倭城(日本語読み:わじょう、朝鮮語読み:ウェソン)は、文禄・慶長の役に際して日本軍が朝鮮半島の南部各地に築いた日本式の城(城砦群)を、朝鮮側が呼んだ呼称である。倭城という呼び方は元々朝鮮側が使った呼び方であり、日本で使っていたわけではない。日本側では意識されないが、元来中国および朝鮮半島において倭を使用して単語を構成する場合、日本に対する賤称、侮蔑の意味合いを含む。日本の石垣の技術は7世紀半に百済から伝えられたものである。長じて戦国時代に培われた戦国武将の経験によって大幅に向上した築城技術が用いられたので、それまで長らく戦がなかった李氏朝鮮の城(城邑)に比べて防御力が高く、遥かに実戦的であったことに特徴がある。和平が結ばれて慶長の役が終わるまで、明・朝鮮の攻撃を受けても落城することは一度もなかった。日本の城郭建築史において、文禄・慶長期の築城技術を示す重要な遺構とされるが、朝鮮半島では天守・櫓・城門や塀が残っている城は一つもなく、石垣や遺構だけが現存している。石垣も、撤退後または和平時に角部が破壊(破城)されている箇所もある。いくつかの倭城は公園となり、その他の多くは丘の上や林の中に石垣が残存し、いくつかは消滅した。韓国政府や地元自治体は、ある程度の保護をしている。一部には復元作業が行われている倭城もあるが、石垣に傾斜を付ける本来の姿ではなく、朝鮮風に垂直に積み直す誤解も生じている。日本と同様に、必要のない積み直しも行われ、荒廃が危惧されている。倭城の一覧を示す(ほぼ北から順)。なお中国の遼寧省にも「倭城」という地名があるが、こちらは地名であり、本項で解説する倭城とは異なる。
出典:wikipedia
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