ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調() 作品102は、ヨハネス・ブラームスが1887年に作曲した、ヴァイオリンとチェロを独奏楽器とする二重協奏曲である。交響的でありながら独奏に重音を要求する難曲である。ブラームスの作曲した最後の管弦楽作品であり、その後ブラームスはピアノ曲や歌曲、室内楽曲の作曲に専念することになる。1886年に最後の交響曲となった第4番を完成した後、ブラームスは第5番と第6番の作曲の計画、及びその構想を練っていた。しかし下記の事情で協奏曲へと変更する。当時、ブラームスは数十年来の友人であり著名なヴァイオリニストでもあったヨーゼフ・ヨアヒムと不仲となっていた。原因は、妻アマーリエの不倫を疑い離婚したヨアヒムに対してアマーリエを擁護するためにしたためた手紙が、ヨアヒムの離婚訴訟にアマーリエ側の証拠品として提出されたことだった。和解のきっかけを作るため、ブラームスは相互の硬化した感情を、ヨアヒムの意見を求めながら作曲して軟化させようと目論んだことが、交響曲から協奏曲に変えた理由であった。ブラームスは作曲の際、独奏楽器(ヴァイオリンとチェロ)の扱い方についてヨアヒムから忠告と助言を受けることを申し出、ヨアヒムはこの申し出に応じている。作曲はスイスのトゥーン湖畔にあるホーフシュテッターに滞在中の1887年7月頃に着手し、先の『交響曲第5番』から『二重協奏曲』へ変更する。ふたつの楽器が対話し、オーケストラにも同様の役割を与えたバロック音楽時代における合奏協奏曲を念頭に作曲され、またチェリストのの助言も得て作曲を進め、同年8月初旬に完成させた。1887年9月にドイツのバーデン=バーデンのリヒテンタールに近いクララ・シューマンの邸宅で、ヨアヒムとハウスマン、ブラームスのピアノによる試演が行われた後、10月18日にケルンのギュルツェニヒザールで2人の独奏、ブラームスの指揮によりオーケストラで正式に行われた。しかし初演は成功とは言えず、賛否両論半ばであった。批評家のエドゥアルト・ハンスリックは、この編成で協奏曲を作曲したことに批判的であった。期待したこととは裏腹に、ブラームスは初演の評価に失望し、この後二重協奏曲を再び作曲しようと考えてスケッチを始めたと伝えられるが、結局実現はせず、そのまま頓挫した。1888年8月31日に、楽譜の出版のために弦楽のパート譜(最終稿)をジムロック社に渡し、その校正した楽譜を9月の試演に間に合わせるよう依頼している。2月16日には独奏譜とピアノ・スコアの草稿が送られ、3月頃にオーケストラ総譜も送っている。総譜とパート譜は1888年6月に、ピアノ・スコアは1888年5月にそれぞれ出版されている。約35分(各楽章、18分、8分、9分)全3楽章から構成される。
出典:wikipedia
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