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三船プロダクション

三船プロダクション(みふねプロダクション)は、1962年に映画俳優の三船敏郎が設立した、日本の芸能事務所及び制作プロダクションである。1966年には東京都世田谷区成城と調布市入間町にまたがる敷地に、時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。「東京で唯一時代劇が撮れるスタジオ」と言われ、世田谷区側にセットを建てられるほどのスタジオが3つと、通り、川端、長屋、そしてバス通りを渡った調布市側に道場を含むオープンセットが存在した。さらに、ほとんどのスタッフがプロダクション専属で仕事をしており、大手の映画会社に次ぐ規模であった。なお、マークは三船家の家紋である。1950年代の後半から、テレビが普及し始め、映画産業は衰退を始めていた。映画会社は、作成費用削減、撮影所の縮小をしていた。三船敏郎が所属する東宝も同様で、三船に対し、「君はプロダクションを作り、仕事を回すから自分のところで映画を作るように」と言われたという。そのような経緯から、三船プロダクション設立にあたり東宝の重鎮・森岩雄、藤本真澄と川喜多長政が取締役に名を連ね、運営には田中友幸の尽力があり彼らを後ろ盾とした。第一回作品は、1963年、宝塚映画と提携して製作された『五十万人の遺産』。この作品では、東宝の藤本真澄専務の薦めにより監督を三船が引き受ける。編集も黒澤監督が手伝うなど、黒澤組も多数参加するが、三船監督としては、これが唯一の作品となる。その後、監督業は無理だと思った三船は、岡本喜八監督を招いて、1965年に『侍』、『血と砂』を製作。東宝の支援もあり、興行成績も好調であった。1966年には、世田谷区成城に二千坪の土地を購入。スタジオ、オープンセット完備の撮影所を作る。組織も拡大し、映画製作、企画の社員を雇い、撮影スタッフも増強し、自主製作を始める。1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションが組んで、熊井啓監督の『黒部の太陽』を公開する。ただし当時は五社協定が存在し、東宝と日活という違う会社の看板スターが組むことに大きな反発があった。そこで三船は日活の堀久作社長に、「黒4ダムを作った関西電力が映画の前売り券、百万枚の販売を保証してくれるが、配給は日活でどうか」と提案し、石原裕次郎の出演を認められ、制作にこぎつける。『黒部の太陽』は、1968年の最大のヒット作品となる。海外出演依頼も増えて、1967年のアメリカ映画『グラン・プリ』、1968年『太平洋の地獄』に出演する。1960年代は、主に東宝と提携して多くの映画を製作し、中でも中村錦之助、石原裕次郎らとの共演が話題になった『風林火山』(1969年)は予想以上にヒットした。三船プロダクションは、さらに撮影所の設備を充実させる。最終的に、3800坪の敷地に、社員、契約社員300名以上にまでなった。1970年代に入り、映画産業が斜陽化してからは、映画製作から撤退してテレビで時代劇ドラマを制作した。同時期に多数誕生した、いわゆるスター・プロの中では唯一自社撮影所を備え、特に東京で随一の常設時代劇用オープンセットは各社に重宝された。芸能プロダクションとしても活動し、竜雷太、多岐川裕美、勝野洋、竹下景子、中野良子らのスターを多く抱えていたが、1979年に内紛騒動が勃発し、東宝時代から付き添ってきた田中寿一が上記の俳優らを引き連れて、半ば強引に三船プロから独立、田中プロモーションを設立した。田中プロもその後再分裂、アクターズプロモーションが大部分を継承したが、結局2007年に破綻した。三船プロに残留した俳優は伊豆肇、夏木陽介、かたせ梨乃ら、少数に留まった。この分裂劇は法廷へともつれ込んだが、田中からの謝罪を三船が受け入れることで、和解した。分裂で大打撃を受けた三船は軌道修正を図るべく、1981年には三船芸術学院を設け、役者や制作スタッフの育成に力を注ぐも、内紛騒動で出来た穴を埋めることはできず、1984年には撮影所が閉鎖に追い込まれ敷地の多くを売却するなどの事業縮小を余儀なくされた。三船プロが1970年代に無理な事業拡大を行った背景には、同時期、東宝が本社での映画製作を停止し、買取作品・委託引受け作品の配給に転換したため、行き場を失った大量のスタッフ、俳優の受け皿となろうとした三船の侠気があるといわれる。三船敏郎没後、長男で俳優の三船史郎が取締役を継ぎ、過去に製作した作品の著作権管理を主な業務として現在に至る。かつての敷地の間を通っていたバス通り(成城富士見橋通り)を走る小田急バスには長らく『三船プロダクション前』というバス停が存在し、名残をとどめていたが、2003年4月に『成城八丁目』に名前が改められた。元社員で総務の田島勝彦によると、黒澤明監督との最後の作品となった『赤ひげ』の撮影後、数年経って、事務所内に「黒澤プロダクション」という部屋を、黒澤監督に使ってもらうために作ったという。その部屋は普段だれもいないが、社長室よりも広い部屋だったという。三船は、黒澤監督と再び仕事を出来る日を待ち望んでいたと語っている。

出典:wikipedia

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