バズーカ()は、アメリカ合衆国で開発された携帯式対戦車ロケット弾発射器の愛称である。戦後アメリカから西側諸国に多数が供与され、携帯対戦車兵器の代名詞的にもなったため、以来同様の対戦車ロケット弾発射器や無反動砲を一般名詞的に「バズーカ」と呼ぶこともある(後述#名称についてを参照)。主に装甲戦闘車両やトーチカを攻撃するための兵器で、外見は無反動砲と非常に類似しているが、バズーカは砲身内部にライフリングが刻まれておらず、弾体自身に内蔵された推進薬で加速・自力飛翔するロケット弾を撃ち出す「発射器(ランチャー)」であるのに対し、無反動砲は高速で後方に噴出する燃焼ガスで反動を相殺する(作用・反作用の法則)火薬発射型の「砲」であるという点で異なっている。日本では「バズーカ砲」などとも呼ばれるが、バズーカの発射器には火砲のような薬室や閉鎖機構はなく、構造的には単なる鉄パイプに推進薬点火用の簡易発電装置(電磁誘導を利用したもので、コイル状に巻いた電線の中心に勢い良く棒磁石が差し込まれることにより電流が発生する)またはバッテリーを用い、発電装置の作動スイッチをトリガーとしたもので、「砲(ガン)」ではなく「噴進弾発射器(ロケットランチャー)」に分類される。無反動砲同様、後方爆風(バックブラスト)が発生するため発射器の後方に物や壁があってはいけないことと、仰角を付け過ぎると射手後方の土砂などが吹き飛ばされ危険なこと、後方爆風によって巻き上がる土煙で射手の位置を容易に特定されてしまうなどの運用面の弱点が存在する。また、ロケット弾は発射と同時に後方に燃焼炎と燃え滓を噴射するも難点の一つで、狭い場所では運用者と周辺の人員が負傷する恐れがあった。ロケット弾発射器は同口径であれば砲に比べて軽量であり、手軽な反面、砲弾に比べて発射するロケット弾の初速が低く、装甲目標に対する貫通力に劣るという欠点があるが、初速の遅い砲弾でも高い装甲貫通力を発揮させる成型炸薬弾頭(HEAT)の実用化により、当時の戦車に対して非常に有効な歩兵用携行火器となった。アメリカ軍欧州戦域総司令官を務めたドワイト・D・アイゼンハワーは、“第二次世界大戦を勝利に導いた兵器”として、「原子爆弾」「C-47輸送機」「ジープ(ウィリスMB/フォードGPW小型四輪駆動車)」、そしてこのバズーカを挙げている。公式にバズーカ()の名称で呼ばれるものには、大きく分けて第二次世界大戦で使用された60mm(2.36インチ)口径型と、朝鮮戦争以降使用されるようになった89mm(3.5インチ)口径型がある。アメリカ陸軍における正式な名称は各モデルともRocket Launcher(ロケット発射器)で、例えばM1バズーカの制式名称はRocket Launcher, M1(M1ロケット発射器)である。また、89mm口径型はスーパーバズーカ(Super Bazooka)の愛称でも呼ばれた。「バズーカ(Bazooka)」という愛称は、当時アメリカで有名であった音楽コメディアンが愛用した自作の楽器に由来する。この楽器は1つの漏斗と2つのガスパイプを組み合わせた単純な構造の金管楽器で、第二次世界大戦中、兵士たちはM1A1及びM9のラッパ状に広がったデフレクター(吹き返し防止装置)の形状をこの楽器に見立て、“バズーカ(Bazooka)”と通称するようになった。この由来にあるように、「バズーカ」という名称は、本来は「ある形状の対戦車兵器」一般を指す名詞ではなく、特定の形式の兵器を指す固有名称に近いものだが、世間一般におけるバズーカへの認識は「特定の形式の携帯式対戦車ロケットランチャー」のことではなく、単に「携帯して射撃できる口径の大きい火器」の一般名称である場合が多い。1942年、陸軍武器科士官のエドワード・ユール中尉とレスリー・A・スキナー大佐(Leslie A. Skinner)が共同で開発した。また、個人携行の対戦車ロケット発射器というコンセプト自体は第一次世界大戦中にロケット兵器の研究を行っていたロバート・ゴダード博士と博士によって提唱されたものである。ゴダードは1920年代から別のプロジェクトに着手していたが、ヒックマンはロケット兵器部長として1940年代のロケット兵器開発を主導し、バズーカ自体の開発にも携わっている。当時、第2次世界対戦の勃発に伴いアメリカ軍ではモンロー/ノイマン効果を用いた成形炸薬を弾頭に持つ歩兵用携行対戦車兵器の開発を進め、手榴弾と小銃擲弾として開発されていた。しかし、これらは人間が手で投げるには少々重すぎ、小銃擲弾であっても対戦車兵器としては射程が短すぎる、という難点があり、また成形炸薬弾として最良の効果を発揮する状態で着弾させるのが難しい、という問題もあった。この問題に対して、スキナー大佐率いる開発チームは「小銃擲弾をロケット推進式とする」というアイディアを発案した。当初、このロケット推進擲弾はむき出しのレールに載せて発射する方向で構想されていたため、「射手がレールからロケット弾を取り落とさないように安定して構えるにはどのようなレール形状にするべきであるか」「ロケット弾を発射した際の噴炎からどうやって射手を防護するか」ということが問題であったが、ユールが「ロケット弾を弾頭直径と同じ内径を持つ鉄パイプに装填して発射する」という方法を思いつき、1942年5月、スクラップヤードに集積されていた廃材から「チューブ式のロケット推進擲弾発射筒」を製作、試作の結果が良好であったことから、同年6月14日には正式な試作品であるT1が完成、試験の結果、T1より発射する2.36インチ成形炸薬弾頭ロケット弾は、100ヤード(91.44m)の距離で3インチ(76.2mm)の装甲板を貫通することができ、即座にRocket Launcher, M1として採用された。極めて単純で安価なこの兵器は、基本としては射手と装填手の2名により運用される。射手が発射器を肩に担いで構え、装填手が後部から弾頭の安全ピンを抜いたロケット弾を装填してロケット弾と発射筒を電気的に接続、発射準備が完了した後、装填手は後方爆風を浴びない位置に移動して射手の鉄帽を叩いて合図し、射手は最終的な照準をつけた後に発射する。装填を射手自身が行うならば、発射準備に時間を要するものの、射手単独でも運用可能である。発射すると筒口から飛翔していくロケットの燃え滓が射手の顔面に吹き付けるため、初期には発射時にはこれを避けるために射手には防毒面(ガスマスク)と手袋の着用が必須となっていた(後には顔面を覆うフェイスマスク付きゴーグルが弾薬に同梱されるようになった)が、改良されると筒先にデフレクター(吹き返し防止装置:初期にはラッパ状に広がった金網製の笊型のものが筒口近くに装着され、後には筒口そのものがラッパ状に広がった形状となった)が装備され、防炎装備がなくとも発射することが可能となった。最初のモデルであるM1は1942年11月に北アフリカ・チュニジアでの戦闘に投入され、以後、改良を重ねながらアメリカ軍の主力対戦車兵器の位置を確立することとなる。兵士が携行して使用する他、現地製作の二連装マウントに装着されてジープにも搭載されて用いられた。この他、小型の連絡・観測機に2~4基をまとめた対地ロケット弾発射筒として搭載された他、海軍の小型魚雷艇(PTボート)にも急増の6連装(3連装x2)マウントに搭載したものが対地/対艦艇装備として用いられている。M1とM9の各種バズーカは第二次世界大戦で連合国各国に供与された。最も多数の供給を受けたのは自由フランス軍で、発射器11,350基が供給された。イギリス軍には2,100基以上(正確な数は不明)が供給され、英軍向けとは別にカナダ軍に170基が供与された。開戦後連合国に参加したブラジルへは約2,900基が提供され、中華民国へは2,000基が供与された。この他、ソビエトへのレンドリース品として約3,000基が送られたが、ソビエト軍ではバズーカに対して「不発の発生頻度が高く、対戦車ライフルに比べて信頼性が低い」との評価を下しており、大規模には使用していない。その後、「バズーカ」と総称される対戦車ロケット発射筒は、アメリカ軍においてはより射程の長い大口径無反動砲や対戦車ミサイル、もしくはより小型軽量なM72 LAWにその座を譲ってゆき、対戦車兵器としては1957年にはM18 57mm無反動砲およびM20 75mm無反動砲と共にM67 90mm無反動砲に更新されたが、M20は予備兵器として保有が続けられ、ベトナム戦争においても携行歩兵砲として少数ながら使用されていた。第二次世界大戦後にはNATOを始めとした西側諸国にM9が主力対戦車兵器として多数が供給された。朝鮮戦争後、西側諸国に供給されたM20はその後も長らく使用されており、その多くは1970年代から1980年代にかけて、より新しい時代に開発された携行無反動砲や対戦車ミサイルに置き換えられているが、開発・生産されて半世紀以上が経過しているものの、21世紀に入ってもM20を第2線級装備もしくは予備兵器として保有している国は多数存在している模様である。日本の陸上自衛隊においても、M9およびM9A1が警察予備隊の発足時に供与されている他、陸上自衛隊発足後にはM20A1B1が主力対戦車装備として本格的に導入され、M9およびM9A1は1960年代まで、M20は1980年代に入り後継の84mm無反動砲が導入されて置き換えられるまで運用されており、一部の部隊では2000年代に入っても予備装備としてM20の装備を継続している。最初の量産型であるM1は1942年6月14日に制式化され、11月のチュニジア戦線に投入された。発射するM6 対戦車ロケット弾は平均して3インチ(76.2mm)、最大で3.5インチ(88.9mm)の装甲板を貫通することができ、ドイツ軍装甲戦闘車両に対して高い攻撃力を示した他、掩体壕や建造物に篭った敵兵に対しても高い効果を示した。実戦での使用結果を受けて、使用するロケット弾と発火機構が改良された。M1ではロケット弾の装填後に発射筒後端上部のスイッチを操作することにより本体とロケット弾が電気的に接続される構造であったが、接触不良や通電不良による不発が多発したため、ロケット弾から伸びるコードを発射筒後端上部、ロケット弾固定用クランプの前方にあるスプリング式電極に直接接続する方式に変更されている。加えて、筒口に逆漏斗形の金網による吹き返し防止装置を装着し、M1A1として1943年1月に制式化され、同年7月より部隊配備された。M1とM1A1の最大の識別点は発射筒後部の上面にあるスイッチボックスの有無で、直接接続式に変更された-A1型にはこのスイッチボックスが廃止されている。スイッチは安全装置を兼ねていたため、-A1型では、装填操作時には銃床左側面にある通電状態確認用のパイロットランプを確認することが必須とされた。M1、M1A1共に初期生産型と後期生産型があり、下記のように照準器の形状とフォアグリップの有無で区分できる。なお、吹き返し防止装置は「照準器の視界を阻害するので邪魔になる」と装着せずに使用する例も多かったため、これの有無をもって型式を識別することには注意が必要である。M1は112,790基、M1A1は59,932基が生産された。M1A1を空挺部隊向けに発展させたもので、全体を2分割可能な構造として携行時の全長を約半分に短縮できた。M1A1の金網製吹き返し防止装置を廃止し、発射筒口をラッパ状にして吹き返し防止形状としている。分割構造となったことに伴い、照準器はM1の照星/照門式からグリップ後方に照尺式のものが装備される形式に変更されている。銃床(肩当て)がM1の木製から板金製のスケルトン型となったことが外見上の大きな特徴で、電池はトリガーグリップに内蔵され、安全装置兼用のスイッチがグリップの後面に備えられている。M9は1943年6月に制式採用され、同年10月より生産が開始された。部隊配備は翌年からに遅延したものの、1944年6月のノルマンディー上陸作戦より使用され、空挺部隊のみならず一般部隊向けにもM1A1の更新用として配備された。「気温が低いとバッテリーが弱るため充分な電力が供給されない」という問題に対応するため、着火装置をバッテリーを電源とするものから電磁誘導を利用した簡易発電装置に変更し、分割構造を改良、後部筒の構造を強化し、照準装置を金属製折畳式のT43から光学式のT90としたM9E1も開発され、1944年4月に制式採用されてM9A1として同年8月より部隊配備が行われた。使用するロケット弾はM1A1に引き続いてM6A1が用いられたが、M6/M6A1の尖頭形状の弾頭は硬い物体に命中すると跳弾を起こしやすく、特に戦争後半に入り実戦投入された、避弾経始に優れた傾斜装甲を持つドイツ軍のパンターやIV号駆逐戦車といった新型戦車に対しては効果が著しく減じられる、という指摘が多くあったことから、弾頭形状を尖頭形から円頭形に変更、更に「輸送時や装填時に破損しやすい」との指摘が多かった露出形の安定翼を外周を覆った円筒型に変更した新型成形炸薬弾頭ロケット弾、M6A3が開発され、1944年9月より配備された。M6A3は-A1に比べて初速が多少低下したものの、装甲貫通力は最大4インチ(101.6mm)に向上している。1945年5月までに、M9は26,087基、M9A1は277,819基が生産された。M9A1を基に各部の設計を見直し、本体を鋳造アルミニウム合金製としてM9A1より5.57lb(約2.53kg)軽量化した更なる改良型。射撃時の安定を増すための二脚が装備されていることと、肩当ての形状がM9の2段カーブ型からアーチ型となっていることが大きな特徴である。照準器の装着法を改良し、M9では上下に動く横型の照尺式であったが、M18では前後に動く縦型に変更され、照準器を折り畳むための可倒軸が調整可能なものとなり、左右方向の照準調整が可能となった。照準器自体はT90光学照準器がそのまま使われているが、ゴム製のアイピースが追加されている。ゼネラル・エレクトリック社により当初は“M9E2”の名称で開発され、後にT90に改称されて1945年4月に“Rocket Launcher,M18”として制式化された。同年春より部隊配備が開始される予定であったが、本格量産に入る前に欧州戦線が終結し、太平洋戦線向けに配備先が切り替えられたもの、発注は1,000基で打ち切られ、500基が生産され350基が部隊配備されるに留まった。1944年7月と11月に第704戦車駆逐大隊において行われた、鹵獲ドイツ戦車各種に対するアメリカ軍装備火砲の実射実験の結果、改良型のM6A3であってもドイツ軍の新型戦車に対しては威力不十分であり、パンターやティーガーIの正面装甲を貫くことは難しかった。これを受けて更なる威力向上型のロケット弾が開発され、炸薬をペントライトに変更したM6A3/C(“C”は“"Composition"”.「混合爆薬」を示す)成形炸薬弾頭ロケット弾が完成し、装甲貫通力は最大5インチ(127mm)にまで向上したが、最終的には大口径の新型“バズーカ”が開発されることが決定し、M18の口径を3.5インチ(88.9mm)に拡大したM20が開発された。M1からM18までの各種“バズーカ”は、第二次世界大戦中だけで本体:約477,128基(うちM9A1 277,819基)、ロケット弾:15,603,000発が生産された。生産数の大多数はゼネラル・エレクトリックによるもので、この他チェイニー・ビゲロー鋼線工業(Cheney Bigelow Wire Work)が約40,000基(全てM9A1、1944年6月より1945年5月まで)を製造した。M1及びM9の2.36インチ(60mm)バズーカは実戦において高い有効性を示したが、ドイツ戦車がより装甲の厚いものが投入されるようになったことから、より威力の大きい物が求められた。ドイツ軍がM1をコピーして口径を拡大したパンツァーシュレック(後述「#ドイツ軍による模倣」参照)を鹵獲したものと比較した結果、口径拡大の有効性が実証されており、M9の改良型であるT90(制式化されM18となる)の口径を3.5インチ(89mm)に拡大したものが開発された。この89mm口径の新型バズーカは新開発のM28 3.5インチ成形炸薬ロケット弾を用いて最大で11インチ(約280mm)の装甲貫通力を発揮できた。1944年の後半には設計が終了、1945年の初頭には試作品が完成したが、程なく戦争が終結したため、同年10月にM20として制式採用されたものの、試作のみで開発計画は一旦打ち切りとなった。朝鮮戦争において、第二次世界大戦中にはドイツ重戦車の側面を狙い戦果を挙げたはずの2.36インチ(60mm)M9バズーカは、T-34-85に対する攻撃で十分な効果をあげられなかった。原理的にはM9バズーカの使用するM6A3対戦車ロケット弾にはT-34の装甲を充分に貫通する能力があったはずで、「確かに命中しているのに撃破できない」「命中しても装甲表面で弾かれる」「複数発を命中させても敵戦車が平然と行動している」という例が多数報告され、この事実は米軍首脳に大きな衝撃を与えた。この原因については、大戦後5年が経過した在庫のロケット弾の炸薬が劣化していた、あるいは成形炸薬弾頭は装甲を貫通する能力はあったとしても、そこから中の人間や機関に損害を与えるには加害範囲が小さかったなど、いくつかの説が唱えられている。この事態に際し、試作のみで計画中断とされていたM20「スーパー・バズーカ」が急遽大量生産され、朝鮮半島へ空輸された。M20スーパーバズーカは1950年7月20日の大田の戦いで実戦投入され、以降この当時の米韓連合軍にとって唯一のT-34を撃破しうる対戦車兵器として活躍した。大田市街戦においては、アメリカ陸軍第24歩兵師団師団長ウィリアム・ディーン少将が、自らスーパー・バズーカを担いで戦車狩りを行って兵士たちに新兵器の威力を示したという逸話が残っている。M20の投入により、米韓連合軍はようやくまともな対戦車戦闘が行えるようになり、開戦当初大きな脅威であった共産軍戦車は、戦争後半には「部隊の中で誰が一番多く撃破できるか」の賭けの対象でしかない」と言われる程度の存在となった。M20は原型のM20の他、主要部品を鋳造アルミニウム製とし、約1ポンド(453.6グラム)重量を削減した軽量型のM20B1、ロケット弾の発火機構をM1バズーカと同じく装填後に発射筒後端上部のスイッチを操作することにより本体とロケット弾が電気的に接続される構造に変更し、分割部の構造を強化、肩当ての前部にある単脚を廃止したM20A1が朝鮮戦争停戦後の1952年より生産され、既存のM20B1も発火機構を-A1と同方式に改造する改装が行われており、改装された-B1にはM20A1B1の制式名称が与えられている。-A1と-B1A1は標準的には2脚とその装着/収納金具、および前述の肩当て部単脚がないことと、発射筒後端上部にスイッチボックスがあることで識別できる。M20を基に、後筒部分に次発装弾装置と3連弾倉を装備して連発が可能にしたもので、1951年に制式化、“Three Shot Bazooka”(三連射バズーカ)の名称で呼ばれた。後筒部を二重化し、上部に装着した弾倉より次弾をレバー操作で内筒を開閉して装弾することにより毎分8~10発(弾倉交換時間を含む)の連発射撃が可能で、従来のバズーカが単発・手動装填のために連続射撃が難しい点を解決するものとして期待されたが、複数の予備弾を収めた弾倉を装着した状態では総重量が40kgに迫るものとなり、人間が肩担することが難しいものとなった。このため、運用には専用の三脚(重量40ポンド(18.16kg)と3名以上の要員が必要となり、「携帯式対戦車兵器」とは分類し難いものとなった。同じく大型大重量で肩担が不可能なM40 106mm無反動砲に比べれば軽量なものの、威力で劣るにもかかわらず運用面での優位性がないことから、兵器としての存在意義が疑われるものとなり、更に、実用試験の結果、従来のものを人力で手動装弾することに比べてさほどの速射性が発揮されないこと、実射実験中に連続射撃を行ったところ、装填部の過熱により弾倉内の次弾が暴発する事故が起きたことから、制式化され1,500基が生産されたものの、部隊配備は行われず、試作のみで計画終了となった。M25は実用試験の一環として朝鮮戦争で試験的に運用されたが、実際に実戦で使用されたかについては不明である。“地雷”の名称だが、89mm(3.5inch)バズーカの対戦車ロケット弾を利用した対戦車トラップの一種で、M28ロケット弾、M134発射筒、M61発火装置、及びM2トラップワイヤーと射角調整装置で構成される。トラップワイヤーを仕掛け、発射筒の射角を調整した後にロケット弾を装填、発火装置にロケット弾からの撃発ケーブルとトラップワイヤーを接続することによって設置される。目標となる車輌がトラップワイヤーを踏むか切断することにより、事前に調整された方向(発射筒の向けられている方向)にロケット弾が発射されて目標に向かって飛翔する。射程は約30mで、手動により作動させることも可能である。1961年より開発され、1968年11月に制式化された。約50,000セットが生産され、少数がベトナム戦争において特殊部隊により使用された。1990年代には予備兵器とされ、以後は耐用年限が過ぎたものから順次処分されているが、2000年代でも少数がまだ保管されている他、アメリカの同盟国に供給されたものは装備が継続されている模様である。ドイツ国防軍は北アフリカ戦線で鹵獲したM1バズーカと60mm対戦車ロケット弾を元に8.8cmロケット弾開発を行い、1943年にこのロケット弾を使用する対戦車兵器、、通称“パンツァーシュレック”(Panzerschreck:「戦車の脅威」の意)が開発・生産され、東部戦線ではT-34を撃破する威力をみせた。また、同口径で基本設計の同じ8.8cmロケット弾を使う車輪付きの牽引式対戦車ロケット砲、(後にに改称)、通称“プップヒェン”("Puppchen"=お人形ちゃん、の意)も開発・生産された。パンツァーシュレックとプップヒェンのロケット弾はM1バズーカよりも大型で、これらは成形炸薬弾の貫通力が口径に比例する法則の通り、口径60mmのM1バズーカより強力だった。なお、ドイツ軍の使用したもう一つの代表的な携帯式対戦車兵器であるパンツァーファウストはロケットランチャーではなく、無反動砲に分類される兵器で、バズーカとは発射原理が全く異なる火器である。世間一般におけるバズーカへの認識は、前述したような「特定の形式の携帯式対戦車ロケットランチャー」のことではなく、単に「携帯して射撃できる口径の大きい砲」の一般名称である場合が多い。そのためか漫画やアニメなどの創作世界では、バズーカと称される火器から発射されるものは無誘導ロケット弾に限らず、砲弾・ミサイル・ビームなど多岐にわたっている。また、現実のバズーカは重量や運用思想、技術的問題などから単発単射式(発射機使い捨て型と発射機再利用型に分かれる)であるが、創作世界で使用されている架空のものは演出上、弾倉(ビームなどを使用しているものはエネルギーパックなどを用いる)を使用する、あるいはそれすらなしで連続発射が可能となっている場合が多く、重量面でも走りながら片手での保持射撃が可能なほど軽量化されており、発射時の反動や噴射炎による二次被害もあまり描写されない。
出典:wikipedia
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