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素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町大字戸手にある神社。式内社で、備後国一宮を称する。旧社格は県社。社伝によれば天武天皇の治世であった7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる。その後、遣唐使であった吉備真備が唐から帰国した後の天平6年 (734年)に備後から素盞嗚命を播磨の広峯神社に勧請したとされる。『釈日本紀』巻7(卜部兼方、鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文(奈良時代か)の「蘇民将来」説話に「疫隈國社(エノクマノクニツヤシロ)」とあるのが当社とされるが、本来は摂社である「蘇民神社・疱瘡神社」であるとする説もある。『延喜式神名帳』には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記載されている。後に神仏習合によって仏教系の神である牛頭天王を祭神とするようになり、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた。本堂である本地堂(現 天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた。一般に牛頭天王の本地仏は薬師如来であるが、当社の観音祭祀の理由は不明である。また脇侍に不動明王と毘沙門天が祀られた。「江熊(エノクマ)祇園牛頭天王社」が正式な社名であるが、天王社、祇園社などとも呼ばれるようになった。明治の神仏分離により、神社の道を選んだ当社の別当僧は還俗して神官となり、祭神は本来の素盞嗚尊に改め、現在の社名に改称した。入母屋造檜皮葺。備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる。屋根は視線方向の棟の中央で一段高く別棟が直交している。千木は正面・左・右・奥の4つ、鰹木は正面と奥の千木の根元にひとつずつ、直交する棟に五つ。建物の平面は大社造りと同じくほぼ正方形。戦国時代に当社の南西にそびえる城山(じょうやま/標高199m)一帯に築かれていた山城相方城から、城門2棟と櫓が移築されたとされる。そのうち櫓は1970年代の火災で焼失したが、城門は境内の北側を通る奈良時代の旧山陽道に面して現存する。現存する戦国期の山城の城門としては最古級とされる。平成の大修理では、この城門にも補修が施された。本殿の南側に長屋式で建つ。一説では、備後國風土記・逸文の舞台「疫隈國社」とは、素盞嗚神社の本殿のことではなく、摂社であるここが「疫隈國社」であるとされる。因みに当社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれる。境内の北西、広場に面して瓦葺き入母屋造りの仏式の建物。元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂であった。江戸時代中期の再建とされ、祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは全国でも唯一である。明治維新後の廃仏毀釈の際、祭神に菅原道真を奉祀して守り通された。その後時を経て、屋根は抜け天井は朽ちて甚だ老朽化が進み倒壊が危惧されたが、平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)。ここに祀られていた複数の仏像は明治期に周辺の真言寺院に散逸したが、後の調査で、本尊・聖観世音菩薩は、福山市内の某真言寺院に現存していることが判明した。祇園例大祭(祇園祭典、現地では「祇園さん」と呼ぶ)は、福山市の新市(しんいち)地区・戸手(とで)地区と相方(さがた)地区、府中市の中須(なかず)地区の4地区の氏子により年に1度行われる。

出典:wikipedia

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