パベル・ネドベド(, ; 1972年8月30日 - )はチェコ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。オフェンシブなポジションでの出場が多い。日本語表記はパヴェル・ネドヴェド、ネドビェド、ネドヴィェドと書かれる場合もある。イタリア1部リーグセリエAのラツィオ、ユヴェントスなどに所属していた。パベル・ネドベドはチェコスロバキアの首都プラハで生まれスカルナで育った。父バツラフは、当時チェコスロバキア2部リーグに所属していたヘプのサッカー選手で、クラブの練習が終わると息子のパベルにサッカーを教えていた。14歳となった1986年からスコダ・プルゼンという地元のクラブに入団。デュクラ・プラハというクラブを経てチェコ屈指の名門スパルタ・プラハに入団。当初はチームに馴染めず、監督のカロル・ドビアシュからも低い評価を受けていたが、周囲の視線を気にせず着実に力をつけたネドベドは2シーズン目には主力としてリーグ連覇に貢献。更に1994年6月のアイルランド戦で代表デビューを果たし、EURO '96にも出場。チームの顔は同僚のカレル・ポボルスキーだったが、着実なプレーで欧州におけるネドベドの評価を高めた。EURO '96での活躍が認められ、同年セリエAのラツィオに移籍。当時のラツィオは中堅クラブを脱するか否かのステージにいたが、毎年活発な選手補強を行いシニシャ・ミハイロヴィチやフェルナンド・コウト、セバスチャン・ベロン、エルナン・クレスポといった選手を揃えて一躍ビッグクラブ並の布陣となる。その中でネドベドはスタミナを武器に大車輪の活躍を見せ、1999-2000シーズンにリーグ優勝を果たした。2000-01シーズン終了後、クラブ側は長期の契約延長をネドベドに提示し、彼もこれを受け入れ合意に至ったが、会長のがオーナーを務める大手食品会社チリオの業績悪化の影響で、チームは急きょ資金調達と高額な年俸を支払っている主力選手の放出を余儀なくされた。ネドベドも例外ではなく、休暇から戻ってきたネドベドは急転直下、ユヴェントスへの移籍を言い渡された。この一連の流れはチームの顔であったアレッサンドロ・ネスタを手放す程の主力組の大放出劇であった。2001-02シーズン序盤ユーベは低迷しており、ネドベド自体もフィットしていないと評され、優勝争いからも脱落すると思われた。しかし、シーズン終盤を迎えるとこのシーズン最強と評されたインテルを抜き去ってスクデットを獲得。決してネドベドの貢献が大きかったとは言えないが、この勢いをベースにした手ごたえは翌シーズンに発揮されることになった。2002-03シーズン、ユーベの大黒柱と化したネドベドは、故障者が続出して危機的なチーム状況の中ほとんどの試合にフル出場し、シーズン終盤には「バロンドール間違いなし」と批評家から評価を受ける程の活躍ぶりを見せた。チームも2年連続のスクデットを獲得した。そのシーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、ユヴェントスは決勝に進むも、ネドベドは準決勝のレアル・マドリード戦でイエローカードをもらい累積2枚目となったため、決勝には出場することが出来なかった。なお、ユヴェントスはPK戦の末にACミランに敗れ優勝を逃した。2006-07シーズン、ユーベは不正疑惑の為にセリエB降格の処分が下され、主力だったカンナヴァロ、テュラムらが次々とユヴェントスを去り、自らにも多くのクラブからオファーがきた。シーズン終了前は引退も口にしていたネドベドだったがデル・ピエロ、ブッフォンに続き、「世話になったクラブに恩返しをしようと思う」と現役続行と残留を表明、チームを1シーズンで再昇格させる原動力となる活躍を見せた。2007-08シーズン、新加入のチアゴにレギュラーの座を脅かされていたが、35歳という年齢ながらレギュラーを死守した。2009年2月25日、2008-09シーズンをもって現役を引退することを発表した。ユヴェントスでスポーツディレクターを務めていたが、2015年10月、ユヴェントスの副会長に選ばれた。デビュー戦は前述の通り、1994年6月のアイルランド戦。2002年日韓W杯欧州予選では、カレル・ポボルスキー、ヤン・コレル、ロシツキー、ヤンクロフスキらチェコ代表史上最高と言われるタレントらと共にプレーオフまで進出するが、闘将マルク・ヴィルモッツを擁するベルギー代表にホーム、アウェイと立て続けに敗れ、W杯出場のチャンスを逃す。EURO2004はチェコ代表のベスト4に貢献したが、準決勝のギリシャ戦で足を負傷し交代、チェコ代表はその後延長戦で敗れた。EURO後、「代表とクラブの両方を掛け持ちできなくなった。代表で怪我をすればクラブに迷惑がかかる。」とコメントし一度代表を引退していた。ネドベドのいないチェコは2006年ドイツW杯最終予選でオランダに1位通過を許し、プレーオフに回ることになった。母国のワールドカップ出場のためネドベドはプレーオフ2試合限定で代表に復帰すると宣言。ノルウェーとのプレーオフを制し、チェコはスロヴァキアとの分裂後初のW杯本大会出場権を獲得。その後、代表引退をワールドカップ敗退後まで延長し、5月15日本選出場メンバーに選出。グループリーグ3試合全てにフル出場を果たしたが、FWのヤン・コレルの怪我やミラン・バロシュの不調、さらに快勝したアメリカ戦以外の2試合は共に前半の早い段階で退場者を出し数的不利になったこともあり決勝トーナメント進出は果たせずに敗退した。2006年8月15日、翌日に行われる国際親善試合、対セルビア戦を最後に代表引退を発表した。前半終了間際で交代をしたときは目に涙を浮かべながらベンチに下がった。
出典:wikipedia
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