1931年5月、首相であり立憲政友会の総裁であった犬養毅が武装海軍将校らに殺害されたあと(五・一五事件)、元老の西園寺公望は、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫から政党内閣の拒絶の意を伝えられ、また親米派の昭和天皇の意向を受けて、次期首相の推薦についての調整を行った。その結果、シーメンス汚職事件で引責辞任した元海軍大臣で、朝鮮総督の時期に子爵の爵位を授与されていた穏健派の斉藤実が首相として推薦されることとなった。斉藤実は斉藤内閣において、総理大臣と外務大臣を兼任した。犬養毅総裁及び首相を失った立憲政友会はこのとき、テロによる内閣総辞職の後の首班には同じ政党の党首を推薦するという元老の慣例を考慮し、元老と天皇による次期党首の次期首相指名という大命降下を期待していた。ここで、右派の森恪らは次期総裁・首相として、右翼とつながりを有しナチズムやファシズム、共産主義など外来思想を危険視していた司法官僚の平沼騏一郎を押していたが、立憲政友会は5月17日、鳩山一郎の義弟である鈴木喜三郎を選出していた。斉藤内閣は、1931年(昭和6年)9月に陸軍関東軍による満州事変が勃発したのち、1932年9月には満洲国の独立を承認する日満議定書を、また、1933年5月には中国軍と日本軍との間の停戦協定である塘沽協定を、満州とのあいだに締結した(この当時の外務大臣は内田康哉)。他方、国際連盟は満州事変について、1932年にリットン調査団を派遣し、その結果9月に対日勧告案のリットン報告書が提出され、同対日勧告案は1933年(昭和8年)2月24日のジュネーブ特別総会で採択された。同報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本全権主席の松岡洋右は、同報告書が満州国を独立国と認めず国際管理下に置くことを勧告したことから、これを不服として退席。斉藤内閣は、その後3月3日に発生した昭和三陸地震に対応しながら、3月27日に国際連盟を脱退した(「国際連盟脱退」)。1934年(昭和9年)1月、時事新報(武藤山治社長)が、繊維会社の帝人と財界人グループ「番町会」や鳩山一郎とのあいだの贈収賄疑惑を報じたことから帝人事件の調査が開始され、帝人社長、帝人の株式を担保していた台湾銀行の頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら16人が起訴された。その後、司法省の裁判官の石田和外らは4月、被告ら全員に無罪判決を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。しかしこのことで政権批判の世論が収まることはなく、齊藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。以下表中、「留」は前内閣からの留任(同じ大臣に再任)、「転」は前内閣からの転任(別の大臣に横滑り)、また出身母体の「貴」は貴族院、「衆」は衆議院、「官」は官僚、「軍」は軍部、「財」は財界、「学」は大学などの教育機関、そして軍階級の「退」は退役であることをそれぞれ示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。国務大臣を補佐しつつ政府(内閣)と議会との連絡を取ることをその職掌とした、政務次官・参与官の両政務官が置かれたのは1924年(大正13年)8月、護憲三派内閣の時だった。その後も内閣が変わるごとに時の政府が与党とたのむ両院の会派の中から若手の議員たちがこれら政務官に任用されていった。やがて五・一五事件や二・二六事件を経て憲政の常道が崩れ中間内閣の時代が到来すると、一内閣における政党枠の大臣数は大幅に減った。するとこんどは大臣適齢期になった中堅の議員たちが、政務次官や参与官を大臣に次ぐポストとして垂涎するようになった。このため政務官は次第に両院議員たちの猟官運動の対象と化してゆき、やがてそれは有害無益なものではないかという批判までが起こるようになっていった。なお政務官の任命は、通常は新内閣の発足後、数日から数週間程度の日を置いて行われた。またその退任も、次の内閣が発足してそのもとで新しい政務官が任命されるのを待って行われた。このため政務官の在任期間は日付上は二つの内閣にまたがるかたちとなる。しかし政務官はあくまでも政治任用官であり、その時々の政府が独自にこれを選任するので、その職責は彼らを任命した内閣が総辞職した時点で実質的に消滅した。前の内閣が任命した政務官は次の内閣発足後も暫時その職に留まるものの、基本的にその仕事といえば事務の引継ぎのみだった。以下表中、「留」は前内閣の政務官として任用された議員がこの内閣でも留任したことを示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。
出典:wikipedia
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