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伊達順之助

伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年)1月6日 - 昭和23年(1948年)9月9日)は、満蒙独立運動や山東自治聯軍に参加した大陸浪人・馬賊。戦国武将伊達政宗の直系子孫にあたる。父は仙台藩知事・伊達宗敦(順之助は宗敦の六男)。中国名は張宗援。順之助は華族の子に生まれながら素行が悪く、麻布中学、慶應義塾中等部、学習院、立教中学など幾つもの学校を転々とした。1914年、旧制海城中学校卒業。この間、立教中学在学中、1909年5月13日には東京明石町の路上で縄張り争いから不良学生を射殺する事件を起こし、1909年10月15日の東京地方裁判所判決では懲役12年、1910年6月の控訴審判決では懲役6年を宣告されたが、伊達家の弁護士の依頼により探偵岩井三郎が被害者の素行調査を行い、上告審を有利に進め正当防衛であった事を立証、大審院の差し戻しによる宮城控訴院判決では執行猶予を得て釈放された。北一輝、大川周明、出口王仁三郎などとも親交が深く、1916年に張作霖爆殺計画、1919年に山縣有朋暗殺計画(共に失敗)等、過激な行動が目立った。1916年に川島浪速が粛親王善耆らとおこした第二次満蒙独立運動に順之助も参加し、その頃から大陸浪人として活動していたと思われる。第二次満蒙独立運動失敗後は山東自治聯軍に参加し、1929年に張宗昌(奉天派)とは義兄弟の契りを交わし張宗援と名乗った。1919年、朝鮮総督・斎藤実預かりとなり朝鮮に渡った。義州国境警隊長となる。1923年、武装朝鮮人の根拠地を急襲する。1931年、中国に帰化し張宗援と称した。山東省自治を目指す。1937年、満州国軍四千名を率い山東に出陣する。1939年、「掖城事件」が勃発、伊達順之助部隊も解散となる。1945年、日本軍、順之助に「張宗援」部隊再編成を持ちかけるも不調に終わった。終戦後、順之助は中国青島にて日本人戦犯として連行、戦犯とされ青島拘留所、上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所に収監され死刑宣告を受けた。のちに上海監獄に送られ、1948年9月9日銃殺刑に処せられた。

出典:wikipedia

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