三船 敏郎(みふね としろう、Toshiro Mifune、1920年4月1日 - 1997年12月24日)は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ。黒澤明とともに、敗戦で打ちひしがれていた日本が世界から尊敬されるきっかけを作った人物の一人とも言われる。ヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、日本では世界のミフネと呼ばれた。英語圏では、The WolfやThe Shogunなどと呼ばれた。墨映画『価値ある男』、米映画『グラン・プリ』、『太平洋の地獄』、米ドラマ『将軍 SHOGUN』、仏映画『レッド・サン』などの出演もあり、日本が誇る国際スターのみならず、「国際的映画人」として世界中の映画関係者に影響を与え、尊敬された(⇒#世界のミフネ・#映画人の評価参照)世界的名優であり、アクションスターである。出演料収入も歴代の日本のスターの中で別格であり、2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の1位に選ばれた。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』でも依然として日本映画男優1位となっている。経営する三船プロダクションは東京世田谷区に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、「都内で唯一時代劇が撮影できるオープンセットを持つスタジオ」として各社に重宝がられた。多数の専属スタッフを抱える製作会社だったが、1979年に内紛騒動が起きたため1984年に撮影所を閉鎖、経営縮小を余儀なくされた。元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻(元女優の吉峰幸子)との、タレントの三船美佳は内縁の妻(女優の喜多川美佳)との間にもうけた子供。栄典及び称号は、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章・ロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位。ブルーリボン賞歴代最多(6度)入賞者でもある。京都国際映画祭では、国際的な活躍が期待される俳優におくる「三船敏郎賞」が定められている。以下、氏名の表記は特記を除き「三船」で統一する。1920年(大正9年)、三船徳造と三船センの長男として、中華民国山東省青島市(同市は1914年より1922年まで日本の占領下)に生まれた。父・徳造は、秋田県由利郡川内村小川(現・由利本荘市鳥海町小川)の16代続く名家・三船家の次男であり、貿易商および写真業も営んでいた。徳造は、元は日本で医者を目指していたが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたという。1925年(大正14年)、一家は大連に移り住み、父・徳造は「スター写真館」を開業。1934年(昭和9年)、大連中学校に入学。三船は若い頃からワルだったと言うが、1938年(昭和13年)、大連中学を卒業。1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就いた。これが父母との永遠の別れになった。中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟し、父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、そこでのしごきが凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、テレビのインタビューで語った。そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。息子の史郎の話では、上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、その出来が良かったので教育隊に残るように言われ、仲間はみな南方の戦地に赴いたが、そのおかげで生き残ることが出来たと、忸怩たる思いで語ったという。また、三船は後年まで、カメラに対するこだわりが深かったという。その後、1941年(昭和16年)、内地で、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。)1943年(昭和18年)に同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる。1940年(昭和15年)、三船は先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われた。が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任された。自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという。長男 史郎の話によると、明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったという。また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った。1945年(昭和20年)、特攻隊基地で終戦を迎える。その後、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になり、毛布1枚と米をもらって上京する。三船は大山との約束を頼りに復員服のまま大山を訪ね、撮影助手採用を願い出た。ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船は面接を受けることになった(本土復員に伴って復帰社員が増加したことから縁故採用が難しくなっており、大山が三船に「とりあえず第1回ニューフェイス募集をしてるから受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と助言したために、不本意ながら俳優志望として面接を受けることになったという説もある)。うしおそうじは当日、スタジオに向かう小田急線の中で三船に再会しており、「今日はどちらへ?」と聞いたら「大山の勧めでニューフェイスの面接に行くんだ」と話しており、三船はニューフェイスの面接を受けることを不承不承に承知していた。面接会場の窓は開け放しで既に撮影部でも有名な存在だった三船に対し、審査員が「笑ってみてください」と言われた際、窓の外から「早く笑え!」と囃され、困っている自分をからかって馬鹿にしているのだと思ったという。三船は指示に対して、「面白くもないのに笑えません」と答え、ふてぶてしい態度を取った。ただその場にいた1人の映画監督だけが喜んで、「こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう」と言い、「まったく野蛮な奴だ」と他の人から抗議もされたが、「いつか野蛮な役をやらせればいいさ…」と反論した。結局、性格に穏便さを欠くという理由で不合格、という結論が出た。ところが、当時、会場に居合わせた女優の高峰秀子は、三船の存在感に胸騒ぎを感じており、彼女は撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に、三船のことを知らせた。駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じた。審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じだった。当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労働組合代表の半数ずつで構成されており、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて形式的には補欠採用となり、思わぬ形で役者の世界に入った。東宝第1期ニューフェイスの同期に久我美子、堀雄二、伊豆肇、若山セツ子、堺左千夫らがいる。もっとも、黒澤がこの主張をしたのは自伝「蝦蟇の油」からであり、この説を裏付けるものは何もない。なお、阿部嘉典著「映画を愛した二人/黒澤明・三船敏郎」(報知新聞社)によると、元東宝・山田一夫カメラマンの証言で、撮影部に履歴書がきたが東宝争議の影響もあり欠員が出ないと採用できなくて、山本嘉次郎監督に頼んでニューフェイスの試験を受けさせて、撮影部に欠員ができたら引き取るという話があったというのである。これが事実なら三船をニューフェイスで合格させたのは、山本監督にとって予め予定されていたことになる。三船本人も1984年のキネマ旬報のインタビューで「山本さんは真っ先に自分を不採用にした人である」と述べている。一方、松田美智子著『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年1月)によれば、当時撮影部の係長をしていた山田とニューフェイスの審査員の一人だったキャメラマンの三浦光雄と二人で山本審査委員長に頭を下げて、撮影部に欠員が出たときに引取るからどうか採用してほしいと頼んだと書いている。ちなみに後年、三船は、山田を三船プロに迎えいれて、作品の撮影を依頼している。この説は三船本人も含め、多くの関係者が証言している。1947年(昭和22年)、「撮影部の空きを待っている」という三船を映画監督の谷口千吉が説得し、映画『銀嶺の果て』(監督:谷口千吉、脚本編集:黒澤明)で役者としてデビュー。雪山で遭難する3人のうちの1人を演じて話題となる。このとき谷口は、野生的な男を探していて、同じ電車の乗り合わせた三船をみて、誘うことを決める。しかし、三船は、「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断った。あくまで撮影部を希望していたが、谷口は、三船の着ていたものが航空隊の制服だったこともあり、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示したという。ちなみに3人のうちの2人目は志村喬だった。この映画で黒澤は自分が感じていた三船のたぐいまれな才能を確信する。1948年(昭和23年)、デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。この映画で三船敏郎を初めて起用した黒澤明は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返り語っている。この後、東宝争議が激化したため、撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する。1949年(昭和24年)、『静かなる決闘』、『野良犬』を主演。1950年(昭和25年)、『醜聞(スキャンダル)』、『羅生門』を主演。羅生門は1951年にヴェネチア映画祭で金獅子賞を取り、「世界のミフネ」の起点となった。1951年(昭和26年)、『白痴』を主演。この映画の撮影の際に、黒澤が精神的重圧のあまり近くにあったナイフで手首を切ろうとしたところ、三船がナイフを取り上げて止めた。1954年の『七人の侍』は、志村と共同主演の形だが、ドラマ上では沈着冷静なリーダーの志村以上に一行のもてあまし者の三船の方にスポットが当てられており、クレジット上でも上位の扱いである。随所に見られる菊千代のおどけた場面は三船の演技プランであった。1955年(昭和30年)、『生きものの記録』で老人役を主演。1957年(昭和32年)、『蜘蛛巣城』を主演。この撮影時、黒澤が三船に向かって本物の矢を射させた。後に三船は酒に酔った時にこのことで激怒して散弾銃を持って黒澤の自宅に押し掛けたというエピソードがある。同年に『どん底』を主演。1958年(昭和33年)、『隠し砦の三悪人』を主演。1960年(昭和35年)、『悪い奴ほどよく眠る』を主演。1961年(昭和36年)、『用心棒』を主演。この映画でヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞。1962年(昭和37年)、『用心棒』の続編的作品である『椿三十郎』を主演。最後の決闘シーンにおいての三船の居合はわずか0.3秒であり、三船自身が思いついた殺陣だった。1963年(昭和38年)、『天国と地獄』を主演。1965年(昭和40年)、『赤ひげ』を主演。この映画で2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞受賞。この作品を最後に黒澤明が監督した映画には出ていない。同年、黒澤プロ製作の『姿三四郎』に出演。デビュー作『銀嶺の果て』を始めとする黒澤と三船の両名がクレジットされた最後の映画となる。黒澤明は撮影現場において「クロサワ天皇」と揶揄されるほど妥協を許さない監督として君臨していたが、三船に関しては三船の演じたいように演じさせており、黒澤の三船に対する信頼の高さが窺える。野上照代によると、撮影中でも黒澤は三船の演技に注文をつけたことは無く、およそ、批判的な眼で三船を見ることは無かったという。また、三船が製作に関わることもあり、三船のノートには細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていて、黒澤作品には三船のアイデアがたくさん詰まっている。「三船無くして黒澤無し」と言われるほど黒澤作品には欠かせない存在であり、『醉いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『生きる』1作のみで、現代劇・時代劇問わぬ黒澤映画の顔であった。黒澤明は、三船敏郎のベネチア映画祭の男優賞の授賞式で 「僕がもらった賞の半分くらいは三船にやるべきだと思ってたが、今日三船が受賞したからその必要もなくなった」と言って三船を評価している。当時のインタビューで「三船がいなくなったらどうなる?」という質問に対し、「僕はもう映画が撮れなくなるかもしれない」と答えている。また「何故、三船ばかり使うのか?」との質問には「日本中探してもあんな役者はいないから」と答えた。『赤ひげ』を最後に黒澤映画に出演しなくなってからも、三船は『デルス・ウザーラ』を撮影している黒澤をロシアまで訪問したり、『荒野の素浪人』に『用心棒』を元にした役を出すにあたって黒澤に手紙で許可を貰うなど二人の交流は続いた。『トラ・トラ・トラ!』で黒澤が20世紀フォックスに解任されたときも黒澤を励ましたという。後年、三船は思い出深い黒澤映画として『用心棒』、『七人の侍』、『羅生門』、『赤ひげ』、『白痴』を挙げている。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」とコメントした(ちなみに、三船の死から8か月後に黒澤も死去)。三船は志村喬とデビュー作「銀嶺の果て」を皮切りに51本の映画と2本のドラマ(2本とも三船プロダクションのドラマ)で共演した。黒澤作品では、三船と志村は対照的な役柄を演じることが多い。『静かなる決闘』では、二人は親子役を演じた。三船は戦争の際に徴兵されてそのまま両親と生き別れになったことから、志村夫妻を実の両親のように慕っていたという。デビュー後まもなくは志村の自宅に下宿していた(当時の三船への手紙にははっきりと「志村喬方」と明記されている)。『七人の侍』の頃、志村は三船の親代わりで、ロケの時、他のスタッフが個室の場合でも、志村と三船はいつも同室だった。大酒飲みの三船に対して、志村は酒を嗜まなかったので、三船はいつも土屋嘉男などの部屋を訪れ、酒をあおっていたという。この親子のような関係は、黒澤が『醉いどれ天使』の頃になんとなく、志村に三船の親代わりを頼んだことに起因しているとのこと。最後の共演は熊井啓の「お吟さま」で三船は豊臣秀吉、志村は千利休で出演。撮影が終了した際、三船は深々と志村に最敬礼をし、「また、一緒に仕事をする日を楽しみにしています。」と慇懃に挨拶する姿に熊井は大変感銘を受けた。熊井はこの10年後、今度は三船を千利休役で起用している。また、TVでの最後の共演は三船プロ製作の『剣と風と子守唄』の最終回で三船扮する主人公、砦十三郎の師匠という役柄だった。公私のみならず、役どころにおいても師弟関係を貫いたといえる。三船が世帯を持ってからも、家族ぐるみの親交は続いた。三船は1997年に全機能不全で死去したが、最期の1週間は、目も口も閉ざしたままで、反応はほぼなくなっていた。その頃に志村喬夫人、島崎政子が三船を見舞った。島崎が、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まして、頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたという。羅生門、七人の侍、用心棒、赤ひげなどで黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船敏郎は世界中からオファーが舞い込むようになる。海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っている。1961年(昭和36年)、初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は、主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年のアカデミー賞に外国語映画部門でオスカー賞にノミネート、1961年に『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞受賞、1962年のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年のサンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、このときの国際的活躍により、1961年ブルーリボン賞特別賞を受賞。この際に「昨年は日本映画に出たのは『用心棒』だけでしたが、それで賞をいただいて申し訳ないような気がします。わざわざメキシコまで行った苦労が皆さんに認められたわけで、まあ、努力賞のようなものでしょう」とコメントしている。1966年(昭和41年)、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『グラン・プリ』で初めてハリウッド映画に出演し、この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞受賞。その後も、『太平洋の地獄』や『レッド・サン』、『太陽にかける橋 ペイパー・タイガー』などで海外のスターと共演する。『スター・ウォーズ』や『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』、『ベストキッド』は、オファーを断っている。 1962年(昭和37年)、日本映画産業の再興のために、三船プロダクションを設立して、翌年には兵庫県宝塚市にある宝塚映画(現・宝塚映像)にて、映画『五十万人の遺産』を自らの主演で初監督した。『五十万人の遺産』は1963年(昭和38年)の日本映画の興行成績で7位となるが、この作品を最後に三船は映画監督をすることはなかった。1966年(昭和41年)、東京都世田谷区成城と調布市入間町にまたがる敷地に、時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。五大映画会社並みの規模のプロダクションとなる。1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションの合同制作の映画『黒部の太陽』を主演。1969年、監督に稲垣浩を迎えて、中村錦之助、石原裕次郎らとともに『風林火山』を作った。この2作品はそれぞれ、その年の日本映画の興行成績1位となる。『桃太郎侍(1967年、日本テレビ系、主演:四代目尾上菊之助)』を皮切りに、西部劇を時代劇風に翻案し、黒澤作品での浪人「三十郎」を想起させる主役を演じた『荒野の素浪人(1972年、NET系)』、NHK大河ドラマに比肩する規模の大作『大忠臣蔵(1971年、NET系)』、萬屋錦之介主演『破れ傘刀舟悪人狩り(1974年、NET系)』などテレビドラマも制作し、時代劇の歴史に一石を投じた。1979年(昭和54年)、東宝助監督から三船プロへ移籍し、役員となっていた田中寿一が竜雷太、阿知波信介らとともに大量離脱して三船プロから独立、田中プロモーションを設立した。この内紛が原因で三船プロは大打撃を受け、三船の権威は傷をつけられ、以後、三船は、『日本海大海戦 海ゆかば』を除き、邦画において主役を演じることはなかった。現在も三船プロダクションは小規模ながら活動している(⇒三船プロダクション参照)。三船は1950年(昭和25年)、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚、同年に息子の三船史郎をもうける。幸子は四十五年にわたる結婚生活を、「次男坊(武志)が十歳になるくらいまではよかった」と、友人に語っており、1970年(昭和45年)あたりまで夫婦関係は順調だったことがうかがえる。1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた幸子により、三船は家から追い出される。しかし本心は三船との関係修復を望んでいたという。そのため、幸子は自分から三船を追い出したが、三船が離婚しようとするとこれを拒否。幸子は三船側より離婚訴訟が起こされるに及んだが、離婚届に判を死ぬまで押さなかった。この離婚裁判の間に三船は女優・喜多川美佳と交際し、1974年に来日した米フォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では喜多川美佳を妻として同伴して出席している。1982年、喜多川との間に娘(三船美佳)をもうけ、喜多川の芸名である「美佳」を娘にそのまま付けた(喜多川の本名は大野照代)。娘・美佳が生まれて間もないころ、三船は喜多川と娘・美佳を連れてマスコミの前に現れて親子三人の写真を撮らせている。娘の美佳とはかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったという。けれども、1992年(平成4年)に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は喜多川美佳から関係を解消され、三船の看病を希望した幸子のもとに戻った。それ以後、幸子は時節体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係であったという。1995年、幸子が死去し、45年間の結婚に幕が下りた。晩年は山田洋次監督『男はつらいよ 知床慕情』(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の『竹取物語』(1987年)の竹の造翁、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』(1989年)の千利休、『深い河』(1995年)の塚田など、渋い演技を見せた。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。1988年(昭和63年)、『男はつらいよ 知床慕情』と『竹取物語』でブルーリボン賞助演男優賞を受賞。1988年(昭和63年)、第6回川喜多賞を受賞。1993年(平成5年)、勲三等瑞宝章を受章。このころより体調がすぐれないことが多くなる。1997年(平成9年)、12月24日午後9時28分に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』(熊井啓監督)だった。生前の意向で葬儀は執り行われず、没後、一月経った翌年の1月25日黒澤プロ=三船プロ=東宝合同のお別れの会が青山斎場で催された。その祭壇は黒澤プロが製作、主演作『蜘蛛巣城』をイメージした背景にその主人公、鷲津武時の兜を飾ったものになっていた。(以後、葬儀と記されているものは全てこのお別れの会のことを指す)余談ではあるが、同年、没した黒澤明の祭壇は『乱』をイメージしたものになっていた。共に生前の黒澤のアイディアに基づくものである。同年暮れに催された一周忌の偲ぶ会では、生前、CM出演したサッポロビールや、大塚製薬の飲み物が提供された。三船の部屋は2016年現在でも生前のままの状態である。戦争時の飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートが最後のままの状態にあり、その他、古いいろんな物が残っている。長男の史郎はあとでこれら遺品の数々を見て三船のことを偲ぶことができる資料館のようなものを作る計画を明らかにしている。三船は没後、百か日を経て、神奈川県川崎市の春秋苑に建立された先祖代々の墓所に納骨された。2016年にハリウッド殿堂入りすることが発表された。黒澤作品以外にも稲垣浩監督の『戦国無頼』(1952年)、『宮本武蔵』(1954年)(アカデミー賞外国語映画賞受賞)、『無法松の一生』(1958年)(ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞)など13作品、岡本喜八監督の『侍』(1965年)、『赤毛』(1969年)など8作品、熊井啓監督の『黒部の太陽』(1968年)、『お吟さま』(1978年)、『千利休 本覺坊遺文』(1989年)(ヴェネチア映画祭銀獅子賞・監督賞受賞)、『深い河』(1995年)など4作品と数多くの作品に出演。初期のころは『七人の侍』の影響か豪放な役が多かったが、その後戦国武将や東郷平八郎・山本五十六といった軍人・偉人の役を演じるようになった。『日本の首領シリーズ』(1977 - 1978年)で初めて東映作品に出演したが、当時、社長だった岡田茂は「三船さんの当社作品への出演は悲願だった」と語った。『黒部の太陽』、『風林火山』、『待ち伏せ』、『1941』など映画の製作にかかわることもある。三船敏郎の声は、英語吹き替え版ではポール・フリーズによって吹き替えられた。また、レッド・サン日本語吹き替え版では大塚明夫、川合伸旺、森山周一郎が声の担当をした。黒澤映画では、『醉いどれ天使』の哀愁を帯びて落ちぶれていくヤクザ役、『七人の侍』の菊千代のような破天荒な三枚目役、『用心棒』・『椿三十郎』の三十郎のような善人でも悪人でもない超人役、『野良犬』での刑事・村山のような純粋な二枚目青年役、『静かなる決闘』での繊細な役、『悪い奴ほどよく眠る』の知的な秘書役など幅広い役を演じた。『羅生門』の山賊、多襄丸(たじょうまる)や『七人の侍』の菊千代などの役で、男の可愛さを表現することもある。『生きものの記録』(当時、三船は35歳)の70歳の老人役、メキシコ映画『価値ある男』のオアハカのインディオ(メキシコ人)役など現実の三船とは乖離した役も演じた。1970年のサッポロビールのCMでは寡黙で重厚感あふれる男を表現した。成瀬巳喜男監督の『石中先生行状記』・『妻の心』、溝口健二監督の『西鶴一代女』では、黒澤映画で見せる男性的魅力とは異なる側面を見せた。千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』では無口で内気で善良な男を演じている。深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』・『赤穂城断絶』ではオールスターキャストの時代劇映画の格調を高める脇役として出演し、重厚な演技を見せている。香川京子と夫婦役あるいは恋人役を演じることが多い。三船のノートには、細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれており、『七人の侍』の菊千代や『用心棒』の桑畑三十郎などの地でやっているような演技は、実は周到に計算されたものだった。アクション俳優としての一面もあり、その軽快な体さばきや体格の良さで迫力のあるアクションをすることも多い。特に、殺陣の腕前に関しては、黒澤をして「殺陣のオリンピックがあれば金メダルがある」と言わしめるほどである。殺陣師の宇仁貫三は、三船の殺陣の特徴として、迫力と眼光の鋭さをあげる。撮影で切りに行こうとしても、なかなか行けなかったという。さらに立ち回りでは、生身に当てて、その反動で次の相手を切っていたという。終わった後、ミミズ腫れが今日は何本入ってるか、数えていたと語っている。また、『用心棒』における三船の殺陣は凄まじく早かったことを黒澤明は後に述べている。撮影時に三船が本気で刀を振ったら速すぎて太刀筋がカメラに映らなかった。フィルムのコマひとつひとつには光が流れているだけのように見え、映してみてはじめて刀の動きがわかる程度だった。『価値ある男』ではメキシコの軽快なダンスをそつなくこなしている。2007年、米誌「Entertainment Weekly」の「25 Awesome Action Heroes(尊敬すべきアクションスター25人)」に選ばれた。また、『無法松の一生』では太鼓の腕前を披露した。存在は「振動」している。三船の身長はこの「振動」が顕著であり、180cm弱を振動中心としている。高いときは185cmほどあり、低いときは175cmほどである。三船と多くの作品で共演した土屋嘉男もこのことを指摘している。また、生涯太ったことがない。元来は俳優業を「男は顔で売るべきではない」と嫌っていたが、後に「俳優は人間の屑(くず)ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。何故(なぜ)なら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」と俳優業を誇るようになる。三船は、撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。三船のノートに細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていたという逸話からも、仕事への真摯な態度が伺える。『用心棒』の三船は本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていて、カットの声がかかると肩で息をするので、共演した司葉子が当時を振り返り、撮影中の三船は命がけで演技をしていたと語ったエピソードもあるほどである。また、三船は日本人であることに誇りを抱いており、「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」と語っている。「残酷な軍人やエコノミックアニマル。日本人は、そんなやつらだけじゃあないと、世界中に知らしめたいんだ」と海外作品のロケ中に、親しい人に吐露したこともあったという。『007は二度死ぬ』のロンドンでの撮影の際に浜美枝がダンスホールに誘われて踊っていたところ、ちょうどロンドンに滞在中だった三船敏郎が間に入って来て、刀を抜く真似をし、「日本人の誇りを忘れるな」と一喝したこともあった。三船は時代劇に出演するにあたって三船家の家紋の入った着物を着用するなど、両親と先祖に対する思い入れは相当なものだった。なお、三船プロダクションのロゴマークも三船家の家紋である。映画では『七人の侍』の菊千代のような豪放磊落な役を演じることが多く、実際そのような一面があり、豪快な逸話が多数ある(⇒#逸話参照)。また、一方で、東欧のベテラン女性学芸記者との対談で彼女に「私はミフネが世界で一番好き。だってセクシーでキュートだもの」と言われて顔を赤らめる、淀川長治にパーティで「あんたは綺麗だねぇ」と言われ「俺、きれいだなんて言われたのは初めてだ。」と照れ笑いするなどの可愛らしい一面もある。三船が助演で6度目のブルーリボンに輝いた際には、「まさか賞をいただけるとは思わなかった。寅さん(『男はつらいよ 知床慕情』)ですよね? 手応えあったかと言われても『竹取物語』と掛け持ちでちょっとしか出てなかったし、俺はああいう無骨な役しかできないし」と三船にとっても驚きと戸惑いの方が大きかったようで、受賞インタビューでは「まあ、いただけるものならありがたくちょうだいしますよ」と最後まで照れていた。三船はトップスターながら偉ぶらず、付き人もなしで、自分で車を運転して撮影所に現れて、誰に対しても気取らずに親しんで挨拶をした。エキストラにも挨拶をするので、スタッフがあわてたという。三船は映画に対する姿勢は、非常に真面目かつ真剣であり、撮影現場に遅刻したことが一度もなかったという。また、あらかじめ台本を全部覚えてくるので現場に台本を持って来ず、その影響で東宝ではそれが当たり前の慣習となった。三船はロケが終わると、ライトの片づけ等を手伝うなど気さくな性格だった。ある海外の記者も、「彼(三船)の個性からにじみ出る簡素な自然の心で、暖かくありのままに人と同じ目線で駆け引きなしで接した。将軍(三船)から発せられるオーラにより、会って数分で人はだれでも彼のことを好きになってしまう。私とも昔からの友人かの如く話をしてくれた。」と三船の気さくさを書いた。ゲスト主演をした『男はつらいよ 知床慕情』では、大きなキャンピングカーを運転して撮影に現れた。その撮影現場では、三船は周囲に気を遣い、キャンピングカーに撮影スタッフや役者を呼んで、お茶会を開いたという気さくなエピソードがある。黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがある。ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもあったが、三船はそれでも微動だにせず待機していたという。このように、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかった。スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていた。このように、周囲への心遣いを忘れない繊細さも多分に持ち合わせていた。“世界のミフネ”となり世界中を行き来するようになっても、特別扱いを嫌って、付き人もつけずに飛行機に乗った。車を趣味としており、1952年型MG-TDを45年間愛用。その他、米映画『グラン・プリ』出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数を所有した。また、船好きでもあり、モーターボートを所有していた。ジャパン・モーターボートクラブの会長に就任していたこともある。ちなみに、このモーターボートで災害時に18人の人を救出したことがある(⇒#逸話参照)。フランスやアメリカでボート遊びをしていた際に近くを客船が通り、その乗客からの“ミフネ”コールが起きたというエピソードがある(⇒#逸話参照)。軍隊で炊事をやっていたこともあり、料理を得意としている。また、毛布からズボンを作るなど裁縫もこなし、掃除好き、達筆であるなど器用な一面もある。銀幕の外では、洋装をよく着た。その洗練された着こなしは、現在のファッション界にも影響を与えている。例えば、ポロシャツのボタンをいちばん上まで残らず留めたり、ズボンの裾を折り返してスウェードの靴を履いたり、長すぎる髭にスリーピースのスーツを合わせるという先進的な服飾を取り入れていた。「ヨーロッパ人でも稀なほどにスーツを着こなし、アメリカ人にもそうはいないほどスポーツウェアが似合った」と評される。新旧折衷、和洋折衷であり、服飾においても、グローバル性を纏っていた。映画監督、映画プロデューサーや三船プロダクションの社長としても活動。巨泉のワールドスタークイズ、悪友親友、ドリフ大爆笑、今夜は最高のようなバラエティ番組にも出演した。1975年にドイツのミュンヘンで日本料理店「ジャパン・レストラン三船」をオープンし、経営した。1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。世界中のトップスターたちから「最も尊敬する俳優」と慕われ、共演を熱望された。1961年に初の海外作品『価値ある男』(メキシコ映画)ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。また、世界三大映画祭でも三船は評価された。三船が主演または準主演を務めた、映画の三大映画祭での受賞歴・コンペティション部門出品(最高賞ノミネート)歴は、以下の通り。ちなみに、三船が出演した映画の英国アカデミー賞、米国アカデミー賞受賞歴・ノミネート歴は、以下の通りである。三船が出演したドラマのエミー賞受賞歴・ノミネート歴に関しては、以下のようになっている。三船敏郎が主演を演じた『用心棒』(1961年) は全世界で人気を博し、全世界の映画関係者の教科書的存在になった作品。この作品のコピー作品から、マカロニウェスタンという映画のジャンルが 生まれ、クリント・イーストウッドが一流スターの仲間入りを果し 欧州でサムライブームを引き起こした。チェ・ゲバラは『用心棒』に感銘を受け、桑畑三十郎の恰好までするほどのファンであった。『マトリックス』『ボディガード』『スター・ウォーズ・シリーズ』を始め、影響を受けた作品は 数知れず、ブルース・ウィリス主演で『ラストマン・スタンディング』という題名で、完全リメイクまでされている。三船敏郎が重厚感溢れる千利休を演じた1989年の『千利休 本覚坊遺文』は、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、とりわけ三船の演技が絶賛された。アラン・ドロンは三船を『日本の兄』や『神のような存在』と形容するほど尊敬し、自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。また、20世紀を代表する世界的な有名俳優であるマーロン・ブランドも飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔電を(アラン・ドロンと同様に)送っている。1975年、『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービ役のオファーを受けるもNETとの番組出演製作契約のため断る。しかし、内容自体には関心を示した。『ジョーズ』のヒットで監督としての名声を高めたスティーヴン・スピルバーグは、『1941』(1979年)の旧日本軍潜水艦艦長役のオファーを三船に出す。三船はこれを受けたが、作品の興行としては失敗に終わった。三船本人はスピルバーグ、ジョン・ベルーシ、ジョン・ランディス、ジョン・ミリアスら「ミフネ・リスペクター」に囲まれ、気持ちよく仕事をした。その後、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(1983年)ではダース・ベイダーの素顔となるアナキン・スカイウォーカー役をオファーされるが、これは断っている。ルーカスはダースベイダーの素顔をメイクでできるだけ三船に似せるように指示したという。なお、『ベスト・キッド』(1984年)のミヤギ役も断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた)。米国人に最も有名なのはテレビドラマ『将軍 SHOGUN』(1980)の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビ『サタデー・ナイト・ライブ』ではジョン・ベルーシが『用心棒』の主役の物まねで人気を博した。ベルーシは『1941』で三船と共演しているが、直接の絡みは無い。米国産コンピュータRPGの『ウィザードリィ』には、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また、『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』には、「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年『用心棒』でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞、1980年『将軍 SHOGUN』で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他には、フランスの芸術文化勲章受章、モントリオール世界映画祭特別グランプリ受賞、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。アメリカ雑誌『PLAYBOY』でも「世界で最もセクシーな男性10人」に選ばれたことがある。また、フランスの映画雑誌で「セクシーな俳優10人」にも選ばれた。三船への海外からのオファーは、晩年においても1年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(『デルス・ウザーラ』や『スター・ウォーズ・シリーズ』など多くの出演辞退はこれに該当)」、「世界各国のオールスターが出演し、その日本代表として指名」、「俳優、三船敏郎単体より、三船プロとして仕事を受けられるか(『グラン・プリ』、『レッド・サン』、『ミッドウェイ』、『1941』などが該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉(黒澤解任後の『トラ・トラ・トラ!』への出演依頼に対して、黒澤の再登板と日本サイドの制作を三船プロに一任することが受け入れられなかった等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。また、出演を辞退する際も丁重に対応した。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては、本人が自費で海外に渡航し、スケジュールを調整していたと野上照代に話している(実際、1972年~75年まで、海外の作品に出演していない)。三船本人は海外ロケは「出稼ぎ」と称し、億劫であるとして、三船プロとしても仕事を受けやすい国内ロケの作品(『将軍 SHOGUN』、『最後のサムライ ザ・チャレンジ』、『武士道ブレード』)に多く出演した。また、三船プロ発展のため、ハリウッド映画に拘らず、様々な国の映画に出演し、同行のスタッフを研修させていることも特筆に値する。晩年は、『シャドウ・オブ・ウルフ』(1993年)のエスキモー族長役や『ピクチャーブライド』(1994年)の日本人弁士役としても出演した。『シャドウ・オブ・ウルフ』の出演オファーが来たドナルド・サザーランドは、三船の出演が決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。三船の海外映画出演のギャラに関しては、『グラン・プリ』に出演の話があったときに、東宝のロサンゼルス支局の渡辺毅が、『グラン・プリ』のプロデューサー、エドワードルイスと交渉したものが、それ以後もベースになったという。当時、東宝からの出演料は600万だったというが、これでは安いと判断した渡辺は、出演料は30万ドル(当時のレートで1億800万)であるとルイスにふっかけ、それを相手が承知したという。三船敏郎が1997年に他界したときは「三船敏郎がクリスマス・イヴに死去」と、アメリカの有名な週刊誌「TIME」に大きく出て、葬式にはフランスからはシラク大統領、アラン・ドロンからも弔電が寄せられるなど、世界各国から弔電が舞い込み、皮肉にも改めて世界のミフネを知らしめる結果となった。また1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画『ミフネ』が作られ、ベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。この『ミフネ』という映画では“ミフネごっこ”というチャンバラ遊びが子供の間で行われていたことが描写されており、かつてヨーロッパにおいて子供たちの間で“ミフネごっこ”が流行っていたことが窺える。米国のエンターテインメント雑誌「Entertainment Weekly」で行われたアクションスターたちに序列を付け、世界から25人を選抜しようという企画で尊敬すべきアクションスター25人に選ばれている。三船が他界した翌年のアカデミー賞授賞式のメモリアル映像では、三船の映像が映し出された時、大きく拍手喝采が起こったこの映像集に登場したことは、三船がアカデミーの会員であったことを証明している。ある年のアカデミー賞授賞式のレッドカーペットでのセレブインタビューで「好きな日本の俳優は誰ですか?」と聞いたところ、ほとんどのセレブが「トシロー・ミフネ」の名をあげた。「他に誰がいるっていうの?」というセレブもいたという。1983年、シカゴで「三船敏郎フェスティバル」が開催され、翌年の1984年にはニューヨークでも開催された。海外各地で開催される三船主演作特集上映その他の催しに努めて出席、国際親善に寄与すると共に、モントリオール世界映画祭の審査員、ロサンゼルス市の名誉市民に選ばれ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)から学位を贈られたほか、ロサンゼルス郊外ブエナパークのムービーランド・ミュージアムにろう人形が置かれている。"監督経験者を含む。"役名/ゲームタイトル山の男の唄(1956年5月発売、コロムビアレコード)無法松の一生(1958年7月発売、コロムビアレコード)歌唱:村田英雄『TOY'S Hello Happy!』、『発掘堂』から菊千代(『七人の侍』)、桑畑三十郎(『用心棒』)、椿三十郎(『椿三十郎』)のフィギュアが発売されている。また、『三船プロダクション』・『3R』・『アートストーム』から三船敏郎連合艦隊司令長官ver(夏服・冬服)のフィギュアも発売されている。三船敏郎のオフィシャルグッズブランドである「Mifune Spirits」が三船敏郎Tシャツを制作している。
出典:wikipedia
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