ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas, IPA: [ˈjʏʁgən ˈhaːbɐmaːs]、1929年6月18日 - )は、ドイツの哲学者、社会哲学者、政治哲学者である。ハバーマス、ハーバマスとも。フランクフルト学派第二世代に位置。公共性論や、コミュニケーション論の第一人者である。ドイツの哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマーとの論争、フランスの哲学者ジャック・デリダ、ジャン=フランソワ・リオタールとの論争、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンとの論争、また1986年6月にフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙に発表されたエルンスト・ノルテ()による論文「過ぎ去ろうとしない過去」に対して批判を加えたことによる歴史家論争()、アメリカ合衆国の法学者ジョン・ロールズとの論争でも有名である。東西ドイツの再統一に際しては、目先の経済的利益や、民族主義的に基づく性急な統合ではなく、「すべての人間にあてはまる規範を掲げる憲法を尊重せよ」とする「憲法パトリオティズム」を提唱した。1929年6月18日、ドイツのデュッセルドルフに生まれた。父はエルンスト、母はグレーテ。父がグマースバッハの商工会議所会頭でナチス党員であったこともあり、少年期を同地のドイツ少年団、ヒトラー・ユーゲントの一員として過ごし、敗戦を迎えた。1945年、ドイツ敗戦後にギムナジウムでの学習に戻った。アメリカ占領下での民主主義教育は、彼の思想形成に大きな影響を与えた。ゲッティンゲン、チューリッヒ、ボンの大学に通い、新カント派、現象学、哲学的人間学、歴史学、経済学、心理学、ドイツ文学を専攻。1952年より書評、批評をフランクフルター・アルゲマイネ紙などに寄稿し始め、1953年、同紙に『ハイデガーと共にハイデガーに反対して考える』という論文を寄稿して彼を批判。1954年にフリードリヒ・シェリングに関する論文によりボン大学で博士号の授与を受けた後、1956年、フランクフルト・アム・マインに拠点を戻していた社会研究所に入りテオドール・アドルノの助手を務めた。しかし翌年に発表した文章が、社会研究所の中心人物であったマックス・ホルクハイマーにとって暴力革命を肯定する急進的すぎる内容だととらえられ、ホルクハイマーは研究所からハーバーマスの排除を図った。この頃、ハーバーマスは代表的著書である『公共性の構造転換』の着想をえており、フランクフルト大学の教授職をもとめたが、ホルクハイマーの反対を受けたことから断念し、1959年に社会研究所を辞職した。『公共性の構造転換』を完成させたハーバーマスは、教授資格を取得し、1961年から1964年まではハイデルベルク大学において、1964年から1971年まではフランクフルト大学において社会学および哲学の教授。1964年にホルクハイマーがフランクフルト大学を退くと、後任としてフランクフルト大学教授の職についた。つづいて1971年から1983年までミュンヘン郊外のシュタルンベルクにあるマックス・プランク研究所所長を務めた後、1983年より再びフランクフルト大学教授に就任し、1994年に退職。ハーバーマスは、フランクフルト学派第二世代に位置するが、第一世代の批判理論を承継しつつも、これを批判し、彼らによって生に従属する道具的理性として貶められた理性の復権をめざす。ハーバーマスは、『公共性(圏)の構造転換』(1962年)において、公共圏は、言論や出版の自由を得て自由に討論することにより政治的に参加することができた18世紀の市民社会においては、専制政治を行う国家の権力による「封建化」に対抗して家族や職場等の私生活の領域を解放する仲裁役として理想的に機能したが、19世紀後半に現れた大手企業やメディアが国家を支配する高度資本化による大量消費社会においては、公共圏が「再封建化」されるという構造転換があったと主張する。ハーバーマスは、『コミュニケーション的行為の理論』(1981年)では、20世紀において再封建化が進み衰退した公共圏の理想的な姿を取り戻すためには、人と人が相互の了解を追求・達成するコミュニケーション行為によって人を理解し、普遍的な社会批判の根拠を成し、より民主的な社会伝達や交流を可能にする、と主張した。マックス・ヴェーバーによれば、近代の合理化の進展につれ、それ自体が自己目的化し、本来人間のための合理化が逆に人間を鉄の檻のように包囲し、規定するという逆説的な状況が生まれた。彼の近代合理主義論を承継したマルクスやホルクハイマー、アドルノらフランクフルト学派第一世代は、社会の合理化を目的合理性のみととらえたところに過ちがあり、このようなシステム合理化のみならず、それと並行しておこった生活世界の合理化に着目すれば、近代的な理性を復権させることができるとする。ハーバーマスは、現代社会では科学技術が個人の思想とは関係なく客観的に体系化されており、目的合理性において科学技術の体系は絶対的な根拠を持っているとした。ゆえにあらゆる政治行為の価値はまず目的合理性において科学的あるいは技術的に正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、イデオロギーが何らかの制度を社会に確立するときに目的合理性に合致しているかどうかということは大きな影響を持つとされた。ときにはこのような目的合理性がそれ自体で支配的な観念となり、人間疎外をもたらすと指摘した。すなわちこのような目的合理性が支配的な社会では、文化的な人間性は否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていくと警告したのである。ハーバーマスは、『社会科学の論理』(1967年)において、ガダマーの主著『真理と方法』における「理解されうる存在は言語である」とのテーゼを労働と支配という社会の実在連関を捉え切れていない言語の観念論であり、言語は制度化された暴力を正当化する道具にもなりえると批判すると、同年、ガダマーは、『修辞学・解釈学・イデオロギー批判』において、社会的現実的強制もまた言語的に分節化されなければならないと反論し、論争に至った。その後、ハーバーマスは、『解釈学の普遍性要求』(1970年)において、「深層解釈学」、「普遍的語用論」という視点を基に、ガダマーの主張する伝統による言語によって見出される真理とは体系的に歪められたコミュニケーションかもしれず、保守的なイデオロギーとして機能すると再度批判し、ガダマーも再反論した。1968年に開催されたドイツ社会学学会でニクラス・ルーマンが『全体社会の分析の形式としての現代システム論』との報告を発表すると、ハーバーマスは、これを批判する論文を発表した。『近代の哲学的ディスクルス』(1985年)において、ジャック・デリダとジョン・サールの論争に触れ、サールの言語行為論を支持した上で、デリダとデリダ派を批判した。彼によれば、ポストモダンの思想は、ヘーゲル右派の潮流をくむ「新保守主義」とニーチェの潮流とする「美的アナキズム」に大きく分かれ、後者はさらにバタイユ、ラカン、フーコーらの「懐疑的科学」の潮流と、ハイデッガー、デリダの「形而上学批判」の潮流に分かれるが、美的アナキズムは、近代の理性が自らの足元を攻撃し、掘り崩すという自己関係的な批判を楽しんでいるだけでなのである。理性を批判する反理性の言説も理性によりなされるのである。1986年、歴史家エルンスト・ノルテがフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙に「過ぎ去ろうとしない過去」を発表。その内容は、比較史の観点からアウシュビッツと他の大量虐殺との類似点を指摘し、アウシュビッツという過去も人類の歴史の中では決して特異なことではないというものであった。これに対し、ハーバーマスは、『ツァイト』紙に『一種の損害清算』との論文を寄稿し、これをきっかけに2年に及ぶ歴史家論争が開幕した。ロールズが『政治的リベラリズム』(1993年)を出版すると、ハーバーマスは、『ジャーナル・オブ・フィロソフィー」紙に「理性の公共的使用による宥和」と題する論文を寄稿し、ロールズが原初状態という実体的概念を用いて近代的理性の普遍性を導き出すという方法論には難点があると批判し、むしろ理性の公共的使用という手続的な概念による代案を提示した。
出典:wikipedia
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