フォークランド紛争(フォークランドふんそう、)は、大西洋のフォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3ヶ月に渡って行われた紛争である。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争()」と表記されることが多い。日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多い。英語圏では「(フォークランド戦争)」とも呼ばれる。ただし、イギリス陸軍の公式ウェブサイトでは「(フォークランドの争い)」の語を用いている。1982年3月19日にアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。イギリスはサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに3月28日に米国の支援を要請し、原子力潜水艦の派遣を決定した。4月2日にはアルゼンチン正規陸軍が同島に侵攻。4月25日にサウス・ジョージア島にイギリス軍が逆上陸、即日奪還した。アルゼンチン軍は航空攻撃でイギリス艦船を撃沈するなど当初は優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富な陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報戦を有利に進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削り、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。フォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価された。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍同士の戦闘という特徴もあった。両国の国交が再開され戦争状態が正式に終結したのは1990年2月5日だった。しかし、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。最初に島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれるが、ヨーロッパ人による発見は1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとされる。1592年にイギリスの探検家ジョン・デイヴィス が島を記録しており、これがイギリスの領有権の根拠である。1690年にはイギリスの船長ジョン・ストロンが英国海軍のアンソニー・フォークランド子爵にちなんでフォークランド諸島と命名した。その後、18世紀になるとフランスとイギリスは七年戦争などで対立し、植民地獲得競争を行った。フランスは1764年に東フォークランドの港に入植しサン・ルイ港と名づけた(現・バークレー湾)。他方イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。1767年、フランスはボルボン朝スペインにフォークランド諸島を売却し、サン・ルイ港はソレダード港と改名された。1770年にはスペイン・ブルボン朝海軍はブエノスアイレスからエグモント港に侵攻し、現地イギリス軍は降伏した。当時、アメリカ独立戦争に備えていた本国イギリスは全面戦争を避け、1774年には西フォークランド島の居住を認められる代償として、スペインの領有権を認め、エグモントのイギリス軍は1776年に解散した。同1776年にはペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設され、ブエノスアイレスはその首府となった。1806年と1807年にイギリス軍はブエノスアイレスに侵攻するが、副王領軍は撃退する。1810年にブエノスアイレスは自治を求め五月革命を起こし、内戦(アルゼンチン独立戦争)がはじまる。翌年の1811年には南米での内戦とイギリスの圧力を受け、スペイン系住民はフォークランド諸島から撤退した。スペイン撤退後は英米の軍艦や捕鯨船が避難港として利用した。1820年にリオ・デ・ラ・プラタ連合州のフリゲートがソレダード港の領有を宣言し、英米のアシカ漁船に警告するが無視される。1823年にはラ・プラタ連合州がホルヘ・パチェコとルイス・ベルネトに漁業権を与え、さらに1828年に植民地の樹立を条件に東フォークランドとその資源がベルネトへ与えられた。恐怖政治を敷いたブエノスアイレス州知事フアン・マヌエル・デ・ロサスは1829年に島の知事にベルネトを任命し、アザラシの狩猟権も与えた。駐ブエノスアイレス英国領事は抗議した。さらにロサス知事は同1829年、諸島周辺で操業していた捕鯨業者に、船籍を問わず課税することを決定し、支払いを拒否したアメリカ船三隻を拿捕した。これに対してアメリカ領事は「島の主権はイギリスにある」と訴えて、アメリカのアンドリュー・ジャクソン大統領はスループ型軍艦レキシントン号で海兵隊をフォークランド諸島に派遣し、ソレダート港に侵攻し、諸島の中立を宣言した。ロサス知事は米国領事を追放するが、ジャクソン合衆国大統領は深入りせず、報復はしなかった。1833年1月3日、イギリスはブリッグ・スループ艦クレイオー号をフォークランド諸島に派遣し、無血占領に成功した。アルゼンチンは抗議したが、当時、ラプラタ川通行権をめぐり英仏と対立し、またウルグアイ情勢のため諸島奪還は出来なかった。当時、1828年のアルゼンチン・ブラジル戦争で英仏調停によりウルグアイ東方国が成立したが、ウルグアイではコロラド党とブランコ党(白党)とが対立。さらにウルグアイ再併合を求めるブラジル帝国と英仏がコロラド党を支援、他方ロサスらアルゼンチン連合は白党を支援して1839年に大戦争 (Guerra Grande) が勃発する。大戦争中の1843年に英国は島にスタンリー港を開設し、1845年に行政府所在地となる。1845年に英仏海軍はブエノスアイレス港を封鎖するが、ジュゼッペ・ガリバルディらのゲリラ軍に抵抗され英仏軍は撤退した。しかし、1851年に腹心ウルキーサによる離反でロサスは失脚しイギリスへ亡命した。その後ウルキーサ、続くミトレら自由主義政権は近代化政策のためイギリスから借款を得るなど友好関係を築いたため、フォークランド諸島領有権も発生しなかった。以降、イギリスによる実効支配が続き、1860年代には、スコットランド人入植者により牧畜のための羊と牛が島に持ち込まれ、やがて羊毛産業が主産業になる。1880年代から20世紀にかけてイギリス資本がさらにアルゼンチンに流入し、アルゼンチンは大英帝国の非公式帝国として経済的な従属国となるが繁栄し、ブエノスアイレスは大都市になる。蒸気艦船がイギリス海軍に普及すると、スタンリー港は重要な給炭港となった。第一次世界大戦ではドイツ帝国海軍がフォークランド諸島の襲撃を試みた(フォークランド沖海戦)。アルゼンチンは第一次世界大戦の際は中立国であった。また第二次世界大戦時にはナチス・ドイツの装甲艦が南大西洋に進出し、イギリス海軍は巡洋艦をフォークランド諸島からラ・プラタ川河口へ急行させた(ラ・プラタ沖海戦)。フォークランド諸島は2度の大戦を通じて英軍の補給基地としての戦略的な重要性が確認された。第二次世界大戦にイギリスは戦勝国であったが、アメリカにヘゲモニーを奪われ、さらに戦後あいついだイギリス植民地の独立によって、イギリスはほとんどの植民地や海外領土を失い、イギリス連邦がその役割を引き継いだものの、かつて7つの海を支配し「太陽の沈まぬ国」といわれた大英帝国の威信は衰えた。フォークランド諸島は大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つで、さらに冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として重要な位置を占めた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としての価値もあった。1929年の世界恐慌以降、1930年代にはアルゼンチンでナショナリズムが台頭し、ロサスが再評価されると共に諸島(マルビナス諸島)奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていった。第二次世界大戦後の1946年、左翼民族主義者のフアン・ペロンがアルゼンチン大統領に就任。ペロンは反対派を強制収容所に収容するなど左翼ファシストと呼ばれたが、ポプリスモ政策によって一時的に経済は安定した。しかしモノカルチャー政策であったため、アメリカやカナダ農業の生産性向上により、1949年には競争力を失った。国民から人気のあった妻が死亡し、またカトリック教会との関係も悪化し、1955年に軍のクーデターでペロンは追放された。その後ペロン派の都市ゲリラと軍部の間で内乱が続いた。1976年に誕生したビデラ軍事政権がペロン派や左翼を弾圧し(汚い戦争)、「行方不明者」のなかにはゲリラと関係のない市民もいた。ビデラ政権は治安回復には一定の成果をみせたが、外資導入による経済政策で失敗し、天文学的なインフレに陥いり失脚した。1981年12月に軍事政権を引き継いでアルゼンチン陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリ大統領が就任した。ビデラ軍事政権は任期中フォークランド諸島に対する軍事行動に言及していたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だがアルゼンチン活動家が島に上陸して主権を宣言するなどの事件が起きていた。1960年代から1970年代にかけてイギリスが社会保障制度を充実させ基幹産業を国有化するなどの「イギリス社会主義」の政策を行った結果深刻な財政難に悩まされる英国病にかかると、イギリスの維持能力を超えていた諸島にアルゼンチンが行政医療サービスを行うようになり、それにともない、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求めるようになった。当時フォークランド諸島はイギリス本国への羊毛の輸出のみで成り立っており、不況に苦しむ本国以上の過酷な状況で、本土との定期航空便もなく、アルゼンチンからの行政医療サービスで維持されていたような状態だった。保守党ヒース政権は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった。当時、ヒドリー国務大臣は「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案を出したが、イギリス人入植者が多数を占める諸島住民が反対し下院で不採用となった。これまでイギリスも条件付で諸島返還を認めるとしてきたが、1979年に就任したマーガレット・サッチャー首相は国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた。他方、アルゼンチン軍事政権は無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどった。1982年に、民間義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。アルゼンチン政府は沈静化は図るものの、1982年3月19日にはアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島の東にある英領サウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。当初はガルチェリの思惑通りに大統領官邸前には大統領の決定を支持する国民で埋め尽くされた。イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに1982年3月28日にアメリカのヘイグ国務長官に圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリスのサッチャー首相はアメリカのレーガン大統領に事態収拾の仲介を要請し、閣議を招集して機動部隊の編成が命じられた。翌4月2日にはアルゼンチン陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。同4月2日に英下院で機動部隊派遣は承諾され、4月5日に航空母艦2隻を中核とする英海軍第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカやイギリスのフランシス・ピム外相のシャトル外交により事態の打開が模索されたが、イギリス側は諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、4月24日のアルゼンチン案ではイギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないようにした文章が含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的であることや外交を時間稼ぎに使われているのではないかという懸念を持った。4月25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島にイギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。その後も国連で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンにサッチャー首相は「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。1982年3月19日、フォークランド諸島沖合東約1000km東に位置するサウス・ジョージア島にアルゼンチン海軍の輸送艦バイア・ブエン・スセソが突如来航。20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体と称してアルゼンチンのクズ鉄業者を名乗る60名近いアルゼンチン人を入国手続きを一切無視して上陸させた。上陸したアルゼンチン人たちはアルゼンチン国旗の掲揚や国歌斉唱を行うなど同島に居座るような行動を取る。イギリス政府はアルゼンチン政府に厳重に抗議するとともに氷海巡視船エンデュアランスに武装した海兵隊22名と軍用ヘリワスプ2機を積載して同島海域に派遣。するとアルゼンチン側は輸送艦バイア・ブエン・スセソを引き揚げさせたものの、数十人のアルゼンチン人を残していった。さらに3月26日にそのアルゼンチン人同胞の警護と称し、アルゼンチン海軍砕氷艦バイア・パライソにて武装した海兵隊員約500名と物資をサウス・ジョージア島に送り込み、同島のリースハーバーに陣取る。この直後からアルゼンチン海軍の動きが活発化し、軍事演習と称して空母、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、輸送艦などの移動を開始。3月28日、イギリス側は海兵隊44名を増援してエンデュアランスに送り込むと同時に機動艦隊の派遣準備を始める。3月30日、アルゼンチン海軍はフォークランド諸島への本格的な侵攻上陸作戦を開始。空母ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦とし、駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵と共にフォークランド諸島へ出撃させる。3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦はロザリオ作戦と名付けられた。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数のコマンド部隊による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された水陸両用車両を使った比較的大掛かりな上陸である。アルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、イギリス軍戦力も79名の海兵隊員に過ぎなかった。アルゼンチン軍は、圧倒的な戦力差によって早期にイギリス軍を降伏させ、また国際世論を考慮してできる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたがアルゼンチン軍部は引き返すことはしなかった。4月1日夜、42型駆逐艦「サンティシマ・トリニダー」が東フォークランド島沖合1海里に到着して21隻のゴムボートを降ろし、1時間半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員を移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地のイギリス海兵隊員兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は午前5時半に兵舎に到着したが、無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名(31名の海兵隊員と11名の水兵)のイギリス武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待った。水陸両用車両(アメリカ製のアムトラックやLVTP7水陸両用装甲兵員輸送車)を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都スタンレーであった。4月2日未明、まず潜水艦サンタフェから潜水具を装備した少数の偵察隊が空港の北部沿岸に上陸し、岬の灯台を占拠。次いで、揚陸艦カボ・サン・アントニオが、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、偵察隊の灯台からの誘導を受けながら最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い乗用車やコンクリートの塊がアルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれていたものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を占領した。その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、イギリス海兵隊からの反撃は無く、北部海域に展開していたアルゼンチン艦隊旗艦の空母ベインティシンコ・デ・マヨから発艦した輸送ヘリコプターによるアルゼンチン海兵隊の増援も到着し、島都スタンレーはアルゼンチン軍が占領した。4月2日午前9時半、イギリス軍のレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス海兵隊へ武器の放棄を命じイギリス軍は降伏した。アルゼンチン軍はフォークランド諸島全域を手中に置いた。この作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は同日4月2日に同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500名のアルゼンチン海兵隊員の内、40名が砕氷艦バイア・パライソに移乗してピューマヘリコプター2機による制圧作戦を開始。増援として派遣されたアルゼンチン海軍A69型フリゲートゲリコの支援を受けながら翌日4月3日正午より島都のグリトビケンに上陸を開始した。サウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23名と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦し、上空援護を行っていたアルゼンチン海軍のピューマヘリを機関銃で撃墜。さらにキングエドワードポイント埠頭近海に接近し、機関砲による援護射撃を行っていたゲリコへ84mmカールグスタフ無反動砲とM72 LAWによる攻撃を加えて主砲や対艦ミサイル発射機を使用不能に追い込むなどした。約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1名に対し、アルゼンチン側は死者4名重傷者1名という結果に終わった。スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊のイギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。アメリカは全面的にNATO加盟国で長年の同盟国であるイギリスを支援し、空中給油機の貸与を申し出た他、アルゼンチンが使用する自国製の戦闘機や各種武器の情報、自国衛星情報を提供した。また、海路長旅を行うイギリス軍のためにアセンション島にイギリス軍を集め、兵員を休憩させるために便宜を図った。アメリカは冷戦下で中米紛争、特に第二次ニカラグア内戦における死の部隊(Death squad)、アルゼンチン軍はアルゼンチン国内で「汚い戦争」を通して培った対ゲリラ戦の戦訓を、イスラエル国防軍などと共にホンジュラス軍やニカラグアのコントラなどへ訓練していた(アルゼンチン・コネクション)。このような「アメリカが表立って行えなかったようなことをアルゼンチンが行う」という関係を通して両国は友好関係にあったが、正式な同盟関係になかったアルゼンチンへの配慮は全くなかった。その一方で、ヒスパニック系アメリカ人の傭兵多数がアルゼンチンの占領軍にいたのは確実と考えられ、グースグリーンでは、アメリカ人傭兵と思しきアメリカ訛りの英語を話すがスペイン語が話せない者2名が英軍に捕えられている(この2名の身元もその後も不明であるが、処刑された可能性が高い)ラテン・アメリカ諸国のほぼ全てがアルゼンチン支持を表明したが各国は軍隊を送らず情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ただし、ペルーなどの南米諸国からは20世紀後半まで持ち越された帝国主義との戦いのためと称して少数ながら義勇兵が参戦を希望した。また実戦には間に合わなかったが、ペルー空軍のミラージュIII戦闘機10機程度がアルゼンチン空軍に売却された。このことは今まで白人国家であることを誇り、「南米のヨーロッパ」と自称してメスティーソが主体の他のラテン・アメリカ諸国を見下していたアルゼンチンにラテン・アメリカの一員としての意識を芽生えさせた。アルゼンチンの隣国のチリだけは、アウグスト・ピノチェト政権以前からパタゴニアのビーグル海峡地域において隣国アルゼンチンと国境問題を抱え、小規模な武力衝突をたびたび起こしており、1981年末には戦争寸前となるなど、危機的状況が続いていた。そのため、チリの大統領アウグスト・ピノチェトはアルゼンチンを「侵略者」として非難してイギリスへの支援を表明し、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。さらにチリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めた。翌4月4日には、アルゼンチン政府が国内にある全てのイギリス資産を凍結した。これに対して4月10日にはイギリスが加盟するECが対アルゼンチン経済封鎖を承認し、西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行った。なお4月29日にはアルゼンチン政府はアメリカによる調停案を拒否した。日本はアメリカ、イギリス、ECの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置は最後まで実施しなかった。しかし、国連でのアルゼンチン撤退勧告には賛成票を投じた。冷戦下、アメリカ、イギリスと敵対していたソ連や東側諸国はイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したが、国連安保理では棄権にとどめた。非同盟諸国 の多くがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、ソ連が衛星写真を提供したことを除いて、情報組織などによる具体的な支援はなかった。ほか、メディアとしては世界最大の通信社ロイター社がイギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方をある程度承知していたため実害はなかった。4月3日にイギリス政府から機動艦隊編成の命を受けたイギリス軍では派遣部隊と機動艦隊の編成が急ピッチで進められた。艦隊旗艦とされた空母はハーミーズとインヴィンシブル(軽空母)の2隻だった。各空母にはイギリス海軍艦隊航空隊第800飛行隊12機、第801飛行隊8機のシーハリアー FRS.1が配備された。このシーハリアーは当時の新型空対空ミサイルであったAIM-9Lサイドワインダーを搭載していた。また、空軍のハリアー GR.3に空母で運用するための改造が施された他、空対空戦用のミサイルランチャーの増設も行われたが、結局このランチャーはハリアー GR.3の運用が対地攻撃のみに限定されることになったため、後に増援として空母に配備された際に取り外された。さらに本来核攻撃用に配備されていたイギリス空軍の第44、第55、第101飛行隊の戦略爆撃機バルカンが長距離爆撃のために慣性航法装置の改良や通常爆弾21発の投下が可能なように改造され、パイロットらは空中給油の再訓練を行った。イギリス海軍は4月5日に艦隊旗艦の空母ハーミーズを中核とした空母2、駆逐艦10、フリゲート艦13、揚陸艦8隻、輸送艦他支援艦16の計49隻から成る機動艦隊である第317任務部隊をポーツマス港より出撃させた。イギリス軍はフォークランド諸島奪還の中継基地としてフォークランド諸島北西約6000kmに位置するイギリス領アセンション島のワイドアウェーク基地を利用した。4月5日から18日にかけ、イギリス空軍の第42、第120、第201、第206飛行隊のニムロッド偵察機、第55、第57飛行隊のヴィクター給油機の部隊の他、艦隊の支援のための補給物資が次々と到着した。4月12日には先行してフォークランド諸島に向かっていたイギリス海軍の潜水艦隊が同海域に展開、イギリス政府はフォークランド諸島の半径200海里(370km)を封鎖海域とし、以後この海域に他国籍の艦船の侵入を禁じた。一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンレー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機はプカラ攻撃機、イタリアのアレーニア・アエルマッキ社製の軽攻撃機MB-339・MB-326、アメリカのビーチエアクラフト社製のT-34Cターボメンター軽攻撃機等で編成された。また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍がフランスのダッソー社から購入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、同じくフランスのMBDA社から購入した空対艦ミサイルエグゾセAM39が5発搭載された。4月18日、イギリス海軍の機動部隊がアセンション島を出港、駆逐艦アントリム、フリゲート艦プリマスの2隻がサウス・ジョージア島奪回の任務を帯び、イギリス陸軍特殊部隊SASとイギリス海兵隊を積載して機動艦隊から離れタスクフォースを編成していった。サウス・ジョージア島近海に先行していた氷海巡視船エンデュアランスと合流し同島の奪還作戦を開始する。4月21日にSASによるサウス・ジョージア島上陸偵察が行われたが、悪天候で中止せざるをえなくなった。撤退時にイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が墜落する事故を起こし、4月22日深夜にはイギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)がゴムボートによる偵察上陸を行うも一部が悪天候のために遭難するという事態となる(どちらもイギリス軍により救助された)。4月23日にはアルゼンチン海軍の潜水艦が接近しているとの情報を受けたタスクフォースは一旦、同海域から退避。機動艦隊から増援に駆けつけたイギリス海軍のフリゲート艦ブリリアントが合流し、4月24日より艦載ヘリコプターによる掃海作戦を実施する。4月25日に、サウス・ジョージア島のアルゼンチン軍守備隊へ物資輸送任務を行っていたアルゼンチン海軍の潜水艦サンタフェが掃海中のイギリス海軍艦載ヘリコプターに発見され、攻撃を受け損傷。同日サウス・ジョージア島に擱座、放棄された。同日中に駆逐艦アントリムの艦砲射撃による援護を受けながらイギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸した。アルゼンチン陸軍はサウス・ジョージア島を重要視していなかったことから守備隊は即降伏したため、同島の陸上での戦闘はほとんどなく、イギリス軍はサウス・ジョージア島の奪回に成功する。以後、タスクフォースは同島に駐在部隊を残して再び機動艦隊に合流し、本格的なフォークランド諸島奪還を始めた。イギリス軍は、アセンション島を基地とするバルカン爆撃機、空母から発進したシーハリアーによる空爆、戦闘艦艇による艦砲射撃の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンレー空港および、同島の中央に位置するグース・グリーン飛行場を使用不能とする計画をたてた。その第一段階が5月1日からアブロ バルカン爆撃機によるスタンレー空港の爆撃計画でブラックバック作戦とよばれた。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するという当時としては最長距離の長距離爆撃作戦であった。この作戦に参加した航空機は、バルカン爆撃機2機(内、同行予備機1機)とヴィクター K.2空中給油機15機(内、同行予備機4機)である。爆撃機と給油機の各1機が離陸後しばらくして機械関係のトラブルに見舞われ、実際の爆撃は予備機にて行われることとなった。この予備のバルカン爆撃機はポート・スタンレー飛行場へ21発の爆弾を投下した。内4発の爆弾がスタンレー空港施設に着弾し、4発の内1発が滑走路を直撃した。バルカン攻撃機の空爆直後、イギリス海軍機動部隊がスタンレーの東180kmまで接近し、空母ハーミーズから飛び立った第800飛行隊のシーハリアー FRS.1のうち9機がスタンレー飛行場へ、3機がグース・グリーン飛行場へ空爆を行った。スタンレー飛行場へ向かった9機は1000ポンド爆弾とクラスター爆弾で滑走路や対空陣地を攻撃。アルゼンチン側は陸上に設置したタイガーキャット対空ミサイルや高射砲で迎撃するも失敗し、空港施設などを破壊される。またグース・グリーン飛行場では、3機のシーハリアーが1000ポンド爆弾、クラスター爆弾で滑走路を空爆した。離陸直前だったプカラ攻撃機の1機ごと滑走路を破壊して使用不能に追い込み、駐機していた他の4機のプカラ攻撃機を大なり小なり損傷させた(後にアルゼンチン政府はこの離陸直前に乗機を撃破されて死亡したプカラ攻撃機パイロットの空軍中尉を『単独で空母を攻撃して撃墜された英雄』と脚色して報道し、真相を知っていたアルゼンチン空軍のパイロットらから顰蹙を買った)。ハリアーの空爆後、作戦の総仕上げとして駆逐艦グラモーガンとフリゲート艦アラクリティとアローの3隻が日中と夜間の2回に分けてスタンレー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。この一連の攻撃で以後スタンレー空港は滑走路の損傷から戦闘機や爆撃機などの大型機の発着が不可能となったが、STOL性能を持つC-130やエレクトラ、フォッカーF28フェローシップ等の輸送機や長い滑走路が不要なマッキ攻撃機などは運用が可能であり、アルゼンチン軍は終戦間際までこの空港を活用しつづけた。この日はアルゼンチン空軍第6グループのダガー攻撃機によるイギリス海軍艦艇への最初の航空攻撃が行われ、上空警戒の任を受けていたイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアーとダガー攻撃機の援護で追従してきたアルゼンチン空軍第8グループのミラージュ戦闘機との間で空中戦が発生した。爆装した第6グループのダガー攻撃機3機は、ポート・スタンレー飛行場を艦砲射撃していた駆逐艦群に攻撃を行ったものの一部の艦艇に軽い損傷を与えただけに留まり、空対空ミサイルを装備して空中戦に参加した他のダガー攻撃機2機と前述のミラージュ戦闘機2機がシーハリアーによって撃墜されている。バルカン爆撃機を用いたブラックバック作戦はこれ以降も5月4日、5月31日、6月3日、6月12日など数回続けられたが、通常爆弾による滑走路破壊はほとんど失敗に終わる。ただし、シュライク対レーダーミサイルを用いたレーダー施設の破壊で一定の戦果を挙げている。4月末日、アルゼンチン海軍は接近するイギリス機動艦隊に対し、艦隊を三方向から向かわせていた。アルゼンチン海軍はベインティシンコ・デ・マヨの艦載機A-4スカイホークによる空爆とA69フリゲート群による対艦ミサイル、およびヘネラル・ベルグラーノの艦砲による挟撃を行い、イギリス機動艦隊へ大打撃を与える算段だった。ところがベインティシンコ・デ・マヨ空母の艦載機の発艦が不能となり、同空母機動艦隊とフリゲート群は攻撃を取りやめ、アルゼンチン本国側に撤収した。ヘネラル・ベルグラーノの艦隊は単独で南方の海域、封鎖海域の外に留まり続けていた。4月30日に同海域を哨戒中だったイギリス海軍の原子力潜水艦HMSコンカラー(S48)がヘネラル・ベルグラーノ艦隊を発見し、追尾。封鎖海域の外にベルグラーノはいたものの、全速で航行すればイギリス機動艦隊を6時間近くで射程に入れる距離にいたこと、同海域の水深からこれ以上北進されると追尾が難しくなる可能性があったことから、コンカラー艦長クリストファー・リーフォード=ブラウン中佐は衛星通信によりイギリス本国のイギリス艦隊作戦本部と機動艦隊司令部に通報し、指示を仰いだ。5月2日、イギリス艦隊作戦本部よりコンカラーに封鎖海域外での攻撃命令が下り、16時頃にコンカラーはヘネラル・ベルグラーノに4発のMk8魚雷を発射。内2発が命中し、艦首を喪失したベルグラーノはわずかな時間で撃沈された。多くの乗組員は救命ボートで脱出したものの、383人の乗員と共にベルグラーノは海に沈んでいった。残った駆逐艦イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナはコンカラーを追撃し爆雷で攻撃したとイギリス海軍は主張している。(アルゼンチン側の公式記録にはこれを裏付ける証言はない。)この後、アルゼンチン海軍水上艦部隊の主力艦艇は損失を恐れ、原潜が活動しにくい大陸棚から離れることはなかった。5月2日夜には撃墜されたキャンベラ爆撃機のパイロット捜索に派遣されたアルゼンチン軍哨戒艇2隻がイギリス海軍のリンクスAH.7ヘリコプターと会敵し、シースクア対艦ミサイル攻撃を受けて1隻が撃沈され、もう1隻も大破し撤退した。5月4日、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39でスタンリー南西75海里にいたイギリス機動部隊に攻撃を行った。リオ・グランデ基地より離陸した2機のシュペルエタンダールが空中給油を受けた後、友軍のトラッカー哨戒機の誘導を受けながらレーダーを切った状態で海上15mという低高度で接近していった。この超低空で接近する攻撃機隊をイギリス艦隊はレーダーで捉えることができず、シュペルエタンダールはイギリス艦隊近海でわずかに上昇してレーダーで艦船の1隻をロックオンし、エグゾセを発射して即退避した。発射された2発のエグゾセの内、1発が当時レーダーピケット任務中だったイギリス海軍42型駆逐艦シェフィールドに命中した。この1発は不発だったが、残っていた燃料の燃焼と命中による配電盤の損傷でダメージコントロールがほとんど不可能になり、同艦は炎上、乗組員は総員退艦した。その後上部構造物がほとんど焼き尽くされた状態で鎮火したシェフィールドは12型フリゲートヤーマスに曳航されるも、浸水が激しくなり5月10日に沈没した。なお、残る1発のエグゾセは射程外から発射されたため途中で墜落した。このシェフィールドの撃沈の他、イギリス機動艦隊は5月1日から10日の間にアルゼンチン海軍の209型潜水艦サン・ルイスから、たびたび魚雷攻撃を受け、対潜行動を強いられ艦艇の損失を避けるべく大幅にその活動範囲を狭めた。この為、イギリス、アルゼンチン両海軍艦艇同士による大規模な海戦は戦争の全期間を通じて一切行われず、その後艦艇への攻撃は航空機によるものが中心となった。5月14日から16日にかけてイギリスのSBSならびにSASの上陸作戦が行われた。5月14日にペブル島の飛行場をSASの中隊が襲撃し、駐機していたプカラ攻撃機などのアルゼンチン軍の航空機11機すべてを爆薬で破壊して撤退した。これによりアルゼンチン軍はフォークランド諸島の航空機の三分の一近くを一度に喪失するという大損害を受ける(ペブル島襲撃)。またSBSによる陸上への観測ポストの設置が行われた。この間、イギリス艦艇はポート・スタンリー周辺を陽動のため艦砲射撃している。5月16日にはフォークランド海峡にてアルゼンチン軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、リオ・カルカナーラがシーハリアーの攻撃を受け、バイア・ブエン・スセソが沈没、リオ・カルカナーラが座礁している。5月17日には増援としてイギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーによって輸送されてきたイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の6機が空母ハーミーズに配備され、対地攻撃への参加を始めた。また、エグゾセミサイル対策として欺瞞装置を搭載したリンクスヘリコプターも届けられ、空母二隻に配備。以後戦争終結まで何時でもスクランブル発進が可能なように甲板に待機していた。5月21日未明から午前中にかけて、SASがグースグリーン周辺に降下して陽動を行うと同時にイギリス陸軍空挺大隊を中核とする部隊が東フォークランド島西側のサン・カルロスに上陸を開始し、橋頭堡を築いた。イギリス軍は抵抗をほとんど受けずに上陸し、この作戦でのイギリス軍の損害はガゼル2機など軽微だった。イギリス軍の逆上陸を許したものの、5月21日午後からアルゼンチン空海軍機による海峡内のイギリス海軍艦艇攻撃が開始され、アルゼンチン軍機の爆撃により21型フリゲートアーデントが撃沈された。これ以外にも多くの艦艇が損害を受けた。しかし揚陸艦を含む上陸部隊に損害はなく、当日までに3000名の兵員と1000トンの物資が上陸した。イギリス側はこの日アルゼンチン軍機を13機撃墜した。5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機がアーデントと交代した21型フリゲートアンテロープを攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、アンテロープは翌24日に沈没した。このようなアルゼンチン軍機による攻撃に対し、早期警戒機を欠き、十分な哨戒時間が取れないシーハリアーによる防衛体制はほとんど機能しないままであった。さらに5月25日には、アルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦コヴェントリーと22型フリゲートブロードソードを攻撃し、コヴェントリーに爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。その直後、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイルエグゾセAM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーに命中し、アトランティック・コンベイヤーは大破炎上、5月30日に沈没した。アトランティック・コンベイヤーにより輸送されてきたシーハリアー、ハリアーGR.3はすでにハーミーズとインヴィンシブルに移動していたため、損害はなかったが、まだ積まれていたチヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機の計10機のヘリコプターが失われた他、軍用トラック、航空機整備部品、爆弾などの装備、臨時滑走路構築用の資材など大量の物資が失われ、その後のイギリス軍の作戦行動に大きな制約を与えた。特にイギリス陸軍はヘリコプターを多数失ったことで陸上における歩兵、物資の輸送に多大な影響を受け、臨時滑走路構築用の資材を失ったイギリス空軍はサン・カルロスに建設予定だったハリアー用臨時飛行場の規模大幅縮小を強いられ、航空作戦の計画を変更せざるを得なくなった。この日の攻撃ではアルゼンチン側も3機が撃墜されたが、この一連の攻撃を受けてイギリス海軍は4日間で2隻のフリゲート艦、1隻の駆逐艦、1隻の徴用艦の計4隻の大型艦船を失った。これは英国内で「第二次世界大戦時の(対日戦における)マレー沖海戦以来の失態」と呼ばれ、英国マスコミは海軍上層部を批判した。イギリス空軍第18飛行隊は4機のCH-47チヌークヘリコプターで構成される輸送部隊としてフォークランド諸島に増援として派遣された。ところが同部隊を輸送していたアトランティック・コンベイヤーがミサイル攻撃で撃沈され、第18飛行隊は撃沈直前に離陸して一足先にフォークランド諸島に向かっていた1機を除いて全機を失ってしまう。生き残った1機はフォークランド諸島に到着するも、コンベイヤーに積載されていた予備部品や工具なども失われていたため、ろくな整備ができない状況になり、大きな活躍はできないとされていた。しかしながら整備兵らの尽力により、同機は4月26日から戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送に活躍することができた。その奮迅ぶりから同機は無線のコールサイン『ブラボー・ノーベンバー』の愛称で兵士らから親しまれた。サン・カルロスから逆上陸を果たしたイギリス陸軍部隊は5月26日より東フォークランド島各所に進出を開始した。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれ南部のグース・グリーン、ポート・ダーウィン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊は北東のポート・スタンレー方面ケント山周辺へ進軍を開始。グース・グリーンへ進出したイギリス陸軍空挺連隊第2大隊約450名の軍勢は5月28日ごろにカミラ水路近辺にてアルゼンチン陸軍第2、第12歩兵連隊を中核とする約1600名の部隊と接触し交戦を開始、「グース・グリーンの戦い」が起きる。イギリス軍空挺連隊第2大隊は、第8砲兵隊の砲撃と空軍の第1飛行隊のハリアーの上空援護を受けながらアルゼンチン軍の陣地に進撃。一方のアルゼンチン側も、空軍第3グループのプカラ攻撃機等、航空兵力による阻止攻撃を幾度となく行い、守備隊の陸軍歩兵部隊も対空機関砲の水平射撃を行うなどして激しく応戦した。イギリス側はこの戦闘で空挺連隊第2大隊の大隊長である陸軍中佐が戦死するなど損害を受けるも、経験と装備に勝るイギリス陸軍はこの激戦を制して陣地を突破、飛行場を制圧するとアルゼンチン軍守備隊が立てこもるグース・グリーンの町を包囲。守備隊は降伏勧告を受け入れ、グース・グリーンは5月29日早朝にイギリス軍に確保された。この28日から29日にかけての戦いは陸上における最大の激戦となり、アルゼンチン側は250名以上が戦死。イギリス側は死者17名とアルゼンチン側と比べ少数ながらその内11名は大隊長を含んだ将校、下士官とその損失は小さくはなかった。ポート・スタンレー方面に進出したイギリス海兵隊第42コマンド大隊とSASは5月30日にポート・スタンレーを見下ろすケント山をほとんど大きな戦闘もなく確保するが、その夜にケント山奪還に差し向けられたアルゼンチン軍コマンド中隊との間で激しい戦闘が行われた。アルゼンチン軍コマンド部隊を退けたイギリス側はケント山に陣地構築を開始し、ポート・スタンレーの包囲体制に入った。グース・グリーンを確保されるなど、地上戦では徐々にイギリス軍に押されていたアルゼンチン軍であったが、空海軍機によるイギリス海軍艦艇への航空攻撃は続いた。5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。6月8日にイギリス海軍は徴用船キャンベラやクイーン・エリザベス2によって輸送されてきた増援兵力を強襲揚陸艦フィアレスを中核とした揚陸艦隊に移乗させ、フィッツロイにて揚陸作戦を行っていた。この動きをアルゼンチン軍はポート・スタンレーのレーダーで察知し、空軍機による攻撃をかけた。海岸の形状から陸上部隊の上陸に手間取っていた揚陸艦サー・ガラハドがスカイホーク3機の爆撃を受け、艦内にいた兵員46名が戦死するなど大きな人的損害を出して沈没した。同じくサー・トリストラムもスカイホーク2機の爆撃で大破し、その直後に海上を航行中だったフィアレスの揚陸艇F4号が爆撃で撃沈された。また、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦プリマスを直撃した。しかしいずれも不発でプリマスは対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜され、イギリス軍機1機もエンジン故障により不時着大破した。イギリスは、アルゼンチン空海軍機による猛攻により多くの海軍艦艇を失ったものの、陸軍の侵攻は続けられた。イギリス側はアルゼンチン軍守備隊に対して幾度となく降伏勧告を行うが、守備隊はそれを黙殺。6月12日にはスタンレーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38を発射し、駆逐艦グラモーガンの後部甲板に命中させ、不発ながら中破に追い込んだ。6月13日よりイギリス軍はスタンレーへの全面攻撃を開始。陸軍第2、第3空挺大隊は北側のロングドン山とワイヤレスリッジ方面を、スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊は「姉妹の尾根」を越え、ダンブルダウン山を越えるルートを侵攻、ウェールズ近衛大隊はハリエット山方面から侵攻した。イギリス軍は野砲や海軍艦艇からの艦砲射撃、ハリアーによる空爆などで援護しつつ、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車などを投入して進軍、対するアルゼンチン側は暗視装置を装着したライフルによる夜間戦闘やM2重機関銃による狙撃で対抗した。この時点でアルゼンチン側は敗戦ムードが漂っていたため、全体の士気が大幅に下がっており、各所でイギリス軍は容易にアルゼンチン軍陣地を突破することに成功していたが、一部の場所ではコマンド部隊など士気、錬度の高いアルゼンチン兵が残っており、特にロングドン山やダンブルダウン山での戦闘は熾烈を極め、塹壕を挟んでの手榴弾の投げ合いや銃剣を用いた白兵戦すら発生した。翌6月14日にイギリス軍は守備隊陣地を突破して首都ポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)へ肉薄。これを受けてアルゼンチン側は14日正午についに降伏。司令官マリオ・メネンデス准将は指揮下の9,800人の兵士と共に投降した。この12日から14日までの戦いで200人近いアルゼンチン兵が戦死し、イギリス兵も多数の死傷者を出した。スタンレーの陥落を受けて、翌15日にはガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を出したが、すでに求心力を失っており2日後に失脚した。6月20日にはイギリス軍がサウス・サンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終わった。LADE (Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」)の各機も空軍の下で輸送任務についた。フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に後方支援にあたったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。アルゼンチン航空等のエアラインも支援体制にあった。長距離洋上哨戒飛行のため(イギリス海軍艦隊の偵察)、武装を施していないアルゼンチン航空のボーイング707旅客機による偵察飛行がたびたび実施されたが、それに対抗するためにイギリス空軍がニムロッド哨戒機にサイドワインダーミサイルを4発搭載して偵察行動をとった結果、ボーイング707による偵察飛行は中止された。その他支援艦艇若干。クイーン・エリザベス2号、キャンベラ号、アトランティック・コンベアー(沈没)など徴用艦艇多数1982年アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリ大統領は「銃殺刑に値する」と言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還された。この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には三軍で7万1000人程になっている。また、イギリスがNATOやECの一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人国家アルゼンチンの多くの市民の先祖が住むイタリアや西ドイツ、スペインなどのEC加盟国はアルゼンチンへの経済制裁を発動した。多くの艦艇を失い、255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャー首相は続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ空軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。その後も両国の国交断絶状態が続いたが、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝でサッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランドチームに2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた。1989年10月にアルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。開戦当初、アルゼンチン海軍は空母、駆逐艦、揚陸艦、潜水艦など、主力艦艇を活用して揚陸作戦を展開し、フォークランド諸島を掌握することに成功した。だが、イギリスの海上封鎖発効後は到着したイギリス海軍の機動艦隊に対する空母、巡洋艦、フリゲートによる波状攻撃の計画は、空母ベインティシンコ・デ・マヨの不調による作戦の破綻と巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈により頓挫した。主力艦艇が大陸棚にくぎ付けになっている間も、フォークランド諸島への海上輸送や撃墜されたパイロットの救助等のために輸送艦や哨戒艇、沿岸警備隊のパトロール艇が活動していたが、イギリス海軍のシーハリアーやヘリコプター、フリゲート艦の攻撃に晒された結果、最終的に3隻の輸送艦、2隻の哨戒艇、1隻のパトロール艇が失われた。このように、水上艦艇はイギリス海軍に対して大きな活躍はできなかったもののアルゼンチン海軍の潜水艦の顕著な活動を複数挙げることができる。サンタフェ(A.R.A. Santa Fe) は4月2日にコマンド上陸支援を行い成功裏に帰還したが、4月25日にサウスジョージア島付近を水上航行中にイギリス海軍のヘリコプターに発見されロケット弾攻撃などで損傷、座礁し、乗組員は上陸後降伏した。ドイツ製209型潜水艦であるサンルイス(A.R.A. San Luis) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったとされる。このうち5月1日にはブリリアント、ヤーマスを魚雷攻撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日にはアロー、アラクリティに対し魚雷攻撃を行ったが失敗した。これらの失敗は、魚雷の調整失敗などによるとされる。その後もサンルイスは終戦まで海域にとどまったため、イギリス海軍はサンルイスの存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった。艦艇に膨大な損害を受けたイギリス海軍とは対照的に、アルゼンチン海軍の最終的な大型水上艦損失は巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノがイギリスのチャーチル級
出典:wikipedia
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