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ザハ・ハディッド

ザハ・ハディッド(ザハ・ハディド、ザハ・ハディードとも表記、、、1950年10月31日 - 2016年3月31日)は、イラク・バグダード出身、イギリス在住の女性建築家。現代建築における脱構築主義を代表する建築家の一人で、デザインが奇抜すぎてコンテストに優勝しても建築されなかったことも多く、アンビルト(実現しない建築)の女王の異名を持っていた。近年では、建築技術の進歩により建築可能物件が増えてきている。BIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)を駆使し、従来にない曲線的なデザインを実現してきた。ザハ・ハディッドはイラクの首都バグダッドに産まれた。父は政治家でリベラル系政党の指導者だった。建築に対する関心は、イラク南部に残っているシュメール文明の遺跡を訪れたときに芽生えた。ハディッドは以下のように述懐している。「父は私たちをシュメールの都市を見せに連れて行きました」、「まずボートで、さらにもっと小さい葦でできた小舟で沼地にある村々を訪れました。その風景の美しさ-砂、水、葦、鳥たち、家々、そして人々が一緒くたになって流れてゆく-忘れたことはありません。私は現代的なやり方で同じ事をしようと、設計と都市設計の形態を発見-発明することだと思っていますが-しようとしています」彼女は幼少期にカトリックが運営していたフランス語学校で学んだ。この学校はイスラム教徒であるザハやユダヤ教徒も共に机を並べるリベラルな雰囲気の学校だった。ベイルートのアメリカン・ユニバーシティで数学を学んだ。イラクでサッダーム・フセインが権力を握ると彼女の家族はイラクを脱出した。1972年にザハは渡英し、ロンドンの私立建築学校英国建築協会付属建築専門大学(AAスクール)で建築を学んだ。1977年に卒業するとAAスクールでの教師でもあったオランダ人建築家のレム・コールハースの設計会社「オフィス・オブ・メトロポリタン・アーキテクチャ」 (OMA) で働き始めた。1980年に独立して自分の事務所を構えた。彼女の名が知られるようになったのは、1983年に行われたピーク・レジャー・クラブの建築設計競技(コンペ)である。これは香港のビクトリア・ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのためのコンペで、ジョン・アンドリュース、ガブリエル・フォルモサ、磯崎新、アルフレッド・シウ、ロナルド・プーンが審査委員を務めた。磯崎の推薦によりザハが一等を獲得したが、爆発した建物の無数の破片が鋭い軌跡を宙に残しながら飛び交うような設計案は、コンペ勝利直後に事業者が倒産したことで実際に建設されることはなかった。1980年代にはハーバード大学、イリノイ大学シカゴ校、コロンビア大学(客員教授)等で教鞭をとったこともあり、1988年にニューヨーク近代美術館が主催した『脱構築主義者建築展』などでも注目されたが、独立後から十数年間は実現に至った建築は無かった。同年には、建築写真家の二川幸夫によって、日英表記の作品集が出版された。1990年に札幌のモンスーン・レストランの内装を手掛け、同年の大阪の国際花と緑の博覧会では他の脱構築主義建築家らとともにフォリーを手がけている。1993年から1994年の作品であるドイツのヴェイル・アム・ラインのヴィトラ消防署が、彼女にとって最初の実際に建設されたプロジェクトになった。これはスイスの家具・インテリア製造会社であるの工場跡地に建設されたヴィトラ・デザイン・ミュージアムの一部であり、安藤忠雄のカンファレンス・パビリオン、アルヴァロ・シザのプロダクション・ホール、ジャン・プルーヴェのガソリンスタンド、バックミンスター・フラーのドームテント、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるショップ・カフェを併設するショールームなどが隣接している。1994年にはウェールズの首府カーディフのカーディフ・ベイ・オペラハウスの設計コンペに勝利したが、保守的なチャールズ皇太子がメディアを通して伝統主義的建築の復興を訴えるキャンペーンを行なっていた影響もあり、コンペはやり直しになった。二度目の選考でもハディッドが勝利すると資金提供を予定した国営クジ公社は建築計画を中止した。2000年代になると建築技術の進歩により建築可能な物件が増えている。2006年には事務所を構えるイギリスでガン患者の支援を行う団体であるマギーズ・センターズのファイフにあるビクトリア病院内の事務所を設計しこれがイギリス初の建築された建築物であり、彼女の英国代表作となった。以後は国際デザインコンペで多く勝利している。2002年、シンガポールの都市計画コンペで勝利し、2004年ロンドン五輪の水泳会場アクアティクス・センター (ロンドン)を設計、2005年にはバーゼルの新カジノ建設計画のコンペも入賞した。2012年には日本の新国立競技場のコンペで最優秀賞を受賞し、設計に当たることになった。また、建築設計以外にも、ブリタニカ百科事典の編集委員の一員になるなど、活躍の場を広げている。建築における顕著な功績で2002年に大英帝国勲章コマンダー (CBE)、2012年に同デイム・コマンダー (DBE) を受章。2004年には女性初のプリツカー賞を受賞した。インテリアの仕事も多く、ロンドンのミレニアム・ドームの『マインド・ゾーン』の内装設計などが有名であるほか、東京・原美術館におけるドイツ銀行コレクション展の展覧会場設計も行っていた。2013年11月には2022年のFIFAワールドカップで使用されるカタールの新スタジアム「アル・ワクラ・スタジアム」を設計した。この新スタジアムのコンセプトは、カタールの伝統的な漁船「ダウ船」をイメージし、見た目の美しさだけでなく、現地の強烈な日差しにも耐えられるよう工夫してつくられている。しかしデザインが発表されるとインターネット上では「女性器に似ている」として話題になった。これに対しザハ・ハディド側は米TIME誌に対し「彼らのナンセンスな意見には本当に戸惑っているの」「彼らが何て言っているかって?建物の穴が女性器に見えるってことばかりよ。ばかげているわ」と語っている。また「もし仮に男性が設計したのなら、こんな卑猥な比較はされなかったでしょう」と発言。だが大衆の意見は変わらず、米ニューズウィークと合併したニュースサイト「デイリー・ビースト」で11月26日、「芸術作品の本質において、鑑賞者の反応は作家が伝えようとした意図と同様に重要である」と主張。最後には、「女性器に見えるという感想は誰も非難すべきものではない」と結んでいる。2016年には女性建築家初のRIBAゴールドメダル受賞。3月31日、気管支炎の治療を受けていたマイアミの病院(Mount Sinai Medical Center)にて、心臓発作のため死去した。後日、London Central Mosqueにて追悼式が行われた。1980年に独立して設立された自身の建築設計事務所である。1988年より建築家が共同代表として加わった。ロンドンの旧小学校内に設立された。10年前までは1教室のみが彼女の事務所で、他の教室は賃貸にしていたが、現在は学校全体を使用している。また近隣にギャラリー兼オフィスがある。ハンブルクと中国にも分室を構え総勢430人、ロンドンだけでも250人が働いている。2008年9月にザハ・ハディッド・アーキテクトのパトリック・シューマッハと共同でリニューアルオープンしたイタリアのファッションブランドであるニール・バレットの青山店の内装デザインを手がけた。ショップデザインに関しては初めての取り組みである。依頼者のニール・バレットは店舗デザインの依頼について、「浮かび上がるような存在感など、彼女のスタイルすべてが好きだったのです。」「今回のプロジェクトでも彼女とは何度も話し合いをしましたが、決して私の考えを押し付けるようなことはありませんでした。最初のスケッチを見て、これだ! と満足できた」とインタビューに答えている。日本国内でザハ・ハディッドの建築物が見られる唯一の建築物であったが2013年8月18日で閉店した。日本の新国立競技場(2020東京五輪で使用予定、当初は2019ラグビーW杯も)の彼女のデザイン案は、2012年11月に国際コンペ(最初は参加に消極的だったとも)にて選ばれた。その後、設計責任を負わないデザイン監修者(監修料13億円)として施主の日本スポーツ振興センター(JSC)と契約し、設計自体は日本の設計者が担当していった。カブトガニやヘルメットに似た斬新な北九州メディアドームのような、流線形が注目された一方で、巨大さが景観を損ね、建設費も莫大過ぎるとして、一部アスリートも含め各方面から批判が噴出していった。2013年11月に約25%縮小するも、年間維持費は約41億円に上るともいわれた。ただし、規模は施主のJSCが定めた応募条件であり、決して彼女に非は無いともいわれた。2015年7月17日(10月に着工予定だった)、安倍晋三首相は建設計画の白紙撤回を決断。当日の『NHK NEWS 7』での岩田明子記者の解説など、「内閣不支持率が支持率を上回った結果(の動き)」という見方もあった。彼女のデザインを推したコンペ審査委員長の安藤忠雄は前日の会見で、建設費まで視野に入れる義務はなかったし、2,520億円(7月7日の最終試算額)に驚いたと述べていた。、7月28日にザハ事務所は、建設費高騰を「デザインそのもの」が原因とした菅義偉官房長官の見解等への反論声明を改めて発表。また、鉄骨ボックス構造でない低コストの新案にて、建設に関与し続けたいアピールもした。その後、2013年の時点で小規模案への変更提案を検討していたことも明かし、特徴でもある2本のキールアーチの有用性も示した約23分間の解説動画と91枚のPDF資料を公表した。再コンペには日建設計と組んで参加する計画だったが、今回は「デザインビルド方式」で、組む施工者が見つからず応募(9月18日締切)を断念した。隈研吾のA案採用が決定した12月22日には、座席などの内部が「我々のデザインに驚くほど似ている」とコメントし、知的財産権を主張した(もう一方のB案で敗れた伊東豊雄も柱割りなどの類似性を指摘した)。年明けの1月14日にザハ事務所は、監修料の未納分を支払う代わりに著作権を譲るようというJSCからの要請を断り、書面を送付して著作権交渉を求めたことを明かした。彼女の最初案は、スロープが首都高や線路をまたぐスケールだったが、縮小後の案には、ダイナミズムの低下(槇文彦)、亀のような鈍重な姿(旧知の磯崎新)との声があった。一方で、竹中工務店出身の吉田研介や「ザハ流の3次元設計」を高評価する藤村龍至らの建築家や、作家の岩崎夏海や経済アナリストの森永卓郎やタレントのDAIGOなど、惜しむ意見もあった。リカルド・トッサーニは、日本の建築家による木造建築を想起させる新デザイン(A案・B案)を「妥協案」と評し、ザハ案のほうが未来への方向性が見られたとコメントした。なお、NHKが2015年8月に単独インタビューを実現したが、多忙のため、ほぼ事務所のジム・ヘベリンがマスコミ対応などをしてきた。1990年に札幌のモンスーンレストランの内装を手掛けている。同年の大阪の国際花と緑の博覧会では他の脱構築主義建築家と共に庭園などにある装飾用の建物のフォリーを手がけている。2014年10月18日から12月23日にかけて、東京オペラシティにおいて日本初の大規模個展を開催した。彼女は、ロシア構成主義の建築や美術の強い影響を受け、コンセプチュアルで空想的なものを現実空間に出現させ、見学・利用者に驚きを与えている。かつては、同じく脱構築主義者であるダニエル・リベスキンド同様に、実際の建築作品ではなく、建築思想の提唱者として、また過激なコンセプトを示した図面の製作者としてもっぱら知られていた。無数の道路やパイプのようなラインがゆるやかに折れ曲がり交差し重なり合いながら高速で流れるイメージや、近未来的で巨大な有機体状の構造物などを描いたドローイングを特徴とする。彼女のプロジェクトを担当した経験を持つ金田充弘(2012年当時アラップ東京事務所に在籍していた構造エンジニア)によると、「形へのこだわりはもとより、建築とファサードの融合が非常に大切」としているという。一方でロンドンにある事務所(2015年7月現在)は古風なレンガ造りの外観となっている。東京(千代田区)にも事務所を持つ(2015年7月現在)。

出典:wikipedia

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