クチン (,ジャウィ:کوچيڠ,) は、マレーシア、サラワク州の州都であり、クチン省の省都である。ボルネオ島北西部の東マレーシアに位置するクチンは、南シナ海やサラワク川の河口に臨む河港で、ボルネオ観光の拠点でもある。街の中央を流れるサラワク川の南岸は、商業施設や官公庁等のある市街地。住民は華人、マレー人、20以上の先住民からなる。人口は約33万人(2010年)。古くから南シナ海航路の要地であったクチンは、サラワク王国の首都として発展し、現在でもコロニアル調やマレー風の建物が立ち並ぶ。多民族都市のクチンは、中華街やインド人街もあり、料理のバラエティーも豊富で、東南アジアの各地の趣を肌で感じ取ることができ、東洋のエキゾチックな雰囲気が漂う街並みとなっている。クチンの行政は、南北2つの区域に分かれており、市長も二人存在する。クチン北部は北クチン特別市 (マレーシア語:Dewan Bandaraya Kuching Utara))の管轄で、南部は南クチン市 (マレーシア語:Majlis Bandaraya Kuching Selatan))の管轄となる。北部はマレー系とブミ系の住民が多く、南部は中国系が多い。19世紀半ば、川の北側は藩王の宮殿だけだったので一般庶民のための橋をかける必要がなく、現在でもサラワク川にかかる橋が2本つながっているだけのため、1980年代より南北に権力が分かれていると言われている。なお、サラワク川南側のクチン中心部は、北クチン特別市の管轄である。200余年前までサラワクは、ブルネイのスルタンの支配下で、ラジャ(藩王)によって治められており、地元民の抵抗が強かった。1839年にクチンにやって来たイギリス人探検家のジェームズ・ブルックは、1840年にクチンで発生したダヤク人の暴動の際、ラジャから暴動を平定したらラジャの地位を譲位すると言われ、英国海峡植民地政庁と協力して暴動を鎮圧した。この褒賞として、ジェームズ・ブルックはラジャ(藩王)に任ぜられて、サラワクを割譲され、1841年に「白人王」として彼自身が統治するサラワク王国が建国した。クチンは当時より首都とされ、政治・経済の中心地として重厚なコロニアル調の建物が次々と建てられた。その後100年はブルック家の治世で、イギリスの軍事力・政治力を背景にブルネイの領土を獲得して国土を拡大した。しかし、1941年12月24日に日本軍が占領し、第二次世界大戦終戦まで日本軍の軍政下に置かれる。1945年日本降伏後、オーストラリアに亡命していた第三代国王ヴァイナー・ブルックが王位を辞退し、サラワクはイギリスの直轄植民地となり、クチンはその中心地となった。1963年にサラワクは、マラヤ連邦に合併し、連邦の中の「マレーシア」へ統合したが、現在でも高度な自治権を持つ地域となっている。1988年には、クチン市として市制施行。クチンは、マレーシア語で猫を意味し、猫の町として有名であり、街のいたるところに猫の彫像があり、市庁舎内には猫の博物館もある。もっとも、クチンの語源は、クチン周辺に果物の「マタ・クチン」(、リュウガンの近縁種)の木が数多く自生していたためという説や、最初に入植したインド人の言葉のヒンドゥー語の「コーチン(Cochin、港)」という意味だったという説もある。現在では、猫が町のシンボルとしてすっかり定着していて、毎年8月には「猫祭り」が開かれ、8月第一土曜日には猫の仮装パレードが行われる。北クチン、南クチンとも、市章に猫があしらわれている(本記事上部参照)。クチン近郊は、5社のバスが運行している。中心部にバス・ターミナルはなく、クチン・モスク周辺にバス乗り場が集中している。長距離バスは中心部郊外のバスターミナルから発着する。シブまで、高速船が就航している。
出典:wikipedia
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