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エフェソの信徒への手紙

『エフェソの信徒への手紙』(えふぇそのしんとへのてがみ)は新約聖書中の一書。伝承では紀元62年ごろ、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアのエフェソ(エフェソス)のキリスト者共同体にあてて書いたものであるという。この伝承が本当なら『コロサイの信徒への手紙』(コロサイ書)や『フィレモンへの手紙』(フィレモン書)と同じ時期に書かれたことになる。現代では文献学の見地から本書簡の著者がパウロであるかどうかは疑問を持たれているが、聖書学者ウィリアム・バークレーはたとえパウロの名を借りたものだとしても『エフェソ書』は「使徒書簡の女王」といえるほどのものだといっている。日本語では『エペソ人への手紙』、『エペソ人への書』、『エフェソ信徒への手紙』、『エフェソ書』などと表記されることもある。また脚注などでは、とりわけ章節を伴う出典参照において、しばしば「エペソ」「エフェソ」等と略記される。『エフェソ書』は特定の問題や状況に対処するために書かれたというわけではなく、パウロが自発的にエフェソスの共同体への愛情を示すものとして書かれたとされている。彼は共同体のメンバーが「キリストの教え」に従って生きることを望んでいるが、『ローマの信徒への手紙』(以下ローマ書)とは異なり、『エフェソ書』ではパウロの救済に関する思想が書かれているわけではない。むしろ、『エフェソ書』では救いと教会の関係が語られている。『使徒言行録』(『使徒書』)18:19-21にはパウロが三ヶ月ほどエフェソに滞在したことが書かれている。パウロがエフェソにつくった共同体はアポロ、アクイラ、プリスキラといった人々が引き継いだ。翌年、パウロが二度目にエフェソを訪ねた時、彼はエフェソが小アジア西部における重要な共同体であると考え、同地に「三年間」滞在したという。パウロはエフェソの共同体について「大きな門が開かれている」(1コリ16:9)というほど重視し、パウロの仲間たちの熱心な働き(『使徒書』20:20および20:31)によってこの共同体は発展した。エフェソから「アジア全域に」(『使徒書』19:26)福音が伝わったと聖書はしるしている。パウロは最後のエルサレム訪問の途上でミレトスに立ち寄った折にエフェソの共同体の指導者たちを招いている。そこでもうエフェソを訪れることはできないだろうと考えたパウロが指導者たちに最後の挨拶を送った。(『使徒書』20:18-35)『エフェソ書』の以下の箇所の表現は、『使徒書』のミレトスにおける別れの言葉に由来すると思われている。本書は以下のように始まっている「神のご意志によってイエス・キリストの使徒となったパウロが、エフェソの聖なる人々、イエス・キリストを信じる人々に手紙を送ります。」(エフェソ1:1)そのためこの手紙のあて先がエフェソの共同体であり、著者がパウロであるとされてきた。しかし、近代以降の聖書批評は、以下のような問題点を明らかにした。このような矛盾を解決する説明もいくつかあげられる。たとえば以下のような説がある。もしパウロが著者であるとするなら、パウロが最初にローマで投獄された時期に書かれたということになる。すなわち紀元62年ごろ、パウロがエフェソの指導者たちとミレトスで別れてから四年後のことになる。最初に触れたように『コロサイの信徒への手紙』などと異なり、『エフェソ書』は護教的(正しい教えを守ること)な目的でかかれたものではない。『エフェソ書』は(あるいは小アジアの複数の教会に送られた可能性もあるが)パウロの教えのまとめ的なものである。主なテーマはキリストに従うものの共同体をつくることが父なる神の意志にそうものだということである。ローマ書ではパウロはイエスの義による義化という視点から描いているが、『エフェソ書』ではキリストとの一致という視点が重視されている。『エフェソ書』のスタイルやテーマは『コロサイの信徒への手紙』とよく似ている。『エフェソ書』とコロサイ書の並行箇所は以下のようなものである。この並行箇所については以下のような説明がされてきた。まず、もし本書簡がパウロの手によるものなら『コロサイ書』と同時期にかかれたものである。初めにコロサイの共同体の特別な問題を扱った書簡を書き、次にエフェソを初めとするいくつかの共同体宛にもっと一般化した内容の手紙を書いたのだろうということである。次にもし、この書簡の書き手がパウロでないとすれば、単にパウロ的な手紙を書くために『コロサイ書』を参考にして書いたのだろうということになる。

出典:wikipedia

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