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阿毘達磨倶舎論

『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は、ヴァスバンドゥ(世親)を作者とするインドの仏教論書である。4〜5世紀頃の成立。サンスクリット本の題名は『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』(梵: Abhidharma-kośa-bhāṣya)。漢訳の際にアビダルマは「阿毘達磨」(あびだつま)、コーシャは「倶舎」(くしゃ)と音写された。説一切有部の教義は、カーティヤーヤニープトラ(迦多衍尼子)の『ジュニャーナプラスタナ・シャーストラ』(『阿毘達磨発智論』)によって確立する。この『発智論』を注釈した論書に『マハー・ヴィバーシャー』(『大毘婆沙論』)がある。本書は『大毘婆沙論』の厖大な内容を巧妙に収め説明している。説一切有部の教理の行きすぎた点を経量部の立場より批判した点に特色がある。漢訳とチベット訳があり、漢訳本は真諦による『阿毘達磨倶舍釋論』22巻と、玄奘による『阿毘達磨倶舍論』30巻である。サンスクリット本と玄奘訳は『倶舎論』と略称され、真諦訳は『倶舎釈論』と略称される。なお、漢訳本の正式な原題表記は『阿毘達磨倶舍論』・『阿毘達磨倶舍釋論』である。研究には玄奘訳がもちいられる。サンスクリット本が発見されてからは、漢訳に依らない原典からの研究もおこなわれている。ヴァスバンドゥ(世親)が作成した『アビダルマ・コーシャ・カーリカー』(梵: Abhidharma-kośa-kārikā)の598偈の本頌に、ヴァスバンドゥ自ら註釈(自註)を書き加えたものが『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』(梵: Abhidharma-kośa-bhāṣya)で、一般に『倶舎論』という時は後者のバーシャ(長行釈)のことを指す。玄奘が漢訳する際に、『アビダルマ・コーシャ・カーリカー』を『阿毘逹磨倶舍論本頌』と題し、『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』を『阿毘達磨倶舍論』と題した。アビダルマの語義については複数の解釈があるが、『阿毘逹磨倶舎論』における「阿毘達磨」 (, アビダルマ) とは、 "+" であり、それぞれ「対」と「法」と訳され、「法に関して」という意味であると自注する。また、「倶舎」(, コーシャ)とは入れ物、蔵、宝物庫の意である。本書はその骨格を『雑阿毘曇心論』に基づくことが古来より指摘されており、単なる『大毘婆沙論』の綱要書と認識するのは不適切である。また、近年では『甘露味論』との関係が吟味されている。本論の特徴は説一切有部の伝統的な一部の教理に対して、経量部の立場から批判が加えられている部分がある点にある。このような世親の立場は古来においては「理長為宗」や「拠理為宗」として表現された。そして世親のこれらの経部的見解は、いずれもカシミール有部の伝統的な教理解釈とは相反する内容であった。故に、伝統的な教理を尊んだ衆賢は『順正理論』を著し『倶舎論』を論駁した。また、二十世紀になって発見された漢蔵等の翻訳が存在しなかったイーシュバラの『アビダルマディーパ』においても伝統的な有部の立場より『倶舎論』は非難されている。近年の研究では世親の「経量部」の立場の多くは『瑜伽論』にトレースできることが指摘されている。しかしながら、当時より世親が唯識家として本論を著した積極的根拠は認められないことは注意が必要である。旧来は称友による註釈しか梵本が存在しなかったが、サキャ派のゴル寺(Ngor Monastery)でラーフラ・サーントクリヤーヤナによって1934年に発見された。後に1946年にはゴーカレによって『本頌』の梵本がとして校訂発表され、1967年にはプラダンによって『釈』の全体が校訂出版された。梵本の他に、『本頌』にはチベット訳が1つ、漢訳1種が現存している。梵本の他に、『釈』にもチベット訳が1つと、漢訳二種が現存している。従来、倶舎宗の伝統においては玄奘訳が用いられた為に、玄奘訳に基づく『倶舎論』との呼称が浸透した。それとの区別を目的として真諦訳は『倶舎釈論』や『旧倶舎』や『旧訳』と呼称され、区別された。また、『本頌』『釈』共にウイグル語訳の断片が発見され、研究されている。本論は598偈(漢訳608偈)の『本頌』と、その注釈である『釈』から構成されている。猶、破我品には『本頌』は存在しない。界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破する。多様に複雑な因果関係をなしている諸法を、因である点から六因、四縁に、果である点から五果に分類する(分別根本第二)。この六因説は経典に明確な文言を用いて説示されている説ではない。恐らくは有部アビダルマにおいて構築された説である。この点については称友釈において詳説されるが、『倶舎論』において世親が特に言及しないことは注目に値する。なお六因説の初出については『発智論』[大正蔵26巻920c]であると指摘されている。因果関係の因について、上記の「六因」とは異なる分類のしかたをしたもの。1820年代、ネパールにおいてB.H.ホジソンによって、ヤショーミトラの倶舎論註「スプタールタ」の原文写本が発見された。これがパリに送られ、東洋学者ウジェーヌ・ビュルヌフの「インド仏教史序論」(1844年)の述作の一部となった。1917年に、チベット語訳倶舎論第1章本文が、ロシアのシチェルバツコイにより刊行された。その後、ロシアのO.ローゼンベルク、ベルギーのL.ド・ラ・ヴァレ・プサン、E.ラモート、フランスのS.レヴィ、オーストリアのE.フラウヴァルナ-、H.V.ギュンターらによって研究されている 。中国へは真諦(499年〜569年)による漢訳「阿毘達磨倶舍釋論」(567年訳出)によって初めて伝えられ、玄奘(602年〜664年)による漢訳「阿毘達磨倶舍論」(651年訳出)が出される。神泰の「倶舎論疏」、玄奘門下の普光の「倶舎論記」、法宝の「倶舎論疏」などの注釈書が書かれた 。日本では、道昭が653年に唐に渡って玄奘に謁し、玄奘訳およびに神泰の「倶舎論疏」が日本に伝えられたことから、興福寺・元興寺を中心に研究が始まった。天平勝宝年間(749年〜757年)には倶舎宗が公式に制定され、南都六宗の一つに数えられた。858年、円珍によって、法宝の「倶舎論疏」や円暉の「倶舎論頌釈疏」が日本にもたらされ、比叡山・三井寺・東大寺で研究された。徳川中期以降、真言宗の周海、法住、快道、海応、信海、旭雅、浄土宗の湛慧、普寂、浄土真宗の法幢、宝雲、法海、竜温、法宣などが輩出された。。

出典:wikipedia

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