミ吊りや片面ブリンカーといった装具の工夫に加え、調教においてもコースを歩くときまで右寄りを徹底し、左に寄る素振りを見せれば叱り、素直に歩けば褒めるということを習慣づけていた。調教助手を務めていた池江泰寿は、ステイゴールドの心理について「あの馬は、左に行ったら楽ができると思い込んでいたんです。競馬では、とにかく一所懸命走らず、どこかでやめる機会をつねに窺っていた(笑)。ハミをさらってグッと左にもたれたら、騎手が追えなくなり、直線で全力疾走せずに済むのを分かってたんですよ」と分析している。武はステイゴールドの引退式において、「この馬は乗る立場としてはむずかしい馬でした。最後までつかみどころがなく、ずっと考えさせられましたね」と述べた。サラブレッド競走馬の平均体重が470kg程度あるのに対し、ステイゴールドは最も重かったときで436kgと、小柄な体躯の持ち主であった。生まれた頃は他馬と同じ程度の体格だったが、成長が鈍く、じきに自分より小柄だった馬にも追い抜かれていった。これはゴールデンサッシュの産駒に共通して見られる成長過程だった。熊沢重文によれば、「大人のからだに変わってきたのが6歳の後半」だったといい、「ほんとうに大器晩成だったんだろうな」と述べている。また厩務員の山元重治は「骨格が牝馬みたいやった」と評しているが、調教助手を務めていた野村功は、体重60kgある人間が騎乗して調教を課すと失速する馬が多いなか、ステイゴールドは小柄だったにもかかわらず失速せずに走る馬力があったとしている。また、ほとんど休養をはさむことなく50戦を走り抜いた頑健さに対する評価が高く、池江泰郎は「『無事是名馬』を地でいくような、素晴らしい馬」、岡田繁幸は「ほんとうに偉大なことで、よほど柔らかい筋肉を持っている証拠です」と述べている。共有馬主を統括する社台サラブレッドクラブ代表の吉田晴哉は、「この馬のすごいところは、引退の話を出すスキを決して見せなかったところですね」と語り、毎回の出走予定をきっちりとこなし、勝てずとも賞金は必ず稼いでいたステイゴールドを「クラブで持つ馬としては理想的」、「(ステイゴールドのような馬は)いません。うちのクラブだけじゃなくて、競馬界全体を見てもほとんどいないんじゃないですかね。信じられない存在です」と評している。非常に激しい気性の持ち主であり、池江泰寿は「肉をやったら食うんじゃないかと思ったほど凶暴だった」とし、調教助手の池江敏行は、馬房の前を通るだけで突進してきたことから「猛獣」と評している。熊沢重文は「馬場へ出る前の運動でも、立つ、蹴る、噛むと悪さの連続。振り落とされるなんてのは特別珍しいことじゃないけど、乗るときに回し蹴りが飛んできたり、噛まれるのを心配したりなんて馬はやっぱりそんなに数多くいるものじゃないです」と述懐しており。その調教では近付いてくる馬がいると立ち上がって威嚇するため他厩舎から避けられていた。白老ファーム場長の服巻滋之は、こうした激しさの由来をステイゴールドの母の父ディクタスに求めている。日々の世話をしていた山元重治は「猛獣ではないよ。扱えないってほどの馬じゃない」と述べているが、それでも手を焼いたといい、「とにかく『自分が一番エライ』ということをいつもいつも主張している馬」、「自分のペース、自分のやり方に徹底してこだわり、やりたくないことは頑としてやらない強情さは、引退まで変わりませんでしたね」と述懐している。また、熊沢は乗り手の立場から「総合してみると、おだてる、という意識をもって乗ってないとだめだった。ダメ、それしちゃダメ、とか表現するのではなくて、そうそう、そうそう、それでいいんだよ、って感覚ですね。ソッポ向かれたらお手上げだったんで」述べ、その性格については「僕らが要求したことに対して、それは譲れる、それは譲れないっていうのをちゃんと表現してくれるわけ。そういう意味では、基本的には扱いにくい馬なんだけど、わかってやれば、中途はんぱな馬よりは扱いやすい。わかります?何がしたい、どうしたらいいのか分かる馬だけに扱いやすい。だからみんな入れ込んでしまう」と語っている。
出典:wikipedia
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