大阪府立夕陽丘高等学校(おおさかふりつゆうひがおかこうとうがっこう、英称:Osaka Prefectural Yuhigaoka High School)は、大阪府大阪市天王寺区にある公立高等学校。略称「夕陽(ゆうひ)」。1906年に大阪府立島之内高等女学校として設立された。全日制普通科と音楽科を設置している。音楽科は1995年に設置された。学校は難波宮朱雀大路跡と推定されている場所に位置し、また旧大阪府女子師範学校跡でもある。戦前は船場の商家の子女が多く通った。同窓会は清香会と称する。清香会などの主催で海外研修がほぼ毎年あり、主に音楽科の生徒が参加するウィーン音楽研修と、オーストラリアやニュージーランドでの英語研修が交互に実施される。音楽研修は現地音楽家によるレッスン、演奏会出演、音楽会鑑賞、音楽関係の名所訪問など盛りだくさんなプログラム。英語研修では、一般家庭にホームステイしながら英会話の講習を受け、地元高校生との交流や観光も行われる。音楽科設置を機に校舎を全面的に改築し、1996年に7階建ての校舎が完成した。320席のオーケストラホール「ヴィオーラ・ホール」、冷暖房完備の音楽教室、レッスン室、練習室、スタインウェイを含むグランドピアノ、コンピューター音楽システム、LAN教室、開閉式ガラス屋根の室内プールなどの設備を持つ。音楽科では音楽理論、演奏法、ソルフェージュなど専門科目を履修。中田喜直、朝比奈隆、佐藤しのぶ、五嶋みどり、中村紘子ら著名音楽家を迎えた特別公開講座・特別レッスンも実施している。生徒は日本演奏家コンクール、日本クラシック音楽コンクール、全日本学生音楽コンクールなどで上位の成績を修め、音楽系大学に数多く進学している。校則で男子・女子共に標準服が定められているが、通常授業日は基本的に何を着て登校してくるかは生徒の自由である。女子標準服は、ブルーの襟にラインが2本入っているセーラー服である。2006年に従来の3学期制を廃止し、新たに2学期制を導入した。また45分7限授業を導入している。2011年より、イングリッシュフロンティアハイスクールズG2グレード校に指定されている。1906年3月9日に大阪府立島之内高等女学校として設立が認可された。大阪市南区千年町(現・大阪市中央区東心斎橋2丁目)にあった大阪市立第二高等女学校の元校舎(もとは大阪市立千年小学校(大阪市立大宝小学校分校)の元校舎)を利用して仮校舎を設置し、1906年4月25日に第1回入学式が実施された。1908年11月には大阪市南区天王寺夕陽丘町(現・大阪市天王寺区夕陽丘町)の校舎に移転した。移転直後の1909年1月18日付で、移転先の地名をとった大阪府立夕陽丘高等女学校へと改称している。創設当初は4年制だったが、1921年度入学生より修業年限が5年となっている。1934年5月、大阪府女子師範学校および附属小学校・附属幼稚園 の跡地(現在地)に校舎を新築し移転。移転後の改称は反対運動が起こったため見送られている。太平洋戦争の影響で、1944年には3年生以上の生徒が勤労動員の対象となり、また1945年には臨時措置として4年制へと短縮された(1946年5年制に復元)。1945年6月15日の第3回大阪大空襲では学校周辺に大きな被害を受けたが、校舎への被害は免れた。学制改革により、1948年に大阪府立夕陽丘高等学校が発足し、全日制普通科を設置した。大阪府立天王寺高等学校(旧制大阪府立天王寺中学校)と男女生徒および教職員を交流して男女共学となった。生徒交流については、夕陽丘・天王寺両校とも原則として関西本線線路を境に、北部在住者は夕陽丘高校・南部在住者は天王寺高校へ振り分けられることになった。直後の1948年5月にはGHQの指示により、天王寺高等学校の校舎が新制中学校校舎に転用されることになった。これに伴い、校舎を明け渡した天王寺高等学校が夕陽丘高等学校内に移転して2校同居する形となった。夕陽丘・天王寺の2校同居は1951年まで続いたが、天王寺高等学校は1951年までに元の校舎へと復帰している。1995年には音楽科を併設している。運動部と文化部に約7割の生徒が在籍している。大阪府内の高校では珍しくホッケー部があり、過去何度もインターハイ出場を果たしている。また陸上競技部からは過去全国インターハイに5人、近畿インターハイに26人がそれぞれ出場している。合唱部は1954年度のNHK全国学校音楽コンクールで第3位(銅賞)を獲得している。ソフトテニス部は2006、2007年と2年連続で近畿大会へと駒を進めている。
出典:wikipedia
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